第五章 偽名
観光地のホテルの洗礼されたフロントマンも、空港のレンタカーの社員と同じほどよくその客のことを覚えていた。もちろん、客の特徴を瞬時に掴み覚えることは、この商売の人間の最も得意とする分野であることは間違いないだろう。
おまけに、期間もそれほど立っていないことも幸いした。
「はい。確かにこのお客様に間違いございませんが」
突然の刑事の来訪に困惑顔を見せていたフロントマンも、直に落ち着いた様子で答えた。
「一人でしたか? それと、なにかこの客のことで気が付くようなことは?」
「おいでになったのは、お一人でしたが…。ほかには、特に思い当たる節はありませんが…」
「チェック・イン後は、どこかに行ったようなことはありませんでしたか」
「ええ、最初ラウンジでゆったりとなさっておられましたが、たしか四時ごろだったと思いますが『回りを散策して来る』とおっしゃって、お出かけになったことを覚えています」
「『回りを散策して来る』と言ったのですね。その他には何か?」
「いいえ。お戻りになったのは五時半頃で、その時も別に変わった様子は見受けられませんでしたが…」
それ以上のことは入手出来ず、礼を言ってホテルを二人は後にした。
「どこに行ったんだろうね」
「そうだな」と、何かを考えるように小暮は応え、並木にその一端を話した。
「あのホテルはできてから五年になるそうだが、糸波は今回が初めての宿泊だそうだ。くどいようだが、俺は、糸波かその仲間が、二年前もここにきたことがあると考えているんだよ」
「あの白骨のことかい?」
「そうだ。県警の矢島刑事には、あの白骨のその後のことを頼んでいる。身元が分かりさえすればればいうことはないんだがな…」
小暮は、その足で浦郷署を訪ねた。
並木は「僕はコーヒーでも飲んでるよ」
と、署とはす向いのしゃれた喫茶店に一人で入って行った。
「私が担当の杉野ですが…」
白骨発見時の担当刑事に面会を求めた小暮の前に“あたふた”と顔を硬直させて出てきたのは “すわー、事件か”と意気込んでいた新任の刑事である。
周囲の警察官も何事かと探るような眼で二人を見比べていたが、突然の本庁の警部の面会は、それでなくとも眼付きのよくない小暮を、より人相が悪く見せたのかも知れなかった。
並木や親しい者の前では“とぼけた警部”であり、穏やかな口調と物腰ではあったが、見知らぬ人間にはやはり殺人課の警部としての言い表せぬ何かが感じられたからである。
「実は、先日の身元不明の“白骨死体”のことを聞かせて頂きたいのですよ」
「あの件が何か…、身元はおっしゃるようにまだ判りませんが」
検視の結果は、すでに報告済みであり“今更なんで?”といった表情で若い刑事は訊いた。
「ちょっと気になることが起きましてね。少し時間を頂けませんか」
暇を持て余していそうな署内ではあったが、一応の許可らしきを得るために木暮は頭を彼の後方に下げて言った。
「ええ、それは構いませんが、わざわざ東京からそのことでおいでになったのですか?」
意外なことを持ち出す小暮に対して、若い刑事の疑問と不信感はとっくに消え去り、どこかで何かが頭を持ち上げるものを感じていた。
杉野は、「立ち話も何ですから、奥にでも」と促したが、
小暮は、「どうですか。お茶でも飲みながら…、連れがそこの喫茶店におりますので」と、並木に聞かせる口実で杉野と名乗った刑事を誘った。
そして、小暮は何を思ったのか、並木を“同僚の刑事”として杉野に紹介した。
二人の刑事の前で慎妙とも取れるぎこちなさに並木は内心おかしかったが、さすがに口にも態度にも出すわけにはいかず、小暮の顔ごしに見える入り江の海だけをみていた。
「小暮警部。東京からおいでになったのは、あの白骨がもしや殺人だと…」
身を乗り出すようにして杉野が訊いた。
テーブルの上のコーヒーカップがその洋服の裾に当たって「カタ」と鳴った。
「いや、そこまでは考えてはいませんが、妙なことがありましてね」
「と、おっしやいますと…」
杉野は、一種の尊敬の眼差しで聞き返した。
「昨春、“イズモコバイモ”という花が見つかったことはご存じですね」
「ええ確か…高校の先生が見つけたと、私も聞いたことがありますが…、それと白骨と何か関連でも?」
「いや、特にそれだからどうとか言うのではありませんが、元々この隠岐島にないものが事件の現場近くにあったのが、妙に気になったんですよ」
「…」
どうしたのか杉野は、その言葉に息消沈したように、頭を掻いた。
小暮は、そんな若い刑事の心中をすばやく察知したのか、笑って再び言葉を続けた。
