第一章 女囚・村尾伊佐子
「カナカナカナ…、カナカナカナ…」
都下・八王子市の、とある静かな佇まいの中で、もの悲しく聞こえるヒグラシの声が、警視庁捜査一課警部・小暮大次郎の足を止めさせた。
年を追って人口の増加するこの街にあっても、この地域だけは数十年来の静けさを保ち、古い一戸建ての住宅が八月末の木々の間に見えかくれしていた。
「そうか、あれからもう四年か…、早いものだな…」
木暮は八王子医療刑務所の門を前にし、コンクリートの厚い壁を見上げて呟いた。
口に出したように、四年ほど前に彼が逮捕した女の見舞いにきたのであった。
その身寄りのない女囚は、重度の病に犯され、残り幾ばくの命と聞き訪ねたのである。
もともとこの服役者との関わりが一番強いのは、捜査四課と厚生省が管轄する麻薬取締り官の仕事のはずであった。
だが、麻薬と売春のからんだすさんだ生活から抜け出そうとして犯した罪で、女は、いわゆる殺人課の刑事に現行犯逮捕されたわけである。
四年前、木暮は数人の刑事と共に、女みずからの通報によって、犯行現場である被害者宅に駆けつけた時の事を今でも鮮明に覚えていた。
八王子市郊外にある高級住宅の一室で、豪華な絨毯を血に染めて倒れ伏す男のすぐ側に、凶器の果物ナイフを足元に落し、その両手と言わず、顔と言わず、全身に返り血を浴びて痴呆のように呆然と立ちすくすくむ殺人容疑者・村尾伊佐子がいた。
それが、今日見舞った女である。
一種独特の血の臭いが充満している部屋の外で鳴くヒグラシの声が、この凄惨な事件と立ち尽くす女を象徴するかのごとく聞こえてくる、ある夏の終わりのことであった。
さらにそれは、彼が桜田門の警視庁に配属された記念すべき日から、ちょうど十一年目の、同じ日であった。
警察白書によると、東京都内だけで年間に起きる自殺者・他殺・災害事故者などの死亡事件はおよそ四万件〜五万件にも上り、その中で、「一割強が他殺を含む変死者」であるという。
つまり、変死という異常な死を迎える人間が、一日平均にして十名以上ということである。
小暮たち警察官を休ませることのない、このような数え切れないほどの事件の毎日の中にあっても、小暮はヒグラシの声を聞く度に、ある二つの事件を思い起こすのだった。
一つは、この村尾伊佐子の起こした事件であり、そして今一つは、同じ八王子市で十五年ほど前の冬の日に起きたある殺人事件である。
この、すでに決着している事件が木暮の心にいまなを強く残っている理由として、この二つの事件の現場が驚くほどに近かったこともあったが、それぞれの事件の犯人である二人の女が妙に重なり合ったからであった。
そして、なによりも、小暮の記憶から消えない“何か”を、二つの事件から彼が感じていたからかも知れなかった。
その十五年前の事件の犯人と目された伍代早苗は、いとも簡単に所轄署である八王子署により検挙されたが、彼女はその十日後、持病である心臓病により、逮捕と同様あっけなく死亡した。
当時、一部の新聞と週刊誌は、警察の無理な追求が容疑者・伍代早苗の持病を悪化させたのではないかとの、言いがかりとも取れる記事を連日のように掲載した。
とくにあるテレビ局などは、警察の捜査方針を非難さえした。
が、それは全くの事実無根であり、むしろ死期の近いことを悟っていた彼女の覚悟の殺人であり、又病死であったと見る方が自然であった。
伍代早苗の起こした、覚悟の殺人とは…、
都下・八王子市で起きた、横領と三角関係のもつれによると見られる殺人事件であり、殺害されたのは二人の男女だった。
そして、それは年も押し詰まった、十二月三十一日のことで、男の名は“因島義則”といい、当時三十三歳の企業経営者。
女は、その従業員で佐々木聖子。二十九歳の経理課所属の女性である。
殺害された因島義則は、逮捕された伍代早苗の婚約者であり、八王子市の郊外を一手に受け持つ大手の燃料会社社長だ。
市内の中心部はすでに都市ガスが引かれていたが、それ以外の幾つかの町はいまだにプロパンガスが供給され、増え続ける八王子市の台所を預かるこの事業をますます伸張させていた。
伍代早苗も、因島義則とは従業員と雇用主の関係であったが、その翌年には社長である因島と結婚の運びとなっていた仲でもあった。
言うまでもなく、因島は婚約者である早苗が病弱であることは知ってはいたし、経営者仲間からも両家の子女との縁談の勧めも頻繁にあったが、彼は早苗のまれにみる清楚とも言える美貌には抗しきれず、ベタボレというほどに早苗に夢中であった。
