第三章 断崖の白骨


宅澤徹人の亡き後は、八王子の邸宅や、副都心・新宿にある宅澤興業も一人息子である玲二が、引き継いでいた。
宅澤玲二は、太っていた父親とは体型も顔つきもまったく違い、いわばハンサムな部類の男であった。
 だが、やはり同じ血を引いていると見えて、その性格は冷酷であり、それに輪を架けた冷静さと慎重さを兼ね備えた男でもあった。
特に、事を決断した場合の玲二は、父親以上に陰湿な、ありとあらゆる手段を用いてでもそれを決行した。
そんな男が、小暮たちが事件の再捜査にかかる三年ほど前から、珍しくとも言える狼狽ぶりと、日頃は決して部下には見せない態度で、都内数カ所にある持ちビルの事務所や系列の店舗などで、腹心の配下を前に叱咤していた。
そしてそれは、ここ一月、特に激しくなっていた。

「捜せ! もっとよく捜すんだ。必ずあるはずだ」
「社長。こう申し上げては何ですが…、お父上の一件の時に、ガサ入れでも見つからなかったものです。やはり奴が持ち出したとしか…。私が思うには、やはり厳重に管理された、どこかと思えますが」
かつて、先代社長・宅澤の片腕であり、現在も二代目の忠実な番犬である糸波譲が、数人のうなだれる男たちの前に進み出て、言いづらそうに応えた。
高級そうなストライプ模様の上下の背広を着て、短めに髪を刈揃えた大男である。
さすがの玲二も彼には一目置くと見えて、(だから、どこだと言うのだ!)との声を辛うじて押し殺して、再び言った。
「だがな、糸波! 仮に、“奴”の言葉が本当だとしても、それを見つけだし処分するまで安心は出来ないんだぞ! 万が一にも警察の目に触れることがあれば我々は破滅する!」
「…判りました。すでに“奴”の口からは聞き出すことが出来ませんし、都内の心当たりはすべて当り尽くしました。残るはやはり“出雲”しかないでしょう。もう一度、徹底的に確認をしてみます」
糸波はそう言うと、一人の男に顎をしゃくり、
「手配してくれ」と促した。
男たちが、慌ただしく宅澤玲二の前から退出したその翌日、鋭い目をした寡黙な一人の男が、早朝の羽田空港から西の空に飛び立って行った。
そしてこの日は、人々にそこはかとなく高い空を思わせる、九月の中旬の秋晴れの日のことであった。
この男の向かう先は、東京からおよそ千キロ離れた山陰・島根県である。
 山陰をイメージするとき、中国山地を挟み、“瀬戸内海に面した山陽と呼ばれる広島県や岡山と比べると”いかにも暗く、どんよりとした気候と陰気な人柄の土地を思い浮かべることも多いはずである。
漢字で書くと“山の陰”であり、一年を通して日照時間も短く、日本海に重く垂れ込めた黒雲の下で生活する人々は、どちらかと言えば寡黙であり閉鎖的な印象を一般に与える。
ましてや、山陰の空の玄関である出雲空港に降り立とうとする、この陰気で人を近づけない雰囲気を漂わせる男の出身地がこの地であることは、山陰に対するイメージがあながち的はずれではないのかも知れなかった。
飛行機は、中国地方最大の湖である宍道湖に突き出した滑走路に軽いショックと共に降り立った。
出雲空港は、数年前までは田舎の小さな空港であったが、今は環日本海と言う地理的条件と、将来を展望する意味から国際便の発着港としての機能をも備えた、新たな空港に変身しようとしていた。
男は、タラップをゆっくりと降りると、装いも新たな近代的な空港の建物に入って行ったが、特にこれといった興味を示すでもなく出口にまっすぐに向かった。
 たぶん男は、自分の生まれ故郷の変化や空港のことなどには何の感慨も未練も持ってはいなかったのだろう。
男は出札口を出ると、真っ先に空港内でレンタカーの手続きを取り、やがて、広い道を市内に向かって猛スピードで走り去って行った。
いま男は、右手に島根半島が迫る田園地帯の只中を走る車内で、ある“こと”を、思い出していた。
だが、このある“こと”とは、運転するその車のスピードと同じほどに危険なことでもあったのである。

