第六章
漂着遺体

梅雨も、そして蝉時雨の季節もが過ぎていっていたが、木暮たちにとって事件は依然なんの進展も見られなかった。
並木の勤務する三瓶の研究所の前庭から見る空も、驚くほど高いと感じる季節になっている。
並木は相変わらず事件のことが気がかりだったが、今のところ彼が出来ることはありそうもなかった。
そんなわけで、部下の山路ともども本来の研究に精を出す毎日だ。
だが、再び並木と木暮を会わせる出来事があったのは、そうした平凡な業務の中であった。
「並木主任。れいのテフラは、どうも鬱稜隠岐テフラの可能性が高いようですよ!」
まもなく昼食時になる頃だった。昨日の和歌山県であった火山学会に出席して戻った山路が、部屋に入るなり嬉しそうに開口一番並木に告げた。
「ほう、それはすごいね!」、並木も仕事の手を休めて言った。
並木が言うのは尤もで、この話題の火山灰の発見が、従来知られていなかった地域からの報告であったからだ。
並木のいる島根県や、四国・近畿地方での第四紀(約百六十万年前から現在まで)火山研究の指標となる火山灰(テフラ)は、地元・三瓶山と大山からの噴出物。そして、九州や韓国などの遠隔地からもたらされた火山灰を主としている。
どこの火山がどの地域にどの程度の被害を及ぼすのかなどは、並木たちの研究に依るところが大きい。
例えば、およそ二万二千年前に大爆発を起こした南九州の錦江湾を起源とする姶良火山は、九州全域を分厚い火山灰で埋め尽くしているし、成層圏にまで達した噴煙は強い偏西風に運ばれて、遠く東北地方にまで運ばれている。
このように広範囲にまき散らされた火山灰を広域テフラというが、山路が言う鬱稜隠岐テフラも広域テフラの一つだ。鬱稜島は韓国の島である。
こうした研究を重ねることが、それぞれの火山の特性ーいわば噴火様式や被害規模を想定するのに役立ち、いち早い対策が立てられるのである。
だが、二人の会話は、本来話されるべき内容より大きく変わった方向に進んだのだ。
それはやはり山路の一言だった。
「韓国といえば、火山灰だけでなく色んなものが日本に来るんですね」
「ん? 何のことだい?」
「今朝の新聞ですがね…白骨死体ですよ。主任が言っておられたことが頭に浮かびましてね。まさかとは思うんですが…ひょっとしたら、れいの黒曜石などと言うことはないでしょうね?」
「白骨死体? 僕が言っていた黒曜石? 何のこと?」
並木は必ずと言っていいほど新聞には目を通すが、もちろん見落とす記事もあることはよく承知している。
並木は、職業柄でもあるだろうが読書家である。といっても、専門書ばかりを読んでいるわけではない。
一般常識として知っておくべき作法や、しきたりに関しての書物も暇を惜しまず目を通すようにしているし、特に好きなのは新聞である。
だが、多忙な業務の中ではすべての記事に眼を通すことなど出来る相談ではない。だから、並木は月の一日は必ず眼を通せなかった記事を拾い読みすることにしている。
 特に山陰地方の話題と、地質についての記事が中心ではあるが…。
たいていは、研究所に出勤してから全紙に目を通すのが常だったが、今朝は早朝からの調べものでまだ読んではいなかったのだ。
「ご飯前に死体の話はなんですが…」と、山路は部屋を出ると今朝の朝刊を持って再び入室した。
「この記事ですよ」
「…」、並木は山路が指さした三面記事に目をやってしばらく黙りこくっていたが、
「なるほど…妙だね…」と、顎に指を当てて眉間に皺を寄せた。
並木の表情を変えさせた記事は、次のようなものだ。
『新たな疑惑。漂着遺体の首筋にガラス質を発見! 四月に、大社町の海岸で発見された外国人と見られる白骨体の頚骨部にガラス質の鉱物が突き刺さっていることが警察の調べで判明。現在、県と警察は再度身元の確認を急いでいる』

並木は昼食をすますと、書庫に整理されている棚一杯の新聞記事に目を通し始めた。
そして、ある記事を眼にした時、並木は首を傾げた。
並木の指は、
