第九章
井辻美土里
大田署の野上は木暮から捜査の進捗状態をすべて知らされていた。
今日も、仁多郡近辺で井辻美土里の手がかりを追った後、署に戻って来たばかりであった。
すでに夜も八時をとっくに過ぎている時間だった。
「野上刑事。並木さんとおっしゃる方が連絡が欲しいとの伝言です」、署員が野上に声をかけた。
「並木さんが? ありがとう」
野上は、腕時計を見ると並木の自宅にプッシュホンを押した。
「並木ですが」との声が、疲れ切った野上の耳に届いた。
だが、その次に届いた言葉に、野上の全身は平素のデカに戻ったのである。
それは誰も思いもしない言葉であった。
もちろん当の並木でさえ考えもしなかったことでもある。
「野上さん! 井辻美土里が現れました。仁多郡の横田です!」
「何ですって! それは本当ですか!」
「ええ! 私の友人が確かに彼女だと。それも実家に現れたんですからまず間違いはないはずです。東京にはすでに知らせてありますから、明日には木暮警部が来るはずです!」
並木の友人とは、横田町の民俗資料館の学芸員・松永のことであるのは言うまでもない。
昨年、仁多郡横田に行った時、並木と木暮は井辻美土里の写真を松永に渡して、
『何かあったら連絡を頼む』と言い置いていたのだ。
並木は、松永から聞き得た情報を詳しく話すと電話を置いた。
明日は並木は出勤日である。事件の捜査には役立ちたいが、あくまでも縁の下の力持ちに徹するしかないのだった。
翌日の仁多郡…。
時間は十時を少しほど過ぎた頃だった。木暮と工藤は朝一番の飛行機で島根に来たのだ。
木暮、工藤、野上の三刑事は、松永学芸員と共におろちループを見上げる古い旧家の前にいた。
井辻美土里の実家である。
木暮は昨年この場所に佇んで、巨大な大蛇の胴体を見上げたことを今更のように思い出していた。
(やはり、ここが一連の事件の原点なのだろうか?)との思いが木暮の心に沸々とわき上がっていたのだ。
木暮と同じように、うねる大蛇を見上げる工藤と野上に松永が声をかけて、旧家の重厚な門を指さした。
「昨日の十時過ぎです。久しぶりにここを通りかかったのですが…車が止まっていたんです。乗用車で、そこの大木の蔭です。ナンバーを見ると品川ナンバーでしたので、最初は観光客の車とばかり思っていたのですが、ふと門を見るとカギが開いていました」
「それでしばらく様子を見られたんですね?」と、野上があたりを見回して訊いた。
「ええ。まさか無断で入るわけにはいきませんからね。私は車を塀の向こうに回して品川ナンバーの車と門が見える位置に隠れたんです。たぶん十分くらい経った頃だと思うんですが、一人の女が出てきたんです」
「それが写真の女性だったんですね?」
「ええ、サングラスをしていましたが、間違いはないと思います。ちゃんとカギをかけていましたからね。それに背格好も伺った通りだと思いますが…」
「それから女はそのまま立ち去ったんですね」と、木暮。
「ええ。小脇に本のような物を持っていましたが」
「本? とにかく警部! 行きましょう」
野上は、今はまだ見せるべき相手のないポケットの中の捜査令状を木暮に渡して、門に向かって歩き始めた。
「工藤君! 行こう」、木暮も手渡された令状を一度しっかりと見つめると歩き出した。
やがて朽ち果てるはずの門は、まだ厳重とも言える鎖で閉じられていた。
木暮の合図で、工藤が大型のペンチでねじ切った。
「ガシャ」という鎖の落ちる音を聞くと、木暮はゆっくりと内側に観音開きの戸を押し開いた。
三十メートルほど先に平屋だが豪勢とも思える造りの母屋が見える。
その母屋に続くように納屋と三棟の土蔵が見えた。
想像するしかないが、敷地はたぶん二、三千坪はあるのだろう。野球場の広さほどと思えば想像はつくが…。
玄関に続く玉石が敷き詰められたアプローチの両側は、主が絶えて久しいためか雑草と庭木が伸び放題に伸び、哀れさと不気味さを四人に味わえさせた。
「警部! 見て下さい。誰かが…それも何人もがここを通った形跡があります」
野上は、片膝をついて玉石の小道を見つめている。
綺麗に敷き詰められていたはずの小石が乱雑に散らばっているのだ。
「ええ、私も妙だとは思いましたが…どうも何かを運び込んだか出したようですね」
小道が置かれている広い庭は、四月の草いきれがあたりに充満する陽気であった。
