第四章 男の目的


東京で、宅澤興業に張り付くように捜査をしている木暮と部下の工藤が妙なことをその耳にしたのは、昨日であった。
八王子で宅澤玲二の身辺の洗いだしをしている島田刑事から、邸宅での彼やその腹心の部下である糸波の行動が逐一伝えられた。
その中で、とくに木暮に興味と関心をもたせたのは、先代からの社員である糸波譲の出張であった。
「木暮警部。八王子署の島田刑事からですが、糸波は十日前に突然、島根県に出かけているそうです」
「島根県に?」
「ええ。それに宅澤は、繁茂と思えるほどに、自宅にお抱え弁護士を呼びつけています」
「妙な動きだね」
「はい。糸波は、羽田から朝一番の出雲行きです。それにしてもどう言うんでしょうね?時効前に急に妙な動きをし始めていますが、偶然でしょうか」
「糸波はすでに戻っているね」
「ええ。現地で一泊したと思われますが、それからすぐに舞い戻っています。糸波が何をし、また誰にあったかなどはこれからです」
「糸波が最近になって住まいも変えたのも気になるのだがね」
「たしか、あの因島義則が殺されたマンションでしたね」
「そうだよ。島田さんの情報では、越したのはひと月ほど前だそうだ」
「まさかあんな大男が誰かから逃げ出すわけはないでしょうから…それと、殺人事件があったマンションとは、一体なんの為なんでしょうね」
「そこだね。まずその“理由”と“島根行き”。それと、二代目が何を慌てているかだ。俺は糸波の行動を追って、島根県に行ってみる。君は、島田さんと一緒に宅澤を頼む」
 彼らの行動が犯罪に抵触しているわけではない以上、正面きっての尋問も監視・尾行なども出来るはずがない木暮たちは、どの様な些細な事柄であってもスッポンの様に食らいつかなければならなかったのだ。
捜査のための出張の手続きは、面倒なものであったが、課長・神宮は直ちに許可を与えてくれた。
そして、退出する木暮に声を掛けた。
「ぐれさん、吉報を待っているよ。ああ、それから島根県警には協力を依頼しておいたから顔を出すように」
木暮は、その言葉に感謝しながら「寝台特急・サンライズ出雲」の車中にいた。
東京発二十二時00分。定刻通りに、上品な色に塗られた「サンライズ出雲」の流線的な姿が、静かにホームを離れた。
列車は間違いなく目的地に向かって突き進んでいたが、小暮の立場と状況は、いまだ遅々として進まぬ方輪の車のようなものであった。
小暮の手元には、二枚の写真とその人物に関する資料が置かれ、彼は、その二人の人間の大まかな特徴が書かれている用紙に目を通していた。
 <宅澤玲二・三十九歳・独身。生年月日・昭和三十四年十月十三日。出生地・都下八王子市南平。現住所・同。身体的特徴・身長一七五センチ、体重約七十キロ。右首筋から背に掛けて長さ三十センチの手術痕あり。眼鏡不使用。二重瞼で鼻梁が高く、一見美男子。趣味・不明。備考・都内大学医学部在学中に英国留学。三年後帰国。現在宅澤興業代表取締役>       

<糸波譲・五十三歳・独身、但し内縁の妻(神崎蘭子)あり。生年月日・昭和二十年五月十五日生。出生地・島根県出雲市乙立。現住所・都下八王子市南平ハイツラグーン一0一号。身体的特徴・身長一九五センチ、体重約百八十キロ。宅澤興業入社前は数種の職を経験。 前社長・宅澤徹人のボデーガード。現在は宅澤玲二のボデーガード兼専務で、信任が非常に厚い。眼鏡不使用。一重瞼。頭髪は短めで一部白髪混じり。趣味・不明> 

その後、ほかの数枚の資料にも目を向けた小暮は、飛ぶように過ぎ去る窓の外の点々と続く町の灯火を見ながら“豪華な移動するホテル”で、寝つかれない時間を過ごしていた。
数時間ほど前、東京駅の隣のホームから「ピー」という警笛を鳴らして出発して行った同じ寝台特急“あさかぜ号”の去り行く姿と同時に、殺人者という最悪の名を残して死んだ伍代早苗を思い浮かべていた。
「彼女が初めて東京に来たときは寝台列車で来たんだろうか…、そして、あの列車で故郷の両親の元に帰って行ったのだろうか…」
木暮は知っていた。