それは、数年前のことである。
 出雲市郊外の川沿いにある自然観察の小道が、起伏と断崖で構成された峡谷に延びている。
 その川の向こうのうっそうとした樹木の陰に、朽ち果てた一軒の民家らしい家屋が長年の風雪で屋根の梁を無惨にさらけ出していた。
 見る者があれば、満月の下で見るこの廃屋は、あたかも肋骨の露出した死体のように感じられただろう。
「ドタン、ガタン」
孤狸の類しか棲まないはずの廃屋で、争うようなもの音がしばしの間聞こえたのは、まだこの民家に団らんの笑いがこぼれていた頃は、居間であったと思われる場所であった。
この場所に不似合いな音がやむと、やがて静寂に包まれたそこで、微かに明りが漏れた。
 そして、「ギシギシ」と、何かが床を踏む音が、先ほどの場違いな喧想をとがめるかのように鳴くフクロウの声に合わせるかのように、響いた。
 床を踏むその音は、土間に降りたらしくヒタヒタという響きに変わった。
 黒い影は、その手に明りを持ち、何かをその広い肩に担いでいた。
 そして、用心深く聴き耳を立てると、影は、雑草で覆い繁り始めた庭に出て、肩に担いでいたものを無造作に投げ下ろした。
 満天の月が、影と雑草の上の物体をほのかに照らしだした。
 それは、まるでプロレスラーのような体躯を持つ男と、目を見開いたまま微動ださえしない物言わぬ人間であった。
「馬鹿な奴だ! おとなしく吐けば死ぬこともなかったろうに」
 男は二言三言呟くと、背を屈め、横たわる死体から何かを捜し始めた。
だが、まもなく「ない! どこだ!」とうわずりの言葉を漏らす、懐中電灯の明かりに浮きだった男の顔は、焦りの色をありありと浮かべ、小一時間ばかり廃屋の中や周辺を血眼になって目的である“何か”を捜していた。
 が、しかし、目当ての物がないらしく、やがて足元に“チッ”と短く舌打ちすると、数メートル先の車に歩み寄り、トランクにその死体を乱暴に投入れ走り去って行った。
男の去った後には、踏み荒された草と、まだ肌を刺すような冷たい早春の空気だけが残されていた。 
 数分後、川に従うように走る曲がりくねった県道を、まるで何かに追われるように東に向かう男の車の前照灯に照らされた道路脇に、道路標識が浮かび上がった。
だが運転する男は、前照灯に明るく照らし出された文字には一顧だもぜず、ただ道を急いでいるようであったが、その目の端に映った文字は”立久恵峡”と書かれていた。

 翌日の早朝、遊魚客や観光客で満杯のカーフェリーが島根半島の突端にある七類港の岸壁を離れた。
 そして、その離岸するカーフェリーには、プロレスラーと見間違うほどのがっちりした体格の一人の男が乗っていた。
 男は初め、船倉の車両置場が気にかかるように、そこに続く狭いタラップの付近でたたずんでいたが、やがて何事かに満足したかのように船内に入って行った。
 男は、船内の客に対しても一〜二分の間、鋭い視線を向けていたが、再び、客で賑わう船室を避けるかのように広い船上に出て、真っ青な海面に泡立つ航跡を残して進む船の後部デッキからかすみ始めた本土を見ていた。
 この、一見旅行者らしくない男が、風光明美な地である隠岐島に向かったのは、三瓶の国立地質研究所で並木眞吾たちに提供された“ある植物の話題”のおよそ二年ほど前の事であった。