『流れ着く漂着死体…軍服を着た男性遺体に町民困惑! 二十二日、大社町の海岸に白骨化した遺体が漂着しているのを貝殻拾いの地元少年が発見。今年、三度目の軍服を着用した漂着遺体で、警察では過去に漂着した遺体との関連を調査中』―四月二十三日付け。
との記事で止まっていた。
そして、小首を傾げさせたこの記事と、先の記事をじっと見つめてわずかに頷いたのである。
この夜、並木は木暮とふた月ぶりに言葉を交わしていた。もちろん山路が与えてくれた記事・漂着遺体についてだ。
「僕には、流れ着いた遺体に刺さっていたガラス質が、黒曜石のような気がするんだよ」
「なに! 黒曜石? 詳しく聞かせろ!」
並木は、小暮に二つの記事の内容と自分の考えの一部始終を聞かせた。
軍服を着た遺体…。日本では想像しがたい、幾つかの同じような軍服を着た遺体が漂着したとき、誰もが想像した国が当然あった。
県も政府を通じてやんわりと打診をしたようだったが、返事はなかったようだったと、並木も誰かに聞いたような覚えがあった。
しかし、もしそうであっても、死人に国境は無関係である。
 小暮大次郎は、真実を知るためには避けて通れないことが多々あることはよく承知していたし、死者の尊厳を何よりも重んじる男であった。
もちろん、そのことは並木眞吾にも同じように言えた。
じつのところ、並木は漂着した遺体が身につけていた着衣に、いまだ国交のない国の軍隊の襟章が付いていることに一抹の不安を覚えてはいた。
「なるほど、気になる遺体だな! 野上刑事に確認を頼むよ。一応、お前さんからも話をしてみてくれ。万が一黒曜石などだったら、俺もすぐそっちに行く!」
木暮の声は、“おぼれる者は藁でも掴む”といった諺がぴったり合うようなうわずった響きを持っていた。
 並木は電話を置くと、先端の欠けた長さ五センチ、幅二センチ、厚さ八ミリほどの石器の写真を改めて見つめた。板尾遺跡で発見され、現在は小暮の
元にある石器の写真だ。
ガラス質の真っ黒な石器は、渦巻く貝殻状のきらめきと、中央を桃色の縞模様が走る一万数千年の時を越えて現代に現れた、美しい芸術品であった。
だが、写真の中のその芸術品は、並木の目と思考に氷のような冷たさを伝えた。

小暮から聞いたところでは、全国では身元も知れず、引き取り手のない遺体が今も二万体ほどあるという。
身元不明死体票が付けられたこれらの遺体には番号が付けられ、十五年間は警察に保管される。
当然、身元が判明すれば身内に引き取られるし、あくまで不明な遺体はその後、丁重に荼毘に付される。
しかし、多くの遺体は身元が判明せず、何らかの疑問(事件性)が残るのが常である。四月二十二日に、神話と伝説の国の浜辺に漂着した白骨死体もその一つに中に含まれていた。
そればかりではない、ここ数年の間に、大社町からほど近い多伎町久村海岸に二体、鳥取県の白兎海岸に一体、山口県長門市に二体と相次ぐ軍服漂着遺体も尋常な出来事ではなく、互いに何らかの関連があると見られてはいた。
並木も知っていたように、それぞれの発見地の地元住民の口からは、ある国名と様々な推論が囁かれたことは周知の事実である。
 事実、新聞をはじめとするメディアも同じ報道をし、地元警察も自治体も、その服装から事を重く見たが、肝心な中央省庁が調査に熱心とはとても思えないのが常であった。
当該地区住民から見れば、目をつむいでいるとしか思えない態度である。
困惑するのはそうした住民と自治体の担当者であり、処置に右往左往していると、並木も聞き及んではいた。
並木は、こうした事情は少しは分かるし、誰も攻めるつもりもない。
 だが、もし可能ならば、遠い異国ではなく本当の家族の元で永遠の眠りにつかせてやりたいと心底思っていた。

「先生、野上様とおっしゃる方からお電話が入っております」
 小暮に事情を話した二日後、受け付けの堀田奈保子が並木を呼んだ。
大田署の野上刑事だった。小暮からも連絡があったのだろう。
野上の勤務する大田署は、並木の住む三瓶から車で三十分ほどの市内中心部にある。