だが、こともあろうことか、その因島が、婚約者である早苗の同僚事務員・佐々木聖子と、全裸のまま無惨な惨殺死体として、マンション自室で発見されたのだった。
司法解剖の結果、二人の直接の死亡原因は、鉄製の灰皿で共に頭部を強打された、頭蓋骨陥没に起因する脳内出血によるものと断定された。
事件は次のようにして発覚した。
大晦日は、例年、社長と幹部だけで一年の締めくくりを祝うのが慣わしであった。
第一通報者は、普段勤勉な社長・因島らしからぬ突然の欠勤に不審を抱き、その朝、九時過ぎに国道沿いの因島のマンションを訪ねた、経理課長・山城光則(三十五歳)である。
事件の容疑者は驚くほど早く判った。
鑑識の報告から、殺害現場に残されていた凶器の灰皿に残る早苗の指紋と、死亡推定時刻である前夜の十時頃に、事件の現場であるマンションを逃げるように立ち去る彼女の姿が数人の住人により目撃されていたのである。
日頃は隣人に無関心な住民も、こと“男と女”のこととなると目の色を変え噂する日常が、婚約者の彼女を因島のマンションで有名にさせてもいたし、その清楚な美貌と物腰は、住人達に好感を持たせていたからだ。
彼女は、事件発生のその翌日に任意同行を求められ、三日後には、住まいするアパートで所轄署の刑事に“殺人罪”で逮捕された。
容疑事実としては、現場に残された指紋と目撃されたことは当然であったが、アパートの家宅捜査時に、彼女の自室内の冷蔵庫内から、ビニール袋に包まれた茶封筒に入っていた五百万円もの大金が発見されたのである。
そして、すべてを否定する早苗の取り調べの最中、彼女の勤務する因島ガスで、ここ一年の間に同金額の金が紛失している事実が発覚したのであった。
早苗は、金銭出納に関わる経理課の事務員であったし、その直接の担当者である古参の事務員・聖子と社長の死は、早苗に横領の疑惑が浮かび上がったことにより、殺害が早苗によるとのより濃厚な動機の一つとして考えられたことは、ごくごく自然のことでもあった。
聖子に横領の事実を知られ追求されたために殺害したとの判断が、指紋や目撃情報と同じほどの、いや、それ以上の決定的な逮捕の決め手となったのである。
この金銭トラブルの相談で社長・因島のマンションを夜分に訪ねた早苗が、思いもしなかったベッドで同衾する二人に逆上した上での犯行でもあるのでは…、との推測も手助けしたことも、早苗にとって、全ての状況が疑うべくもない殺人者とするに十分すぎるほどであった。
だが、伍代早苗は、動かぬ証拠の数々を突きつけられても一貫して無実を訴え続けた。
しかし、その叫びも、明らかな証拠の前には単なる悪あがきとしか受け取られなかったことは言うまでもなく、さらに、数日後の彼女の死亡により事件は終わりを告げた。
そして、幼い頃両親を亡くし孤児院で育った早苗には身よりもなく、その痩せ細った亡骸は、他界した彼女の両親が眠る瀬戸内の小さな島に葬られた。
小暮大次郎は、すでに十五年が過ぎ去ろうとする現在でも、警察官になりたての時期に起きたこの事件の“展開と結末”とに、言葉に出来ない妙な“何か”を感じている自分にいつも気がつくのだった。
それは、重苦しいーいわば消化不良とも言えるような“何か”であった。
だが、小暮にしても、身内とも言える所轄署の刑事や証拠を疑うことはあろうはずがなく、当時の状況からみてしても、死亡した伍代早苗以外に犯人は考えられなかったことは言うまでもなかった。
医療刑務所から帰途に着く小暮の脳裏には、先ほど見舞った女囚・村尾伊佐子の言葉が深く、そして重くのしかかるように渦巻いていた。
女囚・村尾伊佐子が告げた“ある言葉”は、木暮に医療刑務所のコンクリートの厚い壁を何度も振り返えらさせて反芻させた。そしてその足をも何度も立ち止まらせた。
「警部さん。いつもありがとうございます」
女囚・村尾伊佐子は、病の床で、ことある度に訪ねてくれる小暮に虚ろな目と震える口で、彼女に出来る精一杯の感謝の言葉を口にすると、
「そろそろ失礼するよ。又、近いうちに寄るから」
と、ベッド脇の椅子から立ち上がろうとする小暮にぽつりと言った。
「警部さん。殺人の時効は、確か十五年でしたね」
「ああ、そうだが…? 急にどうしたのかね。どうしてそんなことを?」
「…警部さん。警部さんはあの事件を…、あの十五年前に、この八王子で起きた殺人事件を覚えておられますか?」
「十五年前?」
「ええ…。十五年前に伍代早苗と言う若い女性が、ガス会社の経営者とその交際相手を殺しといわれる、あの殺人事件です」