 彼女が、瀬戸内の生まれ故郷の墓に眠る両親の元に帰って行ったことを…。
木暮は無理に目を閉じた。
だが、やはり眠りにつくことができずにいた。
「あと百日ばかりか。あの二人の慌てふためくような行動が、本当にあの事件に関係が有るんだろうか? 俺は間違った捜査をしているのではないのだろうか」
そう呟くと小暮は、「フッー」と大きく息をついた。
刻一刻と迫る時効を前にして、木暮は疑心暗鬼とも言える、一種の不安を感じていたのである。
だが、木暮はその言葉を打ち消すように言った。
「いや、絶対に何かが隠されているはずだ! 糸波が何をしに島根県に行ったかが分かれば、おのずから二人の行動が明らかになる」
見舞った、麻薬中毒患者・村尾伊佐子の最後の言葉を信じる木暮は、死者の名誉や尊厳を守ることを信条とする男であった。
 そんな小暮にやっと深い眠りが訪れたのは、漆黒の闇の中を“寝台特急・サンライズ出雲”が長い警笛を残して丹那トンネルを通過する頃であった。

翌朝、松江駅構内で簡単な朝食を摂った。
 木暮は、眠りの覚めないでいる胃袋に熱いコーヒーで流し込むと、タクシー乗り場で大きく伸びをした。
その頬を、秋風がひんやりと撫でていった。
 駅前のロータリーも大通りも、出勤する人々と車の列が長く連なり、さすがに県庁所在地であるのを感じさせてくれると同時に、その行き交う人と服装に、先ほど感じた夏の終わりを知った。
木暮に残されている時間は、この地方に確実に近づきつつある雪の季節までのあと僅かの時間でしかなかったのである。

島根県警でにこやかに出迎えてくれた刑事は矢島と名乗った。
木暮は今年で四十五歳になるが、矢島も同い年とのことで、初対面ではあったが不思議とうまが合うように感じた。
「木暮警部。話はすでに上司から聞いています。詳しいことは空港に行く途中にでも」
昨年まで兵庫県警にいたという矢島刑事は出雲なまりもなく、挨拶もそこそこに木暮を車に案内した。
国道九号線を西に向かう二人の乗る車は、水鳥が波に戯れる宍道湖畔を急いでいた。
「本来なら、仕事でなく観光で来られればよろしいのですがね。ここは国際観光都市として、情緒溢れる城や堀川、武家屋敷などが在っていいところですよ」
 運転する矢島が残念そうに言った。
「ええ、おっしゃる通りですね。ま、小泉八雲宅や城を訪ねるのはこの次の楽しみに取って置きましょう」
矢島の気持ちは有難かったが、今の木暮の心境は、とても観光気分に浸るにはほど遠いものであったのだった。
 矢島もそんな本庁から来た警部の気持ちは十分察することが出来、本来の仕事に戻って訊ねた。
「ご連絡いただいてすぐに“糸波譲”のことは所轄署の出雲警察で調査するよう指示してあります。糸波が上京するまでの事や今回の出張のことは直に判明するでしょう。糸波が空港から“どこに向い、そして何をしたのか”が問題なんですね?」
「そうです。糸波は十月一日に始発便でこちらに来て、どこかで一泊しています。それがどこで何のためかが知りたいのです」
「糸波が東京に戻ったのは、翌二日の最終便のジェットですから、まさに“とんぼ帰り”ですね」
「不思議なことに、帰京してからの糸波には、動きが見られないんですよ」
「『商談で来たのでは』との憶測もあったと聴いていますが…」
「もし、商売上のことなら立ち戻って、それなりの動きがあっても良さそうですが、そのような形跡も感触も得られてはいません。とても何かの成果が上がったとは思えませんがね」
「むしろまずいことがあったと…」
「ええ…、私にはそう思えるんです。彼については分からないことが多いのですが、聞込みから得た糸波の性格や行動から考えてですがね。もちろん社長・宅澤玲二の挙動にも同じ事が言えるんですが」
「なるほど、やんちゃ坊主が急に大人しくなったわけですね」
矢島はそう言うと何事かを考えるように頷いた。
 まもなく、簸川郡と呼ばれる出雲市の郊外に車は入った。