「ところで、あの遺体はこの土地の住民ではないとのことは明らかなようですが、旅館や関係先はいかがだったんですか?」
「警部がおっしゃる様に、船舶や関係先と思われる所は全て当たりましたが、今のところ、なんの手がかりもつかめません。正直に言って、お手上げの状態なのです。もちろん、すでに自殺として処理されてはいますが…」
正直に告白する杉野の顔は、細かく搖れて沈んでいるように、並木には見えた。
「男が死んだと推定される時期から一年ほど遡った観光客の追跡調査でも、数十人の人間が偽名やでたらめな住所でしたし、現在、届出の出ている捜索人依頼や失踪人の中でも、該当者はありません」
「そうですか。よく判りました。ついでと言ってはなんですが、当たられた名簿を見せては頂けないでしょうか」
「名簿ですか? 構いませんが。ちょっとお待ち下さい」と、気軽に席を立ち店を出ていった。
並木の席からは、浦郷署に戻っていく杉野の姿が先ほどより、いくぶん元気そうに見えていた。
「君は、やはり糸波が以前もここに来たことがあると考えているんだね」
「もちろん、なんの証拠もないがな。だが、糸波か奴に関係する人間が来たことがあるのはまず間違いはないと思う。分からないのは、今度の場合は本名で宿泊している」
「ふつうなら偽名を使うだろうね」
「…そうなんだよ。何かに直接に手を出すような“やばい”仕事ならな。だが絶対何かがあるはずだ」
「君が言いたいのは、仮に前回も来ていれば偽名で来ていると考えられる。もしそうなら、知られては不都合なことだろうということだね」
「そういうことだ。どういう訳かあの“イズモコバイモ”のことがどうしても気にかかってね」
「あるはずのないものがあるんだからね。しかし、警察はここのところはどう考えているんだろうか?」
「先ほど、あの若いのがそれとなく白状していたさ。見落としだよ。結論が先に出てしまっているからね。もちろん、死体発見場所と花があった所が離れていたこともあっただろうし、花を見つけたのが、死体発見より一年も前だからね」
「それと、検視報告か?」
「ああ、死体検案書と状況証拠だよ。俺も、一度これに似た苦い経験をしたことがあるが、場合によっては検視の報告以外に頼るものがないからな」
「ある意味ではやむを得ないということか」
「残念なことだが、どんなに真剣に捜査しても、何かを身落とすことはあり得る。恐ろしいのはそこなんだよ。当然、我々は冤罪を造ろうとしているのではないが、もしも間違った初動捜査からかかれば、それが起こりうることは十分あるんだよ。初動捜査は、お前さんたちの“業務命令”と同じで、よほど新たな確信が持てる事実が見つからない限り撤回は難しい。だが、誤った捜査から事実を引き出すことは、なお困難だがね」
小暮は苦々しく言って、だまりこくった。
並木は、そんな親友になんと言っていいのか、答えに窮していた。
並木にしてみれば、場合によっては無実の人間のそのかけがいのない人生そのものをも奪いさることに直接に手を貸す人間である小暮の仕事が、無情で非情なものに見えたのだった。
だが、取り返えしのつかない結果を回避するために、危険と絶望の中で足を棒にして真実を追う、この親友が自慢でもあった。
そんなことを思う並木の目に、通りの向こうの杉野の姿が見えた。
「戻って来たよ」
「そうか」
タバコの煙が目にしみるかのように片目をつむって並木に応えるその声は、いつもの“だみ声”に戻っていた。
「お待たせしました。一通りのことはこれで判ると思いますが…、コピーを取っておきましたので、ご覧下さい」
杉野は、小脇に抱えた資料を小暮に渡すと、
「なんでもおっしゃって下さい。協力は惜しみません」と、頭を下げた。
小暮と並木は、それから一時間ほど摩天涯での発見時の状況や、現在までの身元確認の進捗状態を聞いて店を後にした。
二人は杉野の別れ際の言葉が心に残り、再び署に戻っていく彼の後ろ姿を見つめていた。
杉野は、こう言っていた。
「早く、家族の墓に入れてやりたいものですね」と…。
「死者の権利を守り、安らかな眠りに付かせてやりたいと思う警察官が、ここにもいたんだ」
並木は、小暮に語りかけるように言った。
木暮もそれにだみ声で応えた。
「おい。いくぞ! 摩天崖が待っているからな」
隠岐の空は、快晴とは言え、すでに海の色は暗い季節を感じさせた。
ほどなく着いた名勝・摩天涯にはさすがに二人以外に人影はなかった。
はるか眼下の岩場に打ち寄せては引いてゆく紺と白に泡立つ波が、二人の頬と手を凍えさせる冷たい海風以上に寒々とした身を切るものに感じさせた。