東京から一千キロ離れたその隠岐島で、ある一つの事件が持ち上がったのは、小暮たちが真相を知ることが出来るはずの唯一の手がかりである宅澤興業の周辺の聞込みを開始した頃であった。
隠岐島は、島前と島後と呼ばれる主要な二つの島に代表される。
 島前の、狭く曲がりくねった道路を急ぐ、島内で数少ないパトカーのけたたましいサイレン音と、それに従う数台の車に、日頃静かな漁村の住民は”何事だろう”といった表情と態度で顔を見合わせた。
住民の中には、わざわざ家内から出かけてくる者も何人か見られた。
 この地域の住民が、こうしたパトカーのサイレン音を耳にすることは、年に一度あるかないかといった特別なことであったからだ。
 島民の生活道路であり、断崖・絶壁の続く摩天崖に向かう観光道路でもある数少ない主要道路を急ぐのは、一台のパトカーと、それに続く医師と消防団員を乗せた三台の車両であった。
 傾斜のきつい山肌を削り取って作られた、つづらおりの道の海側は、厳しい海風の為だろうか、同じ方向を向く湾曲した樹木が天然のガードレールのように連続して立ち並び、助手席から見渡す木々のはるか下方の岩場に押し寄せる波が砕け散っている。
 波は、まもなく訪れくる暗く重苦しい空と同じような沈んだ海面の色と対照的なほどに白く見えていた。
 この春に赴任してきた新任の若い浦郷署の刑事にとって、この地は正義感あふれる行動を取るにはあまりにも平和な土地であった。
 そんな男に、つい先ほどもたらされた時ならぬ白骨発見の一報は、不遜な事かも知れなかったが、彼の心の中に荒々しい波のようにはやる気持ちをそそぎ込み、今、彼はそれを押さえることが出来なかった。
ことの発端は次のようなものであった。
 小さな港町の警察署にあわてふためいて駆け込んで来たのは、この地の風物詩とも言える放し飼いの牛馬の管理をしている町役場に勤める二人の男である。
 日本海から直立する魔天崖とその周辺には、地元農民が飼育する多くの牛馬が放牧されている。
 もっとも、観光客がときたま無遠慮に近づき過ぎて、その角や蹄で怪我をすることもないわけではなかったが、ほとんど接することのない牛馬の放牧は、観光客にとっては全体としては歓迎されていた。
 その日の予定をすべてを終え、二人は海を見おろす島の急斜面を引き返そうとしていた。
 この一帯は風当りが強く、木が生育しづらい環境で、イネ科やカヤツリ草科を主体に矮小化したヤナギ属などの木が混成する、風衝草原と呼ばれる環境である。
踏みしめる足下の芝も心なし色付いて断崖の縁まで続き、真っ青な空と紺碧の海をよりくっきりと見せていた。
そんな折りである。
「ワン、ワン」
「ワン、ワン、ワン」
「又、捨て犬か! ここ一年ほどで急に増えた。困ったもんだ」
町役場の男・二人は、前方の薮の中で激しく吠える犬の声に身を構え、年長の男がうんざりしたような顔と声で言った。
五十〜六十メートル先のヤナギの薮は、急斜面と崖縁のあたりを広範囲に覆い、そのすぐ先は切り立つ数百メートルの崖であった。
「えらく騒いでいるが、又ウサギでも見つけたのかもしれんな」
「全く、最近の客が置いていくものは塵と捨て犬ですか」
こうした、観光客が処理に困って置き去りにする犬が増え、その対策を講じるのも二人の仕事であった。
「どうしますか? 二〜三頭は居るみたいですが」
「ああ、頭数だけ確認して明日、出直すか」
 相談する男たちの眼前を一頭の野犬が何かをくわえて走り去った。
 が、他にもいるらしい数頭は、近づく人間の気配にも関わらず、まだ何かに未練を残すかのようにその場から立ち去ろうとはしなかった。
 よほど彼らの興味と食欲をそそるものがあるようであった。
「なんでしょうね」
「さっきの奴がくわえていたのは、朽ちた木のようなものに見えたが…」
「とにかく行ってみましょうか!」
野犬捕獲に慣れている二人であったが、万一に備えてゆっくりと薮全体が見渡せる傾斜の上方に回った。
「あそこだ。二頭いる」
 双眼鏡を覗いて、年輩の男は言い、そして続けて、
「なんだあれは…」と、不審そうに一度双眼鏡から目を離し、首を長くして裸眼で覗き込んだ。
だが、再び双眼鏡で注視したその口から漏れたのは言葉でなく、
「ひー」と言う悲鳴であった。
「どうしたんですか?」
との、同僚の問いかけも耳に入らないかのように尻餅をついた男は、薮を震える指で指し示し、口がもつれたように叫んだ。
「が…、が、骸骨だ!」
「え!」
野犬たちは、そんな人間には一切無頓着のように、覆い茂ったヤナギの薮から半ば茶色に変色した人骨を引きずり出そうとしていたのである。