だが、四人が四人とも言葉に出来ない何かを感じ、そして何かが起こる予感を禁じ得なかった。
四人は、立ち上がるとゆっくりと母屋に向かった。
ガラス戸の玄関をこじ開けて中にはいると、広い土間があった。天井は一抱えもある梁がむき出しで何重にも組合わさっている。
土間の壁は厚い土壁である。
むっとかび臭い空気が四人の鼻孔をついた。
土間の右手と左手、そして正面奥に八畳と思える部屋が見えた。
各部屋は襖で区切られ、全体としては田の字型が幾つもある造りのようである。そして、外側の部屋は周り廊下でぐるりと囲まれている。
その周り廊下の中に和室と、納戸、そして仏間が配置されていた。その数は三十を軽く越えていた。
家財道具も、この屋敷に人が生活していた当時のままに放置されているようである。
「全くすごい屋敷ですね! 私は初めてこんな大きな家に入りましたよ」と、野上が少なからず感嘆の声を上げた。
もちろん木暮も工藤も同様であった。
「この井辻家は、代々の庄屋でかつては本陣にもなっていた旧家ですよ。もちろん名字帯刀も許されていました」、松永が三人に説明した。
「もし、井辻美土里が生存していなかったら、この屋敷はどうなるんでしょうね…」と、工藤が再び全体を見回して呟いた。
「それはともかく、土蔵と納屋を調べてみましょう」、野上が木暮を促した。
母屋の隣に建つ三棟の土蔵は、ところどころ土壁が剥げたようになってはいるが、母屋に似合った威風堂々たる造りの倉のようである。
どの倉にも高い位置に一つだけ窓が見えるが、二つの倉は厚い土の扉で締め切られている。窓からむき出しの鉄格子の枠が取り付けられているのが見えるのは、一番奥の倉だけであった。
「野上さん。あの倉から調べますか」、木暮が指さしたのは一番奥の倉である。
倉の建つここには玉砂利はひかれてはおらず、草がぼうぼうと生える中庭だった。
「かつては米倉だと聞いていますが」と松永が説明した。
二十センチはあろうと思われる土蔵の厚い戸が、松永の手で開かれた。
多くのこうした土蔵の様子をよく知っているからで、今日はそのための準備を頼んでもあったのだ。
土蔵の中は真の闇である。
「これを」と、松永が懐中電灯を木暮に渡した。
懐中電灯の明かりがついたとき、中は狭いと全員が感じた。そう感じたのは当然だった。
なぜなら、懐中電灯の明かりは四人のすぐ目の前で止まったからだ。明かりを止めたのは家財道具だった。
「木暮警部! 見て下さい! 冷蔵庫です。それにタンスにテーブル…。これはひょっとしたら!」
木暮はゆっくりと整理タンスに近づき中を開けた。
「野上さん…見て下さい。若い女性の衣類ですよ」
「…」
「…」
「…」
野上も工藤も、そして松永も声がなかった。
木暮は、隣にある洋服ダンスを開けた。やはり若い女性が着るコート類が収まっていた。
木暮は次に壁際に取り付けられている階段に懐中電灯を向けた。
四人は大きく頷きあうと、ゆっくりとクリの木で造られたと思える頑丈な階段に足を乗せた。
階段にも家財道具と同じようにほとんど埃が溜まってはいない。
何者かが、最近ここを歩いたようすが見て取れた。
四人は一歩一歩上にと登り始めた。階段は二十段で終わった。そこが二階だった。
木暮の持つ懐中電灯の丸い灯が、床と天井、そして三方を照らした。だが、二階には何も見あたらなかった。
ただ、鉄格子から差し込むわずかな陽の光だけが、長方形の形を床に落としているだけであった。
残る二つの倉も同じように開けられた。だが、最初の倉の二階と同じようにその中は空っぽだった。
「松永さん。どう思われますか? 母屋にもここにも、旧家の割には品物が少ないように我々は思うのですがね…」と木暮が、首を傾げて訊いた。
「ええ。私も…まさかと。驚いたというのが正直な気持ちです」
「どうも訳ありとみていいようですね」と、野上も頷いた。
「ま、それはともかく、あの荷物が井辻美土里の物だと確認をしなければなりません。野上さん、ご苦労ですが地元署の応援を頼みます。それまで周辺を調べていますので」
木暮は野上を玄関先まで送ると、再び中庭に引き返して周囲を調べ始めた。
野上が五人の警察官を伴って戻ったのはその三十分ほど後である。
そして、驚くべき事実が判明したのは、九人の目が再び全敷地に向けられた、ちょうど三時間後のことである。