小暮は、崖縁に造られた偽木の柵に手を当てて、下をのぞき込んだ。
体ごと吸い込まれそうな錯覚を覚える高さである。
「すごい高さだな。ここから飛び降りたら即、あの世行きだ。人を殺すには確かに都合のよさそうな場所だな」
刑事らしからぬ言葉である。
「おいおい、警察官がそんな乱暴なことを言っていいのか。だけど、君が言うように、もし殺すにしても、自殺するにしても、死ぬとしたらここからの方が薬を飲むよりはるかに効率がいいかも知れないね」
「だが、あえてそうせずに、ヤナギのしげみで死んでいる」
小暮は先ほど行った“白骨”発見場所を指さして答えた。
「杉野刑事の話では、過去の何人かの自殺死体は、すべてこの断崖からの投身自殺とのことだったね」
「そうだよ。だから断崖上の白骨が、最初は“事件”と思ったらしい」
「君はどう思うんだ」
小暮の吐き出すタバコの煙を眼で追いながら、並木が尋ねた。
強風で吹き散らされたその紫煙は、かつてこの断崖で消えた命のごとくたちまち消えた。
「俺が思うには、断崖下で死ねばたちまち見つけられる。そのことを避ける必要があったのでは…、と思うが」
「すぐに発見されることを、本人が故意に避けたと言うことかい?」
「ああ、本人か、または何者かがな」
「たしかに、あの薮には柵もないし、観光客はもちろん、住民でも近寄る場所とは思えないね」
「犬が見つけなければ、たぶん今もあそこにあっただろうな」
小暮と違って、こうしたことに慣れない並木は、その言葉に体がますます冷たくなるのを感じた。
そんな彼の気持ちをその表情から察したのか、小暮は水平線に沈みゆく真っ赤な夕日と、その太陽と対照的とも見えるぼやけた半月を見て言った。
「そろそろ戻るか。俺も寒くなってきた。風邪でも引いたら動きがとれんし、志帆ちゃんに何を言われるか判らんからな」
小暮は、並木の妻である従兄妹の志帆を引合いに出して言った。
今、小暮の眼に映る沈み行く太陽を邪魔するものは一切なかった。
そして、そんな夕日だけが、この断崖での出来事を“つぶさ”に見ていただろうなと、小暮は思っていた。
少し早めの夕食をホテルのレストランで済ますと、二人は杉野から手渡された名簿から、糸波の名を拾い上げようとしていた。
氏名、性別、勤務先はおろか、隠岐での滞在時間や渡島の目的などの、微に入り細にうがつ、詳細な調査名簿であった。
「やはりないか!」
木暮が下唇をとがらして背もたれに寄りかかった。
数万人の名の書かれた中には、小暮の予想どうりその名を見つけることは出来なかった。
「この偽名を使った人たちの中に、あると思うかい?」
並木が、数十人の身元の確認の出来ない名簿を手にして尋ねた。
「たぶんな。この偽名を使っている連中は、どんな事情があるのかは知らないが、いずれにしてもろくな目的でこの島に来たとは思えないがね」
「あの死んだ男も、この中だろうか?」
「普通ならそうだろうが、もし殺人となると、必ずしもそうとは限らないね」
「どういうことなんだ」
並木は核心に迫る言葉を待っていた。
「何者かが、あの場所まで運んで来ることだって不可能じゃあないからな。フェリーで来れば、知られる恐れはない」
「そう言えば、僕も一度車でここに来たことがあるが、たしかに車のトランクを開けて見せる必要はなかったね」
「自殺と思われる男の、明確な死亡推定時期は分からないものなのか?」
「すでに白骨化しているからな。それに、ああした環境下ではなおさら特定は難しいはずだ。絶えず海からの風が吹きつけるし、薮と言っても上からは直射日光にさらされる。当然に腐敗の速度は速まる。検視報告では、死後二年ほどではないかとの結論だったが、死亡月や日時までは判らないね。それに、遺留品の着衣以外には、時期を決定できる手がかりはなかったらしい」
「僕たちの仕事以上に大変なんだな」
並木は、自分の仕事である研究対照の地質について考えていた。
「僕たちの年代決定は、放射性炭素測定などによる、あくまでもおおまかなものだから、数百年などの誤差は最初から問題にしにくい。しかし、君達の仕事は場合によると“数分、数秒”が問題だと言うことがよく判ったよ」
「お前さんの仕事だってたいした違いはないだろう。土に刻まれた痕跡、いわば記憶から数億年、数万年も前のことを明らかにするんだからな。俺たちにはなお想像しにくいがな」
「記憶? なあ小暮。記憶と言えば、過去と現在を結ぶ何かが必要だ。あの白骨死体が何かを記憶していることも十分あり得るんじゃあなかろうか?」