摩天崖に続く、急な坂道を上り詰めた所に設けられた観光客用の広い駐車場から五百〜六百メートルほど斜面を下った場所にヤナギの薮が広範囲に見られた。
 その先は、季節の移り変わりを敏感に感じるように、徐々に姿を変えようとする日本海である。
平日の夕刻であり、すでに観光客の姿も見ることのない閑散とした断崖上の駐車場で“点滅する赤いパトランプ”と“私服・制服姿の警察官”の姿は、同行する消防団員と二人の町役場の男たちの目に、雄大な景色にそぐわない一種異様なものに映っていた。
 まさしくそれは、断崖から駆け上がる塩風と同様の冷たく不安なものでもあったろう。
駐車場で待機する一人の警察官は、慌ただしくなされる現場検証と鑑識がたく、いくつかのフラッシュを見守るその耳に車のエンジン音を聴き、町に続く道路に首を曲げた。
彼が目にしたのは一台の乗用車であったが、大きく牽制するように手を振る彼に、数分後、車はもと来た道を引き返して行った。
若い警察官は「野次馬か。暇だな」
と呟くと、無表情でそれを見送り、再び斜面下に目を戻した。
そして、彼はこのことを気にすることもなく、忘れさった。
 翌日の地方新聞の朝刊に断崖上の記事が載せられたが、
それはほんの五行程の短く小さなもので、
『名勝・摩天涯の断崖上で白骨遺体が見つかる。警察は明日S医科大で司法解剖をして死亡原因を究明する予定。現在、遺留品から身元を照合中』というものであった。
 だが、遺体発見当初から、県警の見解は自殺の線が濃厚であった。
 それは、若い刑事の案に相違して、現場に残されていた“睡眠薬の空瓶と、ほんの僅か飲み残したウイスキーのボトル”が自殺をほのめかすと共に、同行した医師の検死の所見も同様であったからである。
しかし、異常な死に間違いはなく“白骨遺体”は、翌日本土のS医科大で司法解剖にまわされた。そしてその結果は、同行した浦郷の医師の所見と同じであった。

「そうですか。自殺ですか」
解剖を終えて部屋から出てきた担当医に、若い刑事は気が抜けたように言った。
「ええ、死亡推定経過年月は、およそ二年。着衣からみて、時期は冬でしょう。頭骨や歯の形状から日本人と思われ、性別は男性です。右上腕骨が欠損していますが、他はすべて揃っており、頭部や胸部などの主要な部位には陥没・骨折などは皆無です。全身に創傷が見られますが、これは新しいもので、現場での野犬による咬傷と考えてよろしいでしょう」
町役場の二人が見た野犬のくわえていた物は、この上腕骨であった。
「こう申し上げてはなんですが…絞殺などの可能性はいかがでしょうか?」
「それはありませんね。絞殺なら舌骨が必ず骨折しますからね。それと睡眠薬以外の薬物等による疑いも除外していいかと考えます」
「遺体からの身元の割り出しはどうでしょうか?」
「驚くほどに歯は丈夫で立派ですからね。歯の治療痕でもあれば調べられますが…他にはこれと言った特徴もありません。身元の確認はまず無理かと…」
検死の医師はそう言い、
「あとは宜しく」と言い残して、忙しそうに立ち去って行った。
これから先の調べは当然警察の仕事であったが、
 観光客が感嘆の声を上げる東洋一とも言われる侵食崖・摩天涯で発見された物言わぬ白骨死体は、現場の遺留品や状況から、その二日後には自殺と断定され、行方不明者や失踪人との照合を待つ、身元の判明しない全国で二万体にのぼる遺体の一つとして、保管された。