「警部! ちょっと来ていただけませんか」、野上の声だ。
声は、タンスや冷蔵庫がある三番目の倉の後ろあたりだ。
「どうしました?」
「ここを見て下さい。周りと比べるとここだけが少しへこんでいます」
野上がいうように、土蔵の土壁から三メートルほどの範囲に無数の可憐な芝桜が絨毯のように広がり、一目見ただけではこうした状況は掴めないだろう。
だが、まさに猟犬のような捜査一課の刑事には、一目で“妙だ”との感が働いたのである。
野上の声を聞きつけて、すでに全員がその場に居並んでいた。
「工藤君!」と、木暮はその場所を指さした。
同時に五人の警察官が、ていねいにそこを掘り起こし始めた。その十分も経たない時であった。
「警部! 手です!」、一人の若い警察官が叫んだ。
やがて、すべてが九人の前に姿を現した。
それは、虚ろであるべき眼窩に黒土がびっしりとつまった白骨死体であった。
そしてその白骨の白さは黒土とあまりにも対照的であった。
「井辻美土里か!」と、何人かの声が同時に主の去って久しい敷地に響いた。
その五分後には、県下全域及び主要幹線に非常線が張られた。
向居玲奈の拘束が目的なのは言うまでもない。
「ナンバー品川五八わ二三・・。白のセダン。レンタカー。車種はク・・・。被疑者は女性。氏名・向居玲奈。髪が長く、色白」
「繰り返す。被疑者は女性。ナンバー品川五八わ二三・・。白のセダン。レンタカー。車種はク・・・。被疑者は女性。氏名・向居玲奈。髪が長く、色白」
飛び交う警察無線と走り回る鑑識課員や署員を後目に、木暮は屋敷を見下ろす大蛇の腹を見上げていた。
「警部! どうされました?」、工藤が怪訝な顔で近づき訊いた。
「うん。どうもおかしい。なあ、工藤君…」、腕を組み例の表情で木暮は応じた。
「と、おっしゃいますと?」
「なぜ、ここに舞い戻ったんだろうね…」
「向居玲奈がですか?」
「その向居玲奈だが、本当に向居玲奈だろうか…」
「井辻美土里の偽物が言う意味でしょうか?」
「いや、俺が言いたいのは逃亡したのが井辻美土里と言う意味だよ」
「?」、若い工藤は頭を首を傾げた。
「死んでいたのが向居玲奈だったとしたら…と、ひょっと思ってね」
「警部! 警部のおっしゃるのは、まさか全く逆と! 逆とおっしゃりたいのですか!」
工藤は唖然とすると同時に、何がなんだかわからず、まさに煙に巻かれたようなものだった。
「…なあ、工藤君。井辻美土里は金には不自由してなかったんだね」
「ええ。という周囲の話ですが…」
「しかし、倉の中にも屋敷の中にもそれらしい形跡は何もない。そして、なぜアメリカにいるはずの向居玲奈が、頻繁に日本に現れるんだろう…」
「しかし、警部! それは井辻美土里にも言えることですよ。同じ顔を持つという立場なら…」
「そうだな…。確かに同じ顔を持つ人間なら、どちらにでもそれは言えるが…」
木暮は、工藤と話す間もずっと大蛇の腹を見上げていた。
そして心の中で呟いた。
(ヤマタノオロチか。…同じ顔を持つ大蛇…。二つの顔を持つ女か…)と…。
しかし、県警が全力を挙げた非常線の網にも、近県の捜査の網にも向居玲奈はかかることはなかった。
再び井辻美土里と向居玲奈の顔を持つ女は、霞のように消え去ったのである。
警視庁外事課から留学先のアメリカに捜査依頼が行ったのは言うまでもない。
だが、向居玲奈の調査報告は、ー旅行中で連絡が不能との返事でありー再び木暮たち日本警察を落胆させるに十分だった。
仁多郡横田で発見された遺体は、人種鑑別法・口蓋及び頭蓋骨縫合による年齢推定・頭蓋骨の性差ポイント・婦人科的考察等がなされた。
その結果は、年齢は二十代後半。女性。日本人と思われる。身長:生存時約一メートル六十センチ。血液型A型。奥歯に治療痕あり。頸骨骨折。その他の外傷なし。出産経験なし。死亡推定時期:死後一年〜一年半。死因:絞殺。であった。
木暮は、手帳を前に頭を抱えていた。
「美土里か玲奈か…いずれにしてもどちらかに違いないだろうが、これだけじゃあ、誰だかわからん!」
玲奈か美土里かの判定を待つ小暮は、落ちつかなかった。
口を尖らす木暮が手帳に向かって呟いた時、電話が鳴った。
並木であった。
小暮は精一杯、平静を装って言った。
「よう。元気か? この前は取り逃がしたよ」