のどかとさえ思える田園地帯の中を走る車内の「殺伐とした会話」を、出雲の神が非難しているかのように、空港の管制塔の手前にこの地方のいたるところでよく目にする築地松が、初秋の中で一風変わった緑の芸術を見せ始めていた。
築地松は、広い出雲平野に吹き付ける木枯しから家々を守るために作られた塀で、それぞれの家特有の長さにきちんと刈揃えられた松の形が、微妙に違って、美しい風物詩となっているこの地方独特のものである。
城下町である松江にしても、出雲大社と築地松で代表されるこの出雲にしても、仕事を離れての訪問ならば、確かに日本人の心の郷愁を呼び起こし、呼び覚ます土地であるのかも知れなかった。
だが、今の木暮にはその余裕もゆとりもなく、空港の車寄せに降り立つと鞄から二枚の写真を取り出し、矢島に渡した。
「私はレンタカーから当たってみます。あなたはタクシーをお願いします」
と言い、小暮は大股で空港のロビーに入って行った。
この地の地理が手に取るように分かっているであろう糸波にとって、何者かが迎えにこない限りは、「タクシー、あるいはレンタカー利用が最も便利だろう」と、木暮は考えていた。
「この人が車を利用しませんでしたか?」
レンタカーの申し込み所で警察手帳を取り出して、写真と特徴を示し尋ねた木暮に、
「ええ、この人ならうちで利用していただきましたが」と、係員はすぐさま答えたのである。
あっけないほどの返答だった。
「間違いありませんか!」
 木暮の問に、打てば響くように答えた男は、さらに言った。
「はい。よく覚えています。ちょうどプロレスラーのような体格の人でしたし、なんなら営業所で確認なさったら如何ですか。運転免許書のコピーがありますが」
“何事だろう”との興味もさりながら、実直そうな年輩の係員はそう言って営業所に電話を回してくれた。
木暮は礼を言うと、再び大股でロビーを出て、タクシー乗り場で聞き込む矢島に声を掛けた。
「矢島刑事! レンタカーですよ!」
さい先の良いスタートであった。
広い空港の敷地に吹き付ける宍道湖の冷たい風も、今の二人には感じなかった。

翌日の午後である。
「先生。東京の木暮様とおっしゃる方からお電話です」
受付の松橋奈保子の声が、インターホンから聞こえた。
三瓶山の山裾に建つ研究所の一室で、並木眞吾はその多忙な研究で明け暮れていた。
「木暮から? ありがとう」
電話に向かった並木の耳元に、聴きなれた“だみ声”が聞こえた。
「よう! 元気か。会えないか」
「相変わらずだね。きみの話にはいつも驚かされるよ。いったい今、どこにいるんだい。まさか東京などと言うんじゃないだろうね」
「ワッハハ… 。まさか! いくら俺でも、忙しいお前さんに、そんな無茶を言うわけがないだろう。出雲にいるんだ。出雲市駅だよ」
「出雲? そうか。分かった。そこからなら一時間ほどだ。僕も会いたいと思っていた。迎えには行けないが待っているよ」
 国立地質研究所の研究者と、人殺しを専門に扱う警視庁の捜査一課の警部との組あわせは、知らない人間が見れば“どういう関係かな?”と首を傾げそうであるが、
並木眞吾と木暮大次郎は、学生時代から自他共に認める大の親友である。
おまけに、並木の妻・志帆は木暮とは従兄妹であった。
並木眞吾は今年四十五歳になる地質研究所の技官である。
一般に学者というと、よく“学者バカ”と言われるが、彼に限ってはこの言葉は適当ではない。
 大学で地球物理学を専攻後、並木が火山の生い立ちと地質研究の道を選んだのはごく当然であったが、日本を代表する富士山や阿蘇山をテーマ地としなかったのは理由があった。
彼は、この地が過去数万年の間の幾度かの噴火にも拘わらず、縄文の時代より人々が住み着き多くの遺跡が発見される土地であることに興味を持っていたし、自分が生まれ育った地が過去のある時期、当時の周域にどのような影響と関連を持っていたかというような研究をもしてみたかったからだった。
 そんな彼に、ここ二ヶ月ほど前にもおよそ三千六百年前の縄文後期に繁茂していたであろう巨木杉の埋没林が発見されて、新聞紙上をにぎわしたこともますますこの生まれ故郷が他に類がないほどの貴重で興味深い地と再認識させた。
