第六章 新たな殺人
その後、なんの進展もなく三日が過ぎて行った。
八王子の宅澤にも動きはなく、糸波もそうであった。
「あと二十三日か…」
小暮は、再度十五年前の調書と克明にメモした自分の手帳を見ながら呟いた。
毎日が、不思議なほどに早く過ぎて行った。
小暮はかぶりを振った。
「陣野と糸波。そして、伍代早苗と因島に事務員か。この男女を結ぶものは、いったい何だろう。金? 麻薬?」
しきりにタバコをふかした。
捜査一課の部屋中が煙だらといった感じである。
「宅澤と因島を結ぶのは麻薬か? 手帳さえあればな…」
呟く、手元の手帳に灰が落ちた。
灰は“印鑑”という文字の上に落ちていた。
「まてよ…」
小暮は指に挟んでいたタバコと灰を見つめて、呟いた。
「印鑑は何のために持っていたんだろうか…。金を引き出すためと思っていたが、もっとほかにも目的があったのじゃないだろうか?」
小暮たちは、通帳を元に島根県と東京で、陣野が取り引きしていたと思われるいくつかの銀行と郵便局をすでに当たっていた。
その結果、印鑑は、陣野個人のものに間違いがなかったことは確認済みであった。
小暮を祈るような気持ちで受話器を取った。
「矢島刑事をお願いします。警視庁の小暮ですが…」
ダイアルの先は島根県警であった。
折りよく、矢島は隠岐から戻っていた。
小暮の依頼で、矢島は浦郷署の杉野刑事と糸波の目撃者を当たっていたのだった。
もちろん、現場で見られた車の件である。
「どうも警部。こちらはあまり芳しくないんですよ。糸波を摩天涯の近くで見たという情報は、残念ながらまだありません」
「そうですか。しかし、現場で見られた車両は糸波に間違いないでしょう。ところで、至急に確認をお願いしたいことがありましてね」
「何でしょう?」
「れいの印鑑ですがね…。陣野は、あの印鑑を何のために島根に持って行ったのか…、金を引き出した形跡はありませんでしたからね」
「そういえば、そうですね。ほかに印鑑の使い道と言えば…」
「ええ。何かの契約に使用したのではないかと思うんですが…、例えば何かを預けるために貸し金庫を借りるとかですが」
「なるほど、契約ですか。判りました。もう一度当たってみましょう」
小暮は、受話器を置くと、工藤を呼んで言った。
「工藤君、ひょっとすると駒がでるぞ」
その夕刻である。
都内・渋谷近辺での宅澤と糸波に対しての聞込みは空振りに終わり、足を棒にして本庁に戻った二人を待っていたのは、島根県警からの吉報を知らせる部下の刑事であった。
「警部! 手帳が見つかったそうです」
「なに! 本当か」
「ええ、先ほどです。島根県警の矢島刑事からの連絡です。警部のお考えのように、出雲市内の銀行の貸し金庫にあったそうです」
一日千秋の思いで探った手がかりを求めて島根県・出雲市行きの高速バス“スサノオ”に辛うじて小暮が乗り込んだのは、渋谷駅前にすっかり夜の帳が降りた二十時きっかりであった。
車の波で渋滞する見慣れた大都会のビルの谷間を、川のように流れて行く無数の人々がいる。
小暮大次郎はその情景をバスの広い窓から見ながら、ふと思った。
「陣野も、あの人々と同じようにこの街で生きていた。だが、生まれ故郷の島根で死んだ。たしかに都会は一見見たところは華やかで人を引き付ける何かがあるのかも知れない。しかし、多くの人々が感じるように、陣野も自分自身の存在感を得ることが出来なかった人間だったかもしれないな」と…。
高速バス“スサノオ”は、首都高速、東名、名神、中国道、米子道と、五つの高速道路をおよそ十二時間ばかりをかけて、翌朝・七時十分に、松江に着いた。
早朝のバスは、松江駅前で小暮たち数人を降ろすと、まだ開け切らない朝の国道に、終着地である出雲市に向かって消えて行った
島根県警本部は松江駅からタクシーで十五分ほどの官庁街にある。
通りは県庁や博物館、そして公会堂や市民の憩いの場である公園があり、静かなたたずまいの地域である。
木暮の目に有名な松江城が県庁の向こうに見えたりした。
早朝ではあったが、驚いたことに矢島の姿が県警の玄関に見え、木暮は軽く頭を下げて足早に建物に入っていった。
「陣野は用心のため、一冊をこのように分けて、残りも同じように隠したと思われます」
県警で、矢島刑事から手渡された“手帳”は、彼の言うように半分にちぎられていた。
「警部。糸波と陣野、そして十五年前の事件がつながりましたね」
矢島の声が、祝福するように小暮の耳に届いた。
だ
、やっと一つの手がかりを得ただけのこの事件が、
「底無しとも思える不気味な広がりへの、単なる序盤でしかないのでは…」と、小暮に思わせる連絡が入ったのは、小暮が並木に苦笑して言った、「紐付きだよ」との、携帯電話からであった。
「はい。小暮ですが…」
「警部! 殺しです」
東京に残っている工藤であった。
小暮は、警察官は俺だけではないだろうといった気持ちで、
「殺し? ほかにも刑事はいるだろう」と、日頃の彼らしからぬ不機嫌そうな声で応えた。
電話は、おかまいなしに続けた。
「それが、この“やま”と無関係ではありません!」
「どういうことなんだ!」