「君のせいじゃないよ。ところで妙なことを訊くようだが、双子は親でも間違うことがあるだろ? たとえば小さい時に手放したり、成人しても五年も十年も会わなければ,なお見分けは困難じゃないだろうかな?」
「そりゃそうだろう。おい、お前さんも俺と同じ考えなのか!」
「ああ、どうも考えれば考えるほど奇妙なんだよ。不思議な点の第一は、アメリカにいるはずの人間が日本にいる。第二に写真とビデオ。第三には、君が感じた人柄。だが、同じマンションの住人はそうじゃない。井辻美土里本人と言っている。第四に屋敷のカギを持っている。そして殺されたはずの井辻美土里の荷物が実家にある」
「もちろん俺もお前さんの意見に全面的に賛成だが、向居の家族が娘だと認めているのが今ひとつ上を説得出来ない障害なんだよ。カギも盗めばすむしな。それからお前さんの疑問に付け加えると、井辻美土里は決して裕福ではなかったと思えるんだよ」
「なるほど…ところで、以前に井辻美土里は実子だと言ったね」
「ああ、それはお前さんも知っての通りだ。戸籍謄本でも調べて確かだ」
「その逆はどうだ?」
「逆?」
「ああ。逆だよ。向居玲奈が養子だとしたらどうなる。僕も君も、いや全員が先入観で決めつけたとしたらだ。玲奈は長女だが、れっきとした兄がいる。普通は最初の子、向居家なら一正君が第一子だ。まさか第二子が養子とは誰も思わないよ。おまけに向居夫婦はもともと松江の人間じゃない。出身は浜田だ。玲奈が二歳頃に松江に来て、先生は開業しているからね」
「…」
「君は向居の未亡人が医師だったことは知っているね」
「それは聞いたが…」
「未亡人は仕事に脂がのってきた時期に医師を辞めている。もちろんそれがどうしてかは僕も知らないがね」
「うんー。脂ののった時期か…」
「そうだ。詳しいことは分からないが、亡くなった向居先生の親友だった同僚から聞いた話だ。向居家の不幸と娘のことをひどく心配していた。玲奈が幼い頃、よく膝の上で遊ばせたと、がっくりしていたがね。だから何かの間違いでは…と、自分のほうから切り出したんだよ」
「奥さんは外科医だったな」
「夫の向居医師も同じ外科医で、結婚は同じ病院に勤務した時のようだ。辞めたのは長男の一正君が生まれた七年後だね」
並木は一正が生まれた七年後ー玲奈が生まれた年であるーに向居夫婦に、とくに妻に思いがけない事件(?)が起きたと考えた。それは、医療ミスでは…? であった。
並木は、『玲奈が医師の道を選ばずに法律を学んでいる』、と聞いたときは別段何の不審も持ちはしなかった。
しかし、先日に訪ねた向居医師を知るかつての同僚の話の中で、
(どうしてだろう?)と、強く心に残った話題があったのだ。
それは次のような内容である。
「じつは、向居が娘さんのことでこぼしていたことがありましてね」と、向居の友人は切り出した。
「娘さんのことで?」
「ええ、本人は医師を目指していたようですが、奥さんが異常なまでにそれに反対したそうなんですよ。おとなしいお嬢さんだったようでしたから、結局は母親にしたがったようですがね…。玲奈さんは高校卒業を待たずにすぐアメリカの高校に留学したんのですが、その時の経緯がまた変わっていましてね。あれだけ自分の希望する医大を素直に諦めたのに、どうしても日本の高校と大学はいやだと言い張ったようで、せめて高校を卒業してからとの両親の説得にも一切耳を貸さず、二週間ばかり家出をしたことがあるんですよ。世間体もあるでしょうし、また将来を心配して向居も奥さんも折れたようですがね」
『母親は娘が医者になることを許さず、娘は日本に居たくなかった』との、向居家の内情裏に重大な“何か”が隠されているのでは…と、想像力豊かな並木の思いは無理からぬことではないだろう。
「普段はおとなしい娘が家出までして、実現させたんだな? …日本を離れたい一心でか?」
「そう考えるのが自然だね。医大進学を辞めさせられた腹いせとは違うと僕は思うし、話を聞かせてくれた人も同じように言っていた」
「おかしいとか?」
「うん。それとね、高校を辞めたいと言い出した前後に玲奈が入院をしたことがあるようだ。それが…産婦人科だ。その時奥さんは、その人に『絶対信用出来る医者を紹介してくれ』と頼み込んだそうだ。もちろん夫には内緒でね。知人も、男でも出来たんじゃないかとずいぶんと心配したそうだ」