「もちろんそうだが、今までの調べではそれらしいことは一切判らない。現場の状況も自殺に限りなく近いそうだ。だが、お前さんが言うように、俺にもあの白骨に何かが隠されているような気がしてならない」
「糸波との関係か?」
「いずれにしても、仏さんの身元を割ださんことにはなんとも言えんがな」
木暮はそう言うと気を取り直したようにテーブルに手をやった。
渡航客名簿は、杉野刑事から手渡された数十枚にのぼる三種類のB四サイズのコピー紙で、いずれもクリップで留められている。
一種類目はフェリーの乗船客。
二種類目は現地で一泊、もしくは二泊した人間で、すべて身元が確認出来ている人たち。
そして三種類目が乗船記録と宿泊記録において、いずれも偽名を用いた人物たちであった。
「二十五名か。過去一年の間でこの数が多いのか少ないのかは判らないが、ここから当たるのは少し無理なようだな」
にが虫を噛んだような表情で小暮は言った。
浦郷港で下船した乗客名簿の二十五名の中に糸波が必ずいるはずだと、小暮は強く感じていた。しかし、その理由を尋ねられても、今はまだ理論だっては答えることは出来なかった。
「なあ小暮、これを見てくれ。君はどう思う…」
並木が考え込むように、しきりに三種類目のページをめくっている。
「どうした? 何かあるのか」
「この客だが、二年前の四月十日の早朝の便で下船して、ホテルで一泊し、翌朝の便で再び戻っている。それはいいんだが、この客の名前だが、ちょっと気になるんだよ」
「気になる? なにが?」
「この名前を見てくれ。伊藤と名乗っているだろう。どこにもありそうな名前だが、糸波を平仮名で書けば“いとが”。伊藤は“いとう”だ。専門家の刑事さんたちは偽名を使った事件なども多く扱うと思うが、人間て言うのは、自分の名前に近い発音や名前をとっさに思い付くんじゃないのかな。その方が忘れないし都合がいいように思えるが」
「“いとう”と“いとが”か」
小暮は内ポケットからタバコを取り出すと大きく吸い込み、より大きく煙を吐き出した。
「なるほどあり得ることだな…だが、これだけではな…」
「ちょっと待ってくれ」
と、並木はすでに見終わった用紙を手元に手繰り寄せていたが、一〜二分後、
「見てみろよ! “わ”ナンバーだ。レンタカーだ。わざわざレンタカーを使用している」
「…」
深くもたれたソファーのへこみの中で、小暮は腕組してその車両のナンバーの書かれた箇所をジじーっと見ていた。
「車をもって来ること自体は珍しいことではないが、観光なら島でタクシーをチャーターした方が、はるかに便利だし、安い。それに大人数なら車の持込みもいいかも知れないが、この男は一人だ」
「どこにその日は泊まっている」
「ホテル・道前だ」
「ホテル島前か…」と呟くと木暮はドアに目を向けた。
三十分後、すでに時刻は十時を回っていたが、二人は島の反対側に位置し、夏は海水浴客や、釣り客でにぎわう“ホテル・道前”にいた。
行楽の時期も終わり、さらに遅い時刻なのか広いロビーには、二人のビジネスマンらしい男性客の姿が見えるだけの静かなホテルであった。
「いらっしゃいませ」
ここでも礼儀作法の行き届いたフロント・マンの声に、小暮は手帳を取り出して尋ねた。
「少し尋ねしたいことがありまして」
「と…おっしゃいますと?」
突然の警察官の来訪に、フロント・マンは一瞬、驚きの表情と不安をありありと浮かべながらも、さすがにその姿勢を変えることなく頭を下げた。
「じつは二年ほど前のことですが、この人が宿泊されませんでしたか?」
小暮は、糸波の写真を見せて聞いた。
「さあー、なんとも申し上げられませんが…」
「この男性は、たぶん“伊藤”と名乗って、背が非常に高く、ちょうどプロレスラーのような体格の人なんですがね」
「プロレスラーですか…」
小暮の言葉に、フロント・マンは首を傾げていたが、何かに思い当たったように
「少々、お待下さい」と、奥の事務室に入って行った。
数分後、
「ええ、確かにそのようなお客様がお泊まりになられた様ですが、お顔までは…、それに、私どもといたしましてはお客様のことを申し上げることは…」と、言いにくそうに小暮に答えた。
「いや、もちろんそれは十分承知しております。こちらのホテルとあなたにご迷惑がかかるようなことは決して」
自分ではまずいと判断したのであろう。彼はしばらくの間、躊躇していたが、
再び「少々お待下さい」と上司を呼び、宿帳の写しらしいものを手渡して二言、三言告げると元の持ち場に戻って行った。
代わって頭を下げながら対応に出たのは、客室係のチーフ・マネージャーであった。
二人をロビーのソファーに案内し、