 いわば目と鼻の先であるが、並木もここ二ヶ月ほどは野上に会ってはいなかった。
「小暮警部からの依頼の件で、少々お耳に入れたいことがありましてね。電話じゃあなんです。如何でしょう。お会いできませんか?」
待っていた情報なのだろうか…。並木は、二つ返事で場所の指定を聞くと、電話をおいた。
待ち合わせ場所は、小さな町には不釣り合いなほどのしゃれた喫茶店だ。
野上は、いかにも警察官と思える体格だが、結構センスは良いのかも知れないし、一般市民に対しては気を使う男だ。
 つい最近できた店らしく、並木は始めての店だったが商談などにはもってこいの店のようだった。
 野上はすでに来ており、テーブルの上の書類らしきものに目をやっている。
「野上さん。お待たせしましたね」
 並木の声と姿に、野上は角張った顔を丸くして笑顔で応じ、その店に似つかわしくないほどの声で、
「大当たりですよ、並木さん! 黒曜石でしたよ!」と言って、慌ててあたりを見回した。
「やはり黒曜石でしたか!」と、並木も顔をほころばせ、急ぎ椅子を引き寄せて座った。
「それはいいんですがね 。じつは、おかしな…と言うより妙なことが分かりましてね。私ももしやと思ったんですが…、ま、それはともかく、結論から言うとお手上げ状態なんですよ…」
「と言いますと…?」
「ご指摘のあった大社海岸の遺体ですが、“は”がないんですよ」
「は? “は”と言いますと?」
「この歯ですよ」、野上は自分の口を開けて指さした。
「どういうことでしょう?」
「ええ、白骨化していたことはご承知でしょうが、上下の歯がすべてないのです。最初私も入れ歯が取れた…いえ、冗談でなく、こうした例もありますからね。しかし司法解剖の結果、年齢は三十歳前後と思われ、歯槽膿漏や歯周病などといった入れ歯になるような形跡がないようなんです。上下の顎が破損しているので、どうも強引に引き抜かれたか、折られたようですね」
「なるほど」
「若い人でも、ボクサーや格闘技の選手は、入れ歯の人も多いとは聞いていますが、あの遺体は、骨格から見て割合と華奢な男だと思えるんですよ。尤もこれは、監察医の先生の意見ですがね」
「軍服を着た、歯のない遺体ですね? おまけに華奢な体格…」
「ええ。身長は一メートル七十五ほどあるそうですが」
「他には何か? たとえば、他に漂着した遺体があると聞いていますが、それとの関連はいかがでしょう。同じように歯のない遺体が他にはありましたか?」
「ええ。他の遺体も若干の損傷を受けて、同じように下顎が欠けているものもあったようです。なにぶん海を漂っていたわけですからね。それ以外は特に目立つ特徴はないようで、年齢もほぼ同じくらいだそうですがね。それに、身につけていた着衣も全員同じだそうなんですよ」
「着衣も同じですか」
「ええ。もちろんぼろぼろですが、製造元も同じと思われますね。違うのは歯と、頚骨に突き刺さっていたガラス状の黒曜石の破片だけのようです。骨と骨の間に挟まれたような状態で、見過ごすとこだったようですね。科警研に送って金庫内で見つかった破片と照合する作業が進められていますので、じきにはっきりするはずですが。しかし…」
野上はそこまで言うと、一息つき、言いずらそうに再び口を開いた。
「しかし、先ほど言いましたように、遺体は長時間漂っていたはずで、おまけに海岸線は岩が多いですからね。他の遺体も若干の損傷は受けていますが、漂流の時間が多ければ短ければそれだけ損傷も多くなります。それと、死因は残念ながら特定できないそうです。それに現時点では、遺体はすべて外国人と考えられます。私も最初、木暮警部からお話を伺った時は、並木さんのおっしゃるような…、疑問ですがね。持っていたんです。ご指摘の黒曜石に違いないのではと…。ですが、もし国外で並木さんのおっしゃるような事件に巻き込まれていれば、我々にはどうすることもできないんですよ。外国にもその石があるそうで…もっともそれは並木さんがよくご存知だとは思いますが…」