「高校を辞めたのは十七か。すでに女だな…」
並木はそれには応えず続けた。
「僕が気になるのは、そのころから兄の一正君を玲奈が避けるようになったことだよ」
「なに? 一正を避ける?」
「ああ。はっきりとは口にしなかったが、どうも…兄が妹を…ってやつらしい」
並木も言いづらいらしく、はっきりとは口にしなかった。
「まさか、…近親相姦か!」
「…ああ」
「一正は当時二十三。妹は十七か…」
「たぶん、母親はそのことに気づき、玲奈をアメリカにやったようだね」
「なるほどな。それなら家出までした訳がわかるな」
話す並木も聞く木暮も、おぞましさ以上の感情がこみ上げるのを感じていた。
「ところで未亡人の件に関して、その人の意見はどうだと?」
「奥さんの件は一切聞けなかった。知っているのだろうが言えないのだろうね。僕は人命に関わる医療ミスのようなことが起きたと思っているがね。なあ、木暮。井辻家と向居家の関係は必ずあるはずだ。事件はそれ知る人間が関与しているのは確かだと思う」
「これから先は、俺の出番か? 分かった。調べてみよう。それと玲奈の出生をな」
一正は、現在三十三歳。玲奈は二十七歳。母親が二十七歳時と三十三歳時の子供である。
並木と木暮は、いまから二十七年前と九年前に、向居家と井辻家に信じられないほどの何かが起こったはず、との強い疑惑を抱いたのである。
翌日、木暮は工藤を伴い、向居夫婦の勤務していた都内のある総合病院にいた。
二十余年前の向居とその妻・さと子に関しての聞き込みである。
当時を知る人間はすでに数えるしかいなかったが、その中で有力な情報が幾つか得られた。当時、向居の妻に可愛がられたという看護婦からだ。現在、彼女は八つの科のそれぞれの婦長を束ねる総婦長となっていた。
木暮は面会を求めると、向居がアメリカで死亡したことや、現在の向居家の置かれている立場を話し始めた。
「そうですか。お亡くなりに…」
「総婦長さんは、奥さんとはずいぶん親しい間柄だと伺いましたが…」
「ええ。さと子先生は、それは素晴らしい方でしたよ。警部さんもご存知でしょうが、とてもお綺麗な上に優しくて、患者さんだけでなく私ども看護婦にも大変な人気がありました。そんな中で看護婦の私はとくに可愛がっていただきましたよ」と、往時を懐かしむように総婦長は語った。
「是非、お聞きしたいのは、先生がお辞めになった経緯です。決して先生やあなたにご迷惑はおかけすることはありません。もちろん病院にも。警察を信じて、どうかその時のことを…」
「…」
「山田さん…」、木暮は総婦長の名を呼んだ。
総婦長はためらいながらも口を開いた。
「警部さんが想像なさったのは医療ミス…。そうです。信じられないミスが起きたのですよ…とても考えられないものですが」
木暮は黙って頷いた。
「あれは、二十七年も前のことです。患者は交通事故者でしたが、その日は日曜日で向居先生が当番日でした。先生の執刀で手術は無事に済んで一命は取り留め、快方に向かっていた矢先のことです。事故が起きたのは一ヶ月ほどした夜のことでした。患者が大出血を起こし、再手術の甲斐もなく死亡したのです。原因は、最初の手術時に患者の腹部にメスを残したまま閉じたことから何かの拍子にそのメスが大動脈を傷つけたことによる大出血でした」
「それが向居先生が残されたと…」
「ええ…その結果、先生は退職に追い込まれました。もちろん病院も厳しい管理責任を問われましたが」
「患者の家族との示談や和解は成立したのですか?」
木暮は、上品な向居さと子の顔を思い浮かべて訊いた。
「ええ、病院がそれなりの賠償金を支払ったはずですし、向居先生も書類送検で済んだようですね」
「その時には、先生はすでにご結婚なさっていたと聞いていますが‥」
「ええ。ご主人の向居先生も、残されたご家族にはずいぶんと親身になって世話をなさったようですよ。亡くなった患者さんは、まだ新婚さんでしたからね。それに、たしか郷里は先生と同じだったはずです。ですからなおさらだったんでしょうね…」
「え! 郷里が同じ? 総婦長さん! その亡くなった方はなんとおっしゃる方でしたか!」木暮は、総婦長が驚くほどの声で言った。
工藤の表情も木暮のそれと同じだ。
そして、十分ほど後に知らされたその名は、驚くべき名前であった。