「伊藤様のことでなにか…」と、フロント・マンと同様に不安そうな顔付きで二人を見比べるように尋ねた。
「早速ですが、この伊藤さんは、よくこのホテルを利用されるんでしょうか」
「いえ、二年前に初めて御宿泊されたお客様で、その後は一度もおいでになってはおられませんが…」
「一人でお泊まりに?」
「はい。この宿泊記録ではお一人です。ただ、私どものお出しいたしました礼状は、該当者不明とのことで戻って参りましたので住所などは判りませんし、警部さんのおっしゃるように確かに体格のいいお客様でしたが、お顔までは、私どもも覚えてはおりませんが…」
マネージャーも先ほどのフロント・マンと同じ返答であった。
「そうですか。いやありがとうございました。なにかこの人のことで思い出されたことがありましたら、ご連絡をお願いします」
これ以上の話は望めないであろうし、小暮は名刺に県警の電話番号を書いて渡すと、並木とホテルを出、たった今後にしたホテルを振り返り吐き捨てるように言った。
「お前さんの予想が当たった。“伊藤”は、糸波と考えてまちがいないだろうな!」
「やはり、偽名か!」
その翌日。
二人は地図を片手に“イズモコバイモ”の発見地に向かった。
当日は、昨日とは打って変わったどんよりとした空模様であった。
前もって杉野刑事から聞いていた場所に続く、林道の向こうに落葉樹の森が、暮秋の静寂の中に広がっていた。
「なるほど、ここなら生育出来そうだね」
と、自分自身に言い聞かせるように、並木があたりをゆっくりと見回しながら言った。
「昔からあったんだろうか」
「いや。そうではないだろう。やはり、盗掘ではないかな」
「その花は、種で増えるのか?」
小暮は、からっきし花などの知識は持ち合わせてはいず、その道にも詳しい並木に苦笑いしながら尋ねた。
彼の知っている花と言えば、桜と梅の花くらいなものであったのだ。
「そうだね。だが、イズモコバイモは、例えばアメリカセンダングサなどのように洋服や動物などに付着して繁殖する植物じゃない。おまけに、ある程度、人為的な手の加わった所にしか生育できないし、潮風には非常に弱い厄介な花なんだよ。だから、摩天涯のような風衝草原や海岸部では生育出来ないんだよ」
「風衝草原? 普通の草原とは違うのか?」
並木は、小暮の問いに、
「ほら、あの木の間から、摩天涯が見えるだろ」と指差し、続けた。
「いや、広い意味ではよくみられる草原だが、隠岐などのように、島の急斜面などで非常に風当りが強く、木本ーようするに草木が生育しずらく、あってもイネ科やカヤツリグサなど、あるいは矮小化したヤナギなどが混在する草原のことだよ」
「そういえばあの場所は、ヤナギの木が多かったな。ところで、今の時期にその花は見つけられるのか?」
「いや。この時期には“イズモコバイモ”の痕跡を見つけるのは無理だよ。だが、この地にないはずの花が、死体の見つかったところからそう遠くないここにあったのは、何かしら意味がある様な気がするが…、思い過ごしなら良いのだがな」
並木はそう言うと、厚く積もった落ち葉を足でかき混ぜた。
翌日の始発フェリーで本土に戻った二人の行き先は、小暮が三日前に訪れたレンタカーの営業所である。
「あ、警部さん。なにか判りましたか?」
先日、小暮に糸波のことを詳しく話した、所員が尋ねた。
「先日はありがとうございました。ところで、二年前のことですが、あの客が同じように車を借りたことはなかったでしょうか」
「えっと、糸波さんでしたね。お待下さい」
と言うと、慣れた様子で顧客台帳と、書かれた分厚い書類を「パラ、パラ」とめくっていたが、
「有りました。二年前の四月十日ですね。糸波さんが借りられたのは」
その返事に、並木は小暮と眼を合わせた。
小暮のその表情は、獲物を嗅ぎつけた獣のようだと並木は感じた。
松江に戻ると、小暮は、島根県警の矢島刑事に一昨日からの経過を慌ただしく説明し、友人に言った。
「並木、これから立久恵峡に行ってみようと思うが」
「立久恵か。そう来ると思っていたよ」
並木も、すでに小暮の探ろうとすることが判り始めていた。
「イズモコバイモの自生している場所はおおよそ見当がついている。もちろんこの時期は、見つけることは出来ないがね」
二人にとっては、立久恵に糸波が姿を現したかどうかが、最大の関心事であったことは、言うまでもなかった。
ハンドルは並木が握った。
二人を乗せた車は二年前の四月十日と、今月はじめに、糸波が何事かを企んで走ったはずの道と同じ大型農道を走り始めた。