 もちろん、周経がニメートルを越える杉の埋没林の発見は全国でも初めてである。
そして、何より並木がこの三瓶の地で職を得ようとしたのは、子供の頃に朝夕自宅の窓から毎日みていた三つの美しい山の形を忘れることが無かったからでもあったろうが…。
「よう。久しぶりだな!」
と、木暮が大股で研究所の並木の部屋に入ってきたのは、すでに五時を回ろうとする時間であった。
「遅かったね」
「ちょっと調べものをしていた」
「調べものと言うと、今回も仕事なのか?」
「ああ、今までで一番厄介な部類かもしれんがな…」
「ほう。鬼警部が手を焼いているんだ」
「からかうなよ。どんな事件も結構大変さ」
「こっちで、事件なのか?」
「まだはっきりそうと決まった訳ではないが、その可能性が大でね」
木暮は、出されたお茶を一気に飲み干すと、伍代早苗が起こしたとされる十五年前の事件にさかのぼり、さらに村尾伊佐子の事件との関連を話し始めた。
並木は、この不可解な事件の鍵とも言える遺言を残した村尾伊佐子に、一種の同情を覚えると共に“手帳と金”の謎と、そしてまもなく訪れるであろう“時効”を知らされたとき、不幸な二人の女を巻き込んだ事件の顛末を見届けたいという強烈な思いを、その全身に感じた。
それは、真実を追求せずにはいられないと言う、探求心と正義感と、哀れみの情からであったのかも知れない。
そして、それはこの二人に共通したものでもあった。
「話はだいたい判ったが、君の言うように糸波と言う男が何のために島根に来たかが先決だね」
「目的が何なのかはまだ一向に判らないが、奴らの狼狽ぶりからみて単なる商売上のことなどではないはずだ。海千山千の男たちだ。わざわざ糸波が出てこなくとも兵隊は幾らでもいる」
「彼の行動が時効に…少なくともその事件に関係していると言うことだね」
「うん。偶然じゃないだろう」
小暮は、彼のいつもの癖である下唇を突き出して”それ以外は考えられん”といった表情で言った。
「それで、糸波がレンタカーを借りたその後の行動は? 何か分かったのかい」
「いや。実はそのことなんだが、空港から市内に向かったことは確かなんだがそれ以後の足取りはまだだ。いま県警の刑事が、主だったホテルに確認を入れているが…。十月一日の早朝にレンタカーを借りて、戻したのが翌・二日の夕刻だ。使用距離数は百二十キロちょうどだよ」
「百二十キロか…。二日間で走った距離としたら、そう多くはないかも知れないね。ちょっと待ってくれ」
 並木は書庫から地図を持ってくると机の上に広げた。島根県は言うに及ばず、中国五県が網羅されている詳細な物である。
「高速を利用したとすると話は別だが、そうでないとしたら行動範囲は限られてくるね」
「うん。だが、仲良く六十キロづつ走ってくれたのならいいが、そうでなければ難しいな」
「糸波の出身地は立久恵峡の近くの乙立町だったね」
石見と呼ばれる三瓶出身の並木も、ここ最近は、出雲地方の地理にだいぶ詳しくなり、その地名の書かれている箇所を示して続けた。
「空港から乙立町までは、およそ三十〜四十分だね。実家には顔を出したんだろうか?」
「いや、寄ってはいないようだ。実は、糸波の家庭は複雑だったようで、家族はすでに離散してバラバラだ。父親が女を作って家を出たらしい。その後は母親と糸波と弟の三人で暮らしていたらしいが、その母親も無理がたたって、糸波が中学二年、弟が小学生の時に亡くなっている」
「そうなのか…糸波はいつ頃東京に出てきたんだ?」
「中学卒業時と同時だよ。糸波自身は、これ以上叔父夫婦に世話になるのは我慢出来なかったみたいで、弟を頼むと言い残して単身上京している」
「弟は現在も島根か?」
「この話もその弟から聞いたことで、今では世話になった叔父夫婦の面倒を見ながら出雲市内に住んでいる。ここに来る途中会ってきたが、見るところ兄貴と違って堅気の生活をしている様子だった」
「その弟にも会っていないのか」
「ああ。だが、なんでも年に数回は、糸波自身がある程度の金を、叔父夫婦に今でも欠かさず送金していると言っていた」