なぜなら、その名は他ならぬ井辻美土里の父、井辻茂だったのである。
病院を後にする木暮は、先ほど聞かされた井辻茂の妻・芙美子のことが脳裏から離れなかった。
それは、木暮にいたたまれぬ気持ちと疑惑を持たせる、ある事実があったからだった。
総婦長は席を立つ木暮に最後にこう言った。
「お気の毒に、奥さんはまだ若くてとても綺麗な方だったと記憶しています。あ…そういえば、郷里に戻られた奥さんが出産された。と、どなたかに聞いた記憶がありますね。かわいい双子のお嬢さんだったそうですよ」と。
病院を出るやいなや工藤がせき込んで言った。
「警部! 繋がりましたね!」
「やはり双子だったか! 工藤君、裏をとってくれ! 俺はもう一度出入国管理事務所に行って来る。向居玲奈での入出国ではなく、井辻美土里で行き来していたに違いないからな!」
一週間後の四月十七日。
木暮たちは、足を棒にした聞き込みから掴んだ二つの隠された事実をこの日、明らかにした。
向居満と井辻美津子の関係。そして、出入国の謎である。
その裏には、大田署の野上の協力があったことは言うまでもないが…。
木暮と工藤は事実関係を捜査会議で克明に報告した。
木暮の横のホワイトボードには十名にも上る人名が書かれ、それぞれの人間がどのような関係があり、またいかなる動きをしたのかが矢印で示された。
事件に携わる捜査員の目と耳は、その矢印と木暮、工藤にそそがれている。
工藤が向居と井辻の関係を話し始めた。
「仁多郡横田の殺害死体は、歯の治療痕から向居玲奈と断定されました。治療はアメリカで、です。まず最初に、井辻茂と芙美子夫婦の間には、玲奈と美土里という双子がおります。玲奈が姉で美土里が妹ですが、この姉妹は茂と芙美子夫婦の子ではありません。母親はもちろん芙美子ですが、父親は向居満です」
何人かの捜査員が互いに目を見合わせている。
「二人の結婚は、すでに破綻をきたしていたようで、芙美子は夫が入院したすぐ後、同郷の向居と親密な関係を持ち、妊娠したようです。夫・茂は賭事で作った借金の穴埋めのために実家の財産のほとんどをつぎ込んだようで、実家からは勘当同然だったようです。そんなときに、妻・芙美子は向居の親切にほだされたと思われます」
「茂と二人の子供の関係は、血液型と戸籍謄本からも証明されました。茂が死亡した後の賠償金のほとんども返済で消えています。向居が、自分の子が産まれたと知った頃、芙美子は夫の実家にも頼れず大阪で暮らしていましたが、向居もそれなりに責任を感じたことでしょうし、一人を養女にしたわけです。それが姉の玲奈です。生後一才半の時です。その後、芙美子は仁多郡の夫に実家に帰っていますが」と木暮。
「警部! 玲奈と美土里は自分たちが双子だといつ気がついたと?」、捜査員の一人が訊いた。
「入管によると、玲奈は殺害される前に三回ほど帰国していますが、問題の一九九八年、つまり平成十年は七月の帰国です。美土里の渡米は四回ですが、最初の渡米は同じ一九九八年の六月で、一週間の滞在です。場所はロスアンジェルス。玲奈もロスアンジェルスに住んでいることからみて、そこで二人は偶然出会ったと思われますね。たぶんあまりにも似ているので、色々話し合ったのではないかと想像できます。ですから七月十日の玲奈の日本帰国は、美土里に会いに来たと思われます」
「その時入れ替わったと?」と、他の捜査員だ。
「美土里は優秀な研究者ですが、まだ研究生の立場では金銭にはだいぶ困っていたように思われます。さらにそのころには、すでに上杉博司と竹見貢に脅迫されていたからです。六月に会議で渡米したときも安ホテルに滞在したことも分かっています。研究生は授業料が膨大にかかるそうですからね」
刑事の中には苦労して大学を出た者もいるようで、何人かがまた頷いている。
「幸いといってはなんですが、玲奈のことを知る人間は日本にはほとんど居ません。十年近くも海外生活ですから、たぶん家族でさえも美土里と玲奈の区別は困難だと思われます。なにぶん、松江の実家にはほとんど寄りついてはいないようでした。向居玲奈を殺害したのが井辻美土里か、竹見貢かどうかはまだ不明ですが、私は竹見貢だとの疑いを強めております。アメリカで出会った玲奈が美土里のマンションで殺害された時、美土里は買い物に出かけていたと思われます。当日の五時前に近所のスーパーで美土里の買い物姿が確認されています。普段は質素な美土里が、割と豪華なメニューをです。来客があったからでしょう。客は玲奈だと思われます。玲奈が残る部屋にはたぶんカギはされず、そこに竹見が来た。しかし、玲奈は竹見を知りません。美土里とばかり思っていた竹見は、玲奈に騒がれ殺害して逃走。若干、遅れて上杉もやってきて死体を発見したと思われます。そこに美土里が戻って、竹見か上杉の仕業と気がつく物でも見つけたのではないでしょうか」