目指す立久恵峡は、糸波の出生地である乙立町を通り抜けるように走る県道と、その道路に従うように流れる神戸川の上流にある。
出雲市よりおよそ二十キロの場所だ。
車窓からは、すっかり葉を落とした木木のあいだから切り立ったた屏風のような岩が、真実を知ろうとする二人の眼に、何かを隠しさるかのごとく起立していた。
「立久恵峡に入ったよ」
「空港から四十キロか」
メーターに眼をやると、小暮は一人うなずいた。
「なにから調べるんだい」
「まず第一に目撃者捜しだよ」
「すでに二年が経過している。たいへんだな」
「毎度のことだよ。だが、俺たちのやろうとしているのは、もっと昔のことを知るためだよ。十五年前のな!」
民家は疎らであったが、さすがに景勝地である。
道路沿いの峡谷を見渡し、見おろせる道路の両側には数軒の旅館が人待顔と言った風情で建っていた。
並木は、以前も来たことのあるユースーホステルの駐車場に車を乗り入れた。
立久恵峡の散策コースはここから始まり、ユースーホステルの白い建物の向こうに、先ほどから見えている中世代の堆積物である屏風岩が圧倒するかのごとく迫ってくる。
ユースホステルから始めた聞込みの結果、二人が「やはり」と思える成果を得たのは、ある一人の主婦からであった。
「それはいつごろですか?」
「たしか、三年前の春先だったはずですが。子供の就職の買物で、夕方ここを通りかかった時、見慣れぬ男の人が橋を渡ろうとしていたんですよ。この先は、今は空き家になっている陣野さんの家が在るだけなので、なにをしに来たのかなとは思ったのですが、そのまま家に戻ったんですよ」
主婦は、見慣れた橋を指さして応えた。
「三年前? 二年前では?」と、小暮は小首を傾げて聞き返した。
「いえ三年前ですが。間違いありません」
主婦は言下に否定した。
「そうですか。ところで、その日ですね? 空き家で明りが見えていたのは」
「ええ。ですが、なにかしら気味が悪くてそれ以上は…、二〜三日様子を見て駐在さんには連絡しようとは思っていたんですが、その後は明りも見えず、変わったことはないようなのでそのままになったんですよ…」
「先ほど聞いたところによりますと、その陣野さんのご家族は息子さんが一人だけおられるそうですが、その息子さんということはないでしょうか?」
「さあ…、そんな話はききませんでしたが…」
「そうですか。ところで、陣野さんの息子さんの現在の住まいや勤め先をご存じないでしょうか」
「…分かりませんね。東京に行ったと聞いたことはありますがね」
主婦は首を傾げていたが、かつては隣人とはいえ、すでに数十年も音信不通の男の所在を知ってはいなかった。
「ありがとうございました」
小暮と並木は礼をいい、見知らぬ男が渡ったと思われる橋を川向こうの樹木に覆われた廃屋の方角に歩んで行った。
その時である
「あ…、刑事さん。ひょっとしたら糸波さんが知っているかも知れませんよ」
主婦は思いがけない名を口にしたのである。
「糸波!」
その言葉に二人が仰天し、橋をあわてて引き返した。
「いま糸波とおっしゃいましたね!」
「ええ、陣野さんの息子さんと、今は市内に住んでいる“糸波の清さん”は中学まで一緒で仲がよかったんですよ」
「糸波清さんと言いますと、出雲市で叔父さん夫婦と暮らしておられる“糸波清さん”のことですか?」
「ええ。そうです」
「もう少し詳しく話していただけませんか」
二人が気色ばんだことは当然であった。
一通りのだが、思いもしない情報に並木と木暮は主婦に深く礼を言って急ぎ足に橋を渡った。
暮秋の木漏れ日の中で朽ち果てる時を待つだけの、すでに主を失って久しい廃屋は、見る影もなく殺伐とし、哀れささえたたえたように二人の眼に映った。
だが、その廃屋が、二十数年の時の流れに飲み込まれつつも、その最後の最後まで抵抗する意思のある生き物のように並木は感じた。
「まもなく雪が降る。いつまで崩れずに持つんだろうね」
訪れ来る銀世界の中で、やがては崩れ落ちるこの廃屋を哀れなものと思うと同時に、この家の住人であった人たちのことがふと並木の脳裏に浮かんでは消えた。
そんな感傷を覚える並木に、小暮が尋ねた。
「あの奥さんの話を、お前さんはどう聞いた? 二年前でなく三年前と言った」
「そうだね。子供の就職時の買物と言っていたから間違いはないはずだろうからね…」
「少し妙なことになってきたな! しかし、いずれにしろ陣野、あるいは糸波か、糸波に近い人間がここに来たことは確かだ」
「陣野忠とかいう、この家の男が、糸波の弟と知合いということは、兄とも面識があって当然だろうね」
「この狭い地域だ。三人とも同じ中学だろうしな」