野上の言い方は奥歯に物でも挟まっている―そんな言い方である。
「おっしゃる意味が…私にはよく…」
並木は、野上の顔を真正面から見て訊いた。
「…」
「野上さん! なにかまずいことでも…この件が何か面倒なことになるとおっしゃるのでは?」
野上はコーヒーカップに手を掛けて口を開いたが、その口振りはいかにも野上自身の本意ではないといった口振りだった。
「じつは…ご存じのように漂着遺体がある国の人間だと思われるのと、その国と日本政府間の接触も順調にいきつつあることはよくご存知かとは思いますが、ここで相手国が口を閉ざしている問題をあまり派手に取り上げるのは、どうかと…。並木さん。あとは我々がやりますので。よろしく頼みます」
野上の上層部は、並木の口からメディアに漏れることを恐れたのである。
「そうですか。よく判りました。おっしゃるように、これが日本国内だけでなく、その国もが関係していたら大変ですしね」
並木もそこのところの事情はよく分かっていたし、野上の立場も理解できた。
それにもまして、並木はあくまでも民間人であり、捜査に協力はしても妨害など夢にも思ってはいない。
また、野上が言ったように、政治が絡む国交のない国へのこれ以上の詮索はできなかったのだ。
二人はその後、二十〜三十分ほどの雑談のあと別れたが、正直なところ、並木には後味の悪さだけが残っていた。
そしてそれは、野上も同じであったのかも知れない。
なぜなら野上は別れ際にこう言っていた。
「政治の仕組みや体制は、真実をも隠そうとするんですかね…」と…。
並木は、なにも言わず頭を下げ、ただ黙って別れを告げた。
その夜、並木は木暮に連絡を入れた。
「よう、並木か。どうだ、少しは役に立ったか?」と、最近聞けなかった大声のだみ声が並木の耳に届いた。
まるですぐ耳元に本人がいるような、そんな声である。
「ありがとう。今日、野上さんに会ったよ。結果は、“これ以上の詮索は無用”ってとこだね」
「なに? どういうんだ、それは!」
ますます声が大きくなっている。
「うん。野上さんも、気になってはいるようだが、なにぶんにも外国人だし、それも国交が全くないだろう。どうにも手が着けられないようだね」
木暮もその意味は十分承知しているようで、
「そのことか。なるほどな! 俺も野上刑事におおよそのことは聞いていたが、やっぱりな」と、さも予想していたような言い方をした。
その声の調子は木暮らしく、憤慨しているなと、並木は感じてはいたが…。
木暮は続けて言った。
「ま、気持ちは分からんでもないが、石器のかけらが一致した以上は手を引く訳にはいかんよ。死者に罪はないからな」
「一致したのか! そうか。無理に事件にしたくないどこかの偉いさん達の思うようにはならないね!」
「そのようだな。もっとも多少は遠慮して動かなければならないがな!」
「遺体の身元はどうなんだ? 歯が一本もないそうだが」
「完全に白骨化していて死因も特定できないようだが、どうも足の小指に骨折して治癒した跡があるそうだ。そこから身元を照会している。死後、一年半位らしい」
「ほう、いよいよ本腰を入れて調べているようだね」
「俺たちは、他の遺体は外国人でも、あの遺体だけは日本人だと考えているがな。ところで黒曜石も石だから、朝鮮半島にもあるんだろう?」
木暮は一抹の不安を隠して訊いた。
「いや。現時点では確認されていない。向こうの遺跡で発見されるものはすべて日本のものだよ。それと、有舌尖頭器と同じ形の物は見つかったことはないよ。もちろん何らかの方法で手に入れることもできるだろうが、彼らが軍人ならなおさら妙だからね。もし、殺人に使用する凶器を選ぶならもっとまともな物があるはずだよ。無理をして石器などを手に入れたとは考えづらい。それからみても僕たちの推理に分があると思うがね」
「そうか! それならいい。おっ、ちょっと待てよ。電話だ。もう一度かけ直すよ」
電話口から頻繁にベルの音が聞こえる。今度は木暮にかかったようで、木暮は電話を切った。