「警部が行かれた翌年の四月十八日には、入れ替わる画策中ですね」と捜査員。
「と思われますね。その前の年の平成十年七月十日、美土里は日本に着いた直後に殺害された玲奈の遺体と荷物を仁多に運ぶと、その足で玲奈のパスポートで渡米した。それが七月十五日です。それが玲奈の二度目の渡米(出国)に当たります。そしてその二日後、美土里は再び美土里自身のパスポートで帰国した。当然帰国するには、美土里自身の旅券にアメリカ入国の旨が記載されていなければなりません。美土里は十分それを承知で、偽造していると思われます。偽造は彼女自身の手による物かはまだ不明ですが。その後、美土里は何喰わぬ顔で日本にいた。それが、私が美土里に会ったあくる年、つまり平成十一年の四月十八日までです。さらに美土里は、三日後の二十一日に美土里自身の旅券で姿を消して渡米した。もちろん警察が動いたと知ったからでしょう。これが美土里の三度目の渡航(出国)です。もちろん美土里自身の渡米ですから彼女をどんなに探しても見つからなかった。そして父親の死で帰国・出国した時も、もちろん玲奈名義のパスポートを利用した。今度の帰国は何のためかは分かりませんが、このときは井辻美土里で出・入国したはずです。それが今月の十日…仁多郡で向居玲奈の遺体が発見された翌日です。今回のこの渡米は、下関から関釜フェリーで韓国に渡り、そこからアメリカに戻っています。これが美土里の四回目の渡米です。我々の目が、空港に向いていることを計算に入れてのことと思われます。しかしながら現時点では、今回の井辻美土里の日本帰国の目的と、彼女が竹見と内田殺害に関与しているかどうかは不明ですが…。それと仁多の実家に荷物を運んだ業者が分かりましたが、事件には無関係です」
「もし警部が上杉の話を信用されなければ、完全に玲奈になりすませたようですね!」
その問いに、木暮は大きく頷いた。
そこで、課長・神宮が口を開いた。
「木暮警部。竹見と内田殺害に向居一正が関わっている可能性はどうですか?」
「はい。内田の金庫にあった黒曜石とビデオの件ですが、美土里は玲奈に会う前は、経済的に相当いきずまっていたことは先ほど説明しましたが、最初私は、美土里があの美貌とスタイルを利用しようとしたと考えました。それは仁多郡の実家で見つかった持ち物の中に幾つかのプロダクションの名刺があり、もちろんいかがわしいところばかりのようですが…。その中の一軒がスタジオ・ミロだとすれば、あのようなビデオの存在も不思議ではありません。ただ、あのビデオの女が美土里か玲奈かが分かってはいません。そして年齢が疑問ですし…、問題はそこです。一般論からいえば助教授になるような女性が、…まさか? と思えますが、“背に腹は代えられない”ということもありますから、まんざら否定も出来ません。また、玲奈だとすると、生活には全く困っていない女性が“なぜ?”との疑問が強く残ります。
「テープは最近の物のようですね」と、神宮。
「はい。ただ、妙なのはあのビデオそのものは、ここ最近の物ではなくダビングした可能性と何年か前に撮影された物と思われますし、プロが撮影したとは思えません。さらに、二人とも現在は二十七歳ですが、先ほど言いましたように撮られた時期はどう見ても未成年です。ですが、いずれにしても金庫の中にあったことから内田にとってはよほど大切な物だと考えられます」
木暮の言うように、ダビングを重ねたせいか不鮮明であった。
そして男の顔は一切写ってはおらず、まるで素人が隠し撮りしたようなお粗末な物だった。
「考えられるのは、レイプ…ですね?」
「そうです。玲奈が十七歳の時に兄の一正に暴行を受けた時の物だと思われます」
「そのテープが内田を死に追いやった訳ですね…」