「二年前に糸波が島根に戻ったときは弟に会っている。だが今回は違う。僕が思うには、帰省した目的そのものが違うんじゃないのかな」
「目的が違うとは?」
「例えば、最初は人捜しで、つぎの隠岐行きは、何かを確かめに行ったというようなことだね。素人考えの勇足かも知れないが、かりに、この家に立ち寄った男が陣野だとして、その陣野を、糸波が何事かの理由で追っていた」
「なるほど。ありそうな話だが、とにかくこの家に立ち寄った男が誰なのか、そして、あの白骨死体が何者なのかが判れば、糸波が何故二度も島根に来たのかが判るからな」
並木の言葉に頷きながら、小暮は草も枯れたかつての庭を歩き回っていた。
そんな小暮の眼が、転がっている石の脇で止まった。
以前、この家の主人が端正したと思われる松の庭木を囲っていた二十〜三十センチ角ほどの石のすぐ横であった。
「ん?」
「どうしたんだ?」
しゃがみ込んで何かを見つめる木暮を並木が呼びかけた。
並木の問いかけに、小暮は大きな声で応えた。
「おい。印鑑だ!」
「印鑑?」
「まだそう古いもんじゃないぞ!」
拾い上げた印鑑にこびりついた泥を落として、小暮が並木に見せた。
「陣野だ! やはりここに立ち寄った男は陣野に違いない」
「小暮、遺体を調べる必要があるね」
「当然だ! そして糸波もな!」
翌朝、市内に住む糸波の弟を再び尋ね、陣野の背丈やその他の特徴を聞き込んだ県警の矢島刑事をともなって、二人がS医科大の門をくぐったことは言うまでもなかった。
「年齢や体格などはほぼ陣野忠と一致します。後は、東京の陣野の住まいを確認次第に糸波との関係を徹底的に洗う手筈を取りました。矢島刑事、ありがとうございました」
東京に急遽戻ることになった木暮は、矢島と固い握手を交わすと、並木に言った。
「世話になったな。例の“イズモコバイモ”のことをお前さんが話さなければ、俺たちは、今ごろまだ電話帳とにらめっこしていただろうな。ありがとう。何かあったらまた頼む」
東京に戻った小暮は、糸波の弟から提供を受けた陣野の写真と共に、お茶の水にあるT大の法人類学教室を尋ねた。
“スーパーインポーズ”を依頼するためである。
“スーパーインポーズ”とは、白骨を元に、その人間の顔を生前の状態に復元するという科学的で驚くべき手法であった。
画期的とも言えるこの方法は犯罪捜査だけでなく、事故などで身元が判明しない場合にも威力を発揮するのである。
白骨遺体は一足先に届けられていた。
そして、 陣野の友人である糸波の弟と並んで撮られた八年前の写真から、彼の身長も推定された。
三十二歳時に写された写真であり、すでに成長は止まっているはずで一六八センチの身長は、白骨遺体のそれと同じであった。
そして 、彼の笑顔の写真と、頭蓋骨のコンピューター処理による重ね合わせが一致したのである。
研究室から出た小暮に、留守を預かっていた部下の工藤刑事が、興奮気味にきいた。
「警部、やはり糸波の仕業でしょうか!」
「たぶんな。しかし、まだ結論ずける訳にはいかない。奴がやったという証拠は一つもないからね。今までに判っていることは、糸波は陣野と面識があり、陣野が死んだ時期と、その遺体が発見された時期の両方に、島根県に行ったことだけだ」
「直接の死因は、あくまでも睡眠薬によるものと見られていますが、偽装でしょうね」
「立久恵峡の廃屋での島根県警の調べでは、印鑑以外は何も出てきてはいない。だが糸波が陣野を追ってあそこに行ったのはまちがいないだろうな」
「そして殺害した」
小暮は、工藤のその言葉が正しいと確信してはいたが、いま一つ腑に落ちないことがあった。
それは、“殺害の動機と、この殺人が、十五年前の伍代早苗の殺人事件とどのようにつながるのだろうか”との素朴な疑問と、そして、最大の謎は、
“「二年前でなく、三年前とはどういうことだろう?”」との、不可解な疑問であった。
小暮は、手帳を取り出した。
その手帳に刻まれた、克明なメモの一番上の数字は、二十八と大きく書かれ、二十丸で囲われていた。
時効まで、あとわずか二十八日であった。
桜田門の捜査一課で、捜査の進捗状況を報告するために、小暮と工藤は、課長・神宮の前にいた。
「世田谷の、陣野のアパートの管理人の話では、陣野が香港に行くと言ってアパートを引き払ったのは、死体発見から二年ほど前だそうです。しかし、彼が渡航した形跡は一切ありません」
「ないですか」
神宮は、“それで?”と言うような顔で先を促した。
「陣野が、姿を消したのが四年前で死亡したのが二年ほど前です。結局、二年の空白があります」