「ほう…、昔の恩を忘れていないということか」
「ああ、それだけ弟を心配しているということだろうが、それならなぜ今回は連絡しなかったか、が気になってな」
「今回というと、最近、会ったことがあるのかい」
「二年ほど前だそうだが、急に立ち寄ったそうだ」
「仕事で来たのか?」
「それらしいことを話していたらしいが、詳しいことは知らないとのことだった」
「今回はその弟にも会っていないか…。よほど時間がなかったか、または会えない事情があったということだね」
「正体のわからん男だが弟には優しいようだ。そこに何かがあるのかも知れないな」
彼は、自分の生い立ちと比べるように言った。
 小暮にも二つ年下の弟がいるが、お互いが家庭を持つようになってからは、数年に一度の連絡をするかしないかの付き合いであった。 が、糸波が弟と叔父夫婦に対する感情は、平穏に育った小暮のそれよりも、もっと異なったもののように感じていたからである。
「空港からどこに向かったんだろうね」
地図を前にする二人の耳に、
「ピ、ピ、ピ…」と、携帯電話のベルが大きく鳴った。
「ん…何か分かったかな…」
 小暮は並木の促す目を見て、腰の電話を取った。
思った通り、相手は島根県警の矢島刑事であった。
「あどうも、小暮です。何か分かりましたか」
小暮は、先ほど呟いた言葉を繰り返すように先方に尋ねた。
「いやあ、駄目ですね。片っ端から調べてはいるんですが、今までのところ糸波が宿泊した形跡はありませんね。と言ってもまだ調べ尽くしたわけではないんですが、全部の宿泊場所を当たるには、今日〜明日いっぱいはかかりそうですよ」
「分かりました。ご苦労さまです。とにかく、糸波の行き先を掴めれば…。私は彼の交友関係と、二年ほど前の帰省時の足取りを追ってみます」
小暮は、数百軒の旅館ホテルの全てを一軒一軒当たらねばならない、彼の苦労はよく分かっていたが、今は糸波の行動をなんとしても知らなければならなかった。
電話を切ると、
「いま言ったように、俺は二年ほど前の帰省時の奴の足取りを追ってみる。もしかすると、そのときの動きから何かが分かるかもしれん。何か分かったらまた連絡するよ。邪魔したな」と、席を立った。
「役に立たなかったね」と言う並木と肩を並べて研究所を出た小暮の目に、玄関先の広い庭と裏山の始まり始めた紅葉が、抜けるような秋空に映え、まるでキャンパスに散らした赤や黄色の絵の具のように映った。
「ここの紅葉もいいが“立久恵峡”のもきれいだぞ」
「また、その“立久恵峡”を案内してくれよ。今回はそういうわけには行かないだろうがな」
「分かった。いつでも寄ってくれ」
並木は、そう言って小暮の肩を叩いたとき、ある事をふと思いだした。
「なあ、小暮。いま思いだしたんだが、立久恵といえば、隠岐島で立久恵峡特産の”イズモコバイモ”が見つかったことがあるんだが…、それと関係はないと思うんだが、その発見場所の近くで”白骨死体”が見つかったらしい」
「ほう。いつの事なんだ」と、小暮の足が止まり、振り向いた。
「確か…ちょっと待ってくれ。新聞がある」
数分後、ロビーで待つ小暮の目の前に二つの新聞記事が置かれた。
一つは昨年の春の記事であり、見出しは、『隠岐島で、イズモコバイモみつかる』という内容のものと、十月二日付の、『摩天涯で白骨死体』という同じ地元の記事であった。
「十月二日か…、おい。このイズモコバイモという花は、そんなに珍しいのか? それと立久恵峡にあるのか」
その声は、記事を食い入るように見つめる目と同じように、真剣そのものに並木は感じた。
「どうした? その記事に何かあるのか」
「うん。この日付だよ。十月二日付だが、白骨発見は一日だ! 糸波が出雲から帰京したのも二日。それに立久恵峡にある花が隠岐島でということも、単なる偶然には思えない気がしてな。おまけに糸波の実家はその立久恵の近くだ」
「日にちは同じかも知れないが“イズモコバイモ”の発芽は二年位はかかるはずだし、遺体も白骨で自殺とのことだよ。思い過ごしじゃないのか?」