「はい。考えられるのは、内田か竹見がそのテープを向居一正と妹の玲奈だと知ったからだと思われます。大手総合病院の副院長が起こしたスキャンダルです。向居一正にとってことが公になれば身の破滅です。一方内田にすれば願ってもない金づるでしょうから…。今ひとつは、竹見殺害の凶器を内田が保管していたことです。以上から向居が内田殺害を実行する動機としては十分のはずです。竹見の殺害は黒曜石がカギと思われますが、やはり内田と同じように向居にとっては竹見も危険な存在だったと思われます。しかしながら、椎名瑠美がどこまで事件に関与しているのかは不明です」
木暮はそこまでしか掴めてはいないし、あくまでも推理でしかない。事実はたった三つしかないのだ。
向居玲奈が死んでいること。
殺害された玲奈に美土里がなりすましていること。
内田と竹見が殺害されたこと。―である
「木暮警部。井辻美土里の身柄確保はインターポールに依頼してあります。向居一正と内田・竹見の両名との関連。それに椎名瑠美の行方を全力で追って下さい。以上です」
神宮の言葉が終わると同時に全員が再び捜査に散っていった。
その翌日。
木暮と工藤の姿が寝台列車『サンライズ』の車中にあった。
遺体が玲奈との断定は、向居さと子に対しての事情聴取をも容易にさせ、さらに一正に対してはより踏み込んだものになるはずである。
一正の日常の動向は、他の捜査員が張り付くようにして逐一捜査本部にもたらされていたが、今は玲奈の死で島根に戻っている。
「警部。美土里は何のために危険を犯してまで実家に姿を現したのでしょうか? いずれ分かるとしても、もし姿を見せなければ玲奈の発見もだいぶあとになったはずでしょうに?」
「うむ…玲奈の遺体が発見されなければ、彼女自身は安泰だっただろうからね」
「それを捨ててまで帰国ですか…」
「美土里が今回帰国した前後の報道記事には、二人の関係などは載ってはいないし、死体の様子や我々の動きを知るために戻ってきた訳じゃなさそうだね」
「ところで、警部。一正はなぜ妹をレイプなどしたとお考えですか? あのビデオから見れば躰は立派な大人ですが、あくまでも妹ですよ! 玲奈は」
「そうだな…、一正は、見た目には女にもてないような男じゃないからね。それは友人の証言でも明らかなんだが…。俺は、玲奈が他人の娘だと知ったことからじゃないかと思っているがね。ただ…」
「どうかなさったんですか?」
「うん。玲奈の相手がはっきりと写ってないのが、気になるんだよ」
「確かにそうですが、素人が撮影したようですし、渡米する時の玲奈の状況からみても 一正に間違いはないのでは?」
「いや、俺が言いたいのは一正の他に誰かが現場にいたんじゃないか…とね」
「まさか、警部!」
「そのまさか、かも知れない。もし、竹見と内田が暴行に荷担して、それをネタに向居を脅迫することは十分考えられる」
「いずれにしても、二人を殺害する動機は十分ですね!」
「うん…しかし、竹見が殺害されたのは一昨年の七月頃、内田は昨年の六月だ。時期は異なるのは害者の都合もあったかも知れないが、殺害の方法があまりにも違いすぎるのがよく分からない」
「そういえば、竹見の場合は黒曜石という特殊な凶器と考えられますし、内田はナイフですね…」
木暮が不審を覚えるのは尤もなことだった。彼が過去に解決、もしくは携わった単独犯が犯した殺人事件のその九割が同じ凶器又は方法であったからだ。
犯罪者であろうとなかろうと、物事を実行する場合、以前の経験を元にするのは当然だからなのだろう。
「向居と二人がどこで繋がっているかだが…」
「竹見の出身は横浜。内田は東京ですね。年は同じ三十三ですか…しかし、ビデオが撮影されたのは向居が二十三歳頃です。当時は向居は医大の学生で、竹見は土木作業員。内田はカメラ店に勤務しています。調べでも三人の接点はありませんが…」
「そこだよ。しかし、必ずあるはずだ」
木暮は腕時計に目をやった。ちょうど深夜一時を回ったところである。
木暮のこの疑問は、もう何時間か後のさと子と一正の事情聴取ではっきりとするはずであったし、またさせなければならないのだ。
木暮は、飛ぶように過ぎ去る窓の外の灯りを見ながら、
「東京と島根は千キロ離れているが、交通機関が発達しているんだ。いつでも行き来は出来るからね」と、工藤に力強く言った。
寝台に横になった木暮と工藤は、それぞれの思いを胸にやがて深い眠りに就いた。