「その間、どこに陣野はいたか。そして何から、また何のために隠れたかですね」
「はい」
「それで、陣野と糸波の関係は?」
「驚いたことに上司と部下の関係なんですよ」
「宅澤興業の社員だと?」
神宮が興味深そうに聞いた。
「そうです」と、応える小暮の横で工藤が言葉を引き継いだ。
「陣野は二十年程前に東京に出てきています。友人である糸波の弟の世話で宅澤興業に入社していますが、同郷と言うこともあって糸波には随分と眼をかけられていたようです」
「その糸波の元を去ったんだね。そして、その糸波に殺害されたとすると、よほど糸波か会社にとってまずいことを知ったか、したかのどちらかだね」
「はい。彼が生きていては、都合が悪い人間がいたことは確かだと思われます」
「ぐれさん。ぐれさんの考えは?」
課長の神宮が、小暮の眼を正面からみて訊いた。
「もし口封じの殺害としたら、ここ最近の糸波や宅澤のあわてぶりがなんなのか…、陣野が殺害されたのは二年前です。それまでの宅澤興業にはこのような動きは見られません。それが、急に一大事とばかりに不穏な動きを見せています。糸波が隠岐に行ったのは、死体が発見された当日です。しかし、それは住民によって偶然に発見されたもので、死体の発見を彼が知っていた訳ではありません」
「殺害した男が、その被害者発見の当日に隠岐に現れた訳ですね。それも二年後に」
神宮は一息ついてさらに続けた。
「まるで死体が呼んだ様ですね」
「課長。確かに課長がおっしゃるように、死体が糸波を呼び寄せた節があると、私も思っています」
「おい、おい。ぐれさん、私が言ったのは、ほんの思い付きの冗談ですよ」
神宮は、小暮の真剣な口調に驚いたように訂正の言葉を口にした。
そんな神宮に構わず、小暮は隠岐島での情報を話した。
「じつは、死体発見当日の警察官の証言で、気になることが出てきたのです」
「というと?」
「駐車場で待機していた警官が、一台の車両を目撃しています。制止の合図を送ると、その車はすぐに現場から立ち去ったため、警官は、単なる野次馬だと考えて当時は特別に気にも止めていなかったそうです」
「それが糸波だと?」
「ええ」
「死体に用があった。そうですね?」
「はい。たぶん」
現場から引き換えした車両の色は白であり、糸波の借りたレンタカーの色も同じ白色であった。
「ぐれさん。糸波を呼び、様子を見ますか」
神宮の言葉に深く頷くと、小暮は工藤を振り向き言った。
「任意同行でなら可能だ!」
その午後、小暮は糸波と向かい合った時、相対示する男の眼の奥に異様とも思える色を見た。
そして、小暮は、
「こいつは、一筋縄じゃあいかないな」と口の中で呟いた。
それは、多くの犯罪者に接した殺人課の警部の正直な気持ちであった。
「陣野さんの死亡の件で、ご協力をお願いします」
との、警察の任意同行には以外にもあっさりと応じた糸波であったが、
「現場であなたを見た人がいる」との”かまかけ”も、小暮の予想通り、
「私の写真でもありましたか?」
と、余裕とも不敵とも取れる表情と口ぶりで、同行に応じた時と同じように糸波はあっさりと否定した。
「二年前に、お泊まりになったホテルで偽名をお使いになったのはどうしてですか」
「偽名? ハ、ハ…。ばれていましたか。警部さん、警察も暇ですね。大の大人の行動を調べて…。私も男ですよ。たまには違う女性と楽しむ気持ちが涌いても不思議じゃないでしょう。遊ぶに、本名を名乗る馬鹿はいませんよ。警部さんたちも人の粗を捜す前に、大人の、少なくとも男の心理を勉強された方がより犯罪捜査に役に立つんじゃないですか?」
「おい糸波! それはどういう意味だ」
糸波の言いたい放題に、若い工藤が思わず声を荒げた。
だが、小暮が部下を止める前に糸波の眼が大きく見開かれ、それと正反対に低い言葉が漏れた。
「なに! 警察は捜査に協力している市民を呼び捨てにするのか! 警部さん、車を呼んでもらおうか。うちの元社員のことなのでここに来たが、こんな失礼な男を相手にするほど私は暇人ではない。これから私に用がある時は、弁護士を通して頂きましょう!」
糸波は小暮の、
「糸波さん。ご立腹を治めて頂けませんか」との言葉にも、一切の耳を貸さず糸波は帰って行った。
「警部。申し訳ありません」
怒りで拳を握りしめながらも工藤は、頭を下げたままでいた。
「仕方がないさ。だが、実は俺が言いたかったことを君が代わりに言ってくれたまでだよ。それに、奴は俺たちを怒らせて、自分の立場を有利にしようと企んでいるんだからね」
そう言うと、小暮は工藤の肩を軽く叩いた。