並木の問に答えず、小暮の「地図を見せてくれ」というその口調は、本来のデカに戻った一種独特のものであった。
「並木。隠岐島に行くには普通はどうする」
「そうだね。出雲と米子から飛行機があるが、島根半島の七類港からフェリーを利用することも多い」
「かりに、朝の便で行って、翌日戻ることも可能か…」
「出来るね。そうか…、もし、君の考えることが当たっていれば、出雲〜七類間の往復が、およそ百キロ。車で隠岐に行っていれば、残りの二十キロ位は走るだろうね」
小暮は、「電話帳を貸してくれ」と言うと、二十数件の記載された宿に問い合わせ始めた。
五〜六軒目を掛けたとき、普段のガラガラ声がますます大きくなった。
「ありましたか! そうです。糸波です。糸波譲で宿泊しているのですね」
 小暮の声が、先方の耳にうるさいほど響いているはずであり、並木はその様子がいつもの小暮らしくおかしかった。たぶん、相手は受話器を耳元から遠ざけて聞いているに違いなかったからである。
「おい。糸波は、泊まっているぞ」
小暮がニヤリと笑った。
 並木にしても、友人の感に脱帽しないわけにはいかなかったが、疑問の一つを口にした。
「しかし、本名で泊まっているのなら、やはり仕事じゃないのかな」
「ま、いずれにしても行き先が分かったことは、隠岐島へ何のために行ったのかという、つぎの目的に一歩近づけた訳だ。縺れた″糸が″ほどけるぞ」
と、小暮は彼らしくない洒落を言って、笑った。

翌日は土曜日で、並木は連休が取れることになっていた。
研究所で、並木は友人の警視庁捜査一課・警部である小暮大次郎に一つの提案をしていた。
「ところで、君は隠岐にいくつもりなんだろ?」
「ああ、奴の狙いが何なのかが分かるまでは、東京にはもどらんつもりだ」
「頼みがあるんだが…」
「なんだ、改まって。まさか俺と隠岐に行きたいなどと言うつもりじゃないだろうな」
「そのまさかだよ。じつはね、君が日付に拘るように、僕もあの“イズモコバイモ”に興味が涌いてね。なにせ“イズモコバイモも、糸波も、”立久恵峡という共通性を持っている。僕は君たちのような機動性はないが、なぜ隠岐にあの花があるのかくらいは調べられると思う」
 口には出さなかったが、並木もその花のあった所からさほど遠くない断崖上に、身元不明の白骨があったことが妙に気になっていたことは、否めなかったのである。
小暮はしばらく何かを考えていたが、
「分かった。お前さんはその花のことを頼む」と快諾した。

翌朝乗り込んだ、七類発九時二十分の“フェリーくにが”は、季節柄、さすがに空席が目だち、重苦しく垂れ込めた雲がその下で暮らす人々の気持ちをいやでも暗くする、そんな空の下で出航した。
船室で一息付くと、人気のないデッキに出た二人は、刺すような空気が流れる中で、すでに見えない本土の方角を見ていた。
快晴ならば、並木の住んでいる三瓶山が見えるはずであった。
日本海の空は相変わらずどんよりと低く、海面の色も灰色のようである。
小暮は、昨日の三瓶の初秋の空が懐かしい気分になって、並木に尋ねた。
「この時期の日本海はいつもこんななのか」
「だいたいそうみたいだ。だが、あの雲の切れ間から時折顔を出す空は例えようもなくいいぞ」
「この事件もそうあってほしいものだな」
小暮は紅葉を映えさす、三瓶の空を思い出すかのように言った。
隠岐島・島前の港である浦郷に着いたのは昼過ぎである。
下船すると、二人は整備された波止場の道を糸波が宿泊したホテルにタクシーで向かった。
 港の対岸に見える白い豪華な建物である。客室からは静かな入り江に作られた港がよく見えるに違いないだろうし、ドラと共に出航するフエリーを目の前にできる絶好の環境のようである。
「なあ、並木。俺も一度でいいからこういう場所に嫁さんを連れてきてやりたいんだが…、因果な商売だぜ」
「休みはちゃんとあるのか?」
「あることはあるが、紐付きだ」、小暮は腰の携帯電話を指さして苦笑いした。
並木は横目で、電話と親友の顔をちらっと見て、「そうか」とだけ言った。