小暮はベッド脇の椅子を引き寄せて再び座り、応えた。
「ああ、その事件ならよく覚えている。犯行に走った婚約者が死亡して、捜査は終了した後味の悪い事件だったが…、しかしその事件が?」
「ええ…警部さん。実は、私と早苗さんは、同じ施設の出身なんです」
「施設? 君の居た孤児院のことかい?」
小暮は、伊佐子が小学生の頃、その両親を交通事故で亡くし、親戚中をたらい回しにされてその挙げ句に孤児院に入れられたことは、彼女を取り調べる過程で知ってはいた。
が、なぜか木暮はその言葉に引き込まれるように伊佐子を見た。
「私と早苗さんは同じ境遇の仲間…いえ、姉妹と言っても良いほどの付き合いをしていたんです。年齢は私が二ヶ月ほど上で、そんな何でもないことからも本当の姉妹以上に仲が良かった…早苗さんは死んでしまったけれど、私はあの事件を知った時から絶対に彼女が犯人なんかじゃないと思って来ました。私と違って、あんな優しい人が…、早苗さんが人殺しなんかするはずがありません!」
伊佐子は、幼い頃の記憶を手繰り寄せるかのように木暮を注視して言った。
そして、その痩せた首を僅かに窓の外に向けた。
木暮は、彼女の視線の向こうにネズミ色の塀を見た。
彼は、この不幸な女が生きてあの塀を越えることは出来ないだろうと、連絡を受けた医師から知らされていたし、それはまた、横たわる女自身も同じようによく判っていることでもあったろう。
彼女の身体は、長年の麻薬摂取のためもはや回復は叶わぬほどにボロボロであった。
「早苗さんは私に、いえ、誰にでも親切でした。警部さん。あの人の無実を証明してください!」
「無実を?」
小暮は、一瞬首を傾げて伊佐子を見た。
「私が殺した宅澤徹人と、早苗さんが殺したと言う因島さんは知り合いのはずです!」
「何故、君がそんなことを知っているんだ!」
小暮は椅子から大きく身を乗り出すように訊いた。
その声は病室にそぐわないほど大きく、鋭いものであった。
「手帳です…。宅澤が、私を自宅に呼んだとき、自慢そうに“たくさんの名前と記号”のようなものが書かれた手帳を見せてくれました。宅澤は『こいつらは金のなる木だよ』と言っていましたが、その頃は私もあの男に夢中で、その中の一人の名前が早苗さんの『出身地である因島と同じ』ということくらいしか興味がありませんでした。もちろん、その時はそれ以上さして気にも止めていませんでしたが、新聞で因島義則と言う人が早苗さんに殺されたという記事を知ってからは、ずっと気になっていたんです。あの事件の後、それとなく宅澤から因島という人のことを聞き出そうとしましたが、決して教えてはくれませんでしたし、手帳も二度と見せてはくれませんでした」
伊佐子はそこまでを一挙に喋った。
「因島か…あまり聞かない名前だからね。下の名も覚えているかい?」
「いいえ。因島としか覚えてはいませんが、でも、早苗さんが亡くなってから、私の立場を利用して、それとなく殺された因島義則さんのことを宅澤の周辺で訊いて歩いたんです。ここ最近になって、やはりあの手帳にあった因島さんは“因島義則さん”で、私と同じように麻薬に関係があったのではないのかと思うようになったんです」
「麻薬か…」
「はい。私は、因島義則さんは麻薬が絡んだことで殺されたのではないかと思っているんです。私が早苗さんの住所や近況を知ったのは、あの人が殺人容疑で逮捕されたと、新聞で知った十五年前でした。でも、当時の私は早苗さんの前に姿を出せるような生活ではありませんでした。宅澤からは離れることが出来なかったのです。私の身体は、薬と宅澤から…」
痩せて骨と皮ばかりの手で、伊佐子は耐えきれないように顔を覆った。
その両手の間から「ウウッ…」と悲しみとも自虐とも取れる嗚咽が漏れた。
そして、その手は、伊佐子と同い年の小暮の妻の手よりも、三十も四十も老けた老婆のような手であった。
翌日、小暮が桜田門の捜査一課で知らされたのは、村尾伊佐子の死と、彼女からの再度の“言づて”であった。
死にいく伊佐子は、苦しい息遣いの中で「宅澤と因島義則の関係を調べ、伍代早苗の無実を明らかにしてくれ」と、その最後の願いを小暮に託したのである。
それは、伊佐子が木暮に言った初めてで最後の頼みであり、幼なじみを信じるが故の、そして、伊佐子にできる唯一の方法であった。
殺人の時効は十五年である。
女囚・村尾伊佐子は、あとわずか四ヶ月後に成立するであろうその時効を止めようとしていたのであった。