大きな声であった。
自分自身でもよく分からない、不思議な苛立ちに似たものを感じた。
小暮は「ここは捜査一課ではない…」ことに気がつき、おもわず、矢島の顔を見た。
話の内容がすべて分かっている訳ではないが、矢島も小暮の様子にこころなし不安そうな表情である。
「詳しいことはお帰りになってのことですが、殺害された男の部屋で脅迫状の下書きと思えるものが見つかりました。それが驚いたことに、十五年前の事件のことを示すような文内容です」
「俺たちが追っている事件か!」
「そうです! その中に“因島”の名があるのです」
「因島? 分かった! すぐ戻る」
東京で起きた思いもしない事件は、木暮と矢島に重くのしかかった。
あわただし過ぎるほどの一日の中で、二時間後、小暮は出雲空港発のジェット機のシートに深く身を沈めて、部下・工藤刑事から聞いた事件の事を考えていた。
事件は、昨晩のことであったという。
小暮が東京を発ったとほぼ同じ時刻、都下・八王子市郊外を走る中央自動車道の橋脚下で、成人男子の転落死体が発見されたのである。
発見者は、友人宅より帰宅する途中の男子高校生であった。
死亡していた男の運転免許書から、氏名・住所はその場で判明し、直ちに所轄署の捜査員がその住所に赴いた。
他殺・事故死の両面からの捜査である。
管理人の話では、男は一人暮しで、名は徳津猛という五十五歳の塾講師であった。
男の部屋で、整然ではあるがあわただしく動き回る捜査員の一人が寝室と思える部屋に入室し、何気なく部屋の片隅の机の上のパーソナル・コンピュータに目をやり電源を入れた。
ハードデスクの赤いランプの忙しそうな点滅の後、見慣れたソフトの画面が出て、その捜査員は慣れた手付きでキーボードを叩いた。
被害者はいかにも講師らしく、ディスプレイの中の画面にこ難しい文章や難解な計算式が見えた。
「ふぅんー」と、言いながらカーソルを移動した時、その捜査員は妙な事に気がついたのである。
彼の目に映った文字は、“警察”という、ほかならぬ見慣れた文字であった。
「講師の男が“警察”とは? 小説でも書いているのかな?」
そう独り言を口に出した捜査員は、そこに書かれている文章を読みはじめた。
だが、みるみるその顔は、緊張と驚きで包まれ始めたのである。
「主任! これを見て下さい」
彼は大声で上司を呼んだ。
彼の驚きは当然であった。なぜなら数分後、プリンターで打ち出されたその内容は、正しく脅迫文そのものであったからである。
そして、その中に書かれていた名は、所轄署・八王子警察の人間であれば誰でも知っている十五年前の事件の登場人物のものであった。
小暮は、懐のタバコに手を伸ばし、口にくわえた。
だが、すぐに機内が禁煙と気が付き苦々しく呟いた。
「いったい全体、どうなっているんだ」
西に傾く太陽を小さな窓から見て、その気持ちはますます強く、焦りとも思えるほどに小暮の脳裏を支配していった。
思いもしない新たな事件の発生は、
「今までの捜査の進展にプラスとなるのか、あるいは捜査を逆行させるのでは…」という、微妙なものに小暮には思えたのであった。
小暮は手帳の日にちを見て眼を閉じた。
残る日数は、二十二日を残していた。
羽田には、部下の工藤刑事がいまや遅しと小暮を待っていた。
「警部! どうなっているんでしょうね…」
「俺が聞きたいくらいだよ。とにかく所轄署の八王子警察に行くしかないな。「島田刑事は?」
「連絡済みです。警部がお戻りになるのを待っておられるはずです」
二人が島田刑事と落ち合ったのは、木枯しが一段と身にしみる夕暮の八王子署であった。
年末の警戒と、昨日の殺人事件のためだろうかひっきりなしに出入りする制服と私服の警察官の姿が目につき、警察の玄関脇には大きく書かれた「八王子・橋脚下殺人捜査本部」と「年末警戒中」の看板が、ぎょうぎょうしく見られた。
「警部。専従捜査班の私も、今回の事件で合同捜査に加わることになりました。この事件は、やはりとんでもない裏がありそうです。被害者の部屋にはこの脅迫状の他に写真がありました。顔は横顔だけですが、写っている男は被害者ではないようですね」
島田は、押収された数枚の写真を机に広げて言った。
驚くことに、まるでポルノ写真そのものであった。
「女の方は、まだ若いですね」
「ええ、たぶん二十代前半でしょう」
意識的に撮られたものであろう。女の痴態は、好色な男でなくとも十分目を奪われるアングルのものばかりである。
「この写真の男の趣味か、あるいは盗みどりで撮られたものが被害者の手に渡り、脅迫に使用されたと言うことでしょうか」
若い工藤の言葉に、
「趣味か。そうならずいぶんと悪趣味だ。女の親が見れば、卒倒するだろうな」
と小暮が、眉間にしわを寄せて応えた。
島田も同じように顔をしかめた。
「脅迫文の内容から考えて、この女は因島義則の死に関係があると見てさしつかえないんじゃないでしょうか。警部のお考えは?」
工藤の考えるように、確かに脅迫文には、因島義則の名がはっきりと読み取れ、さらに、写真に写る女の関与を名指しで示してはいた。
「被害者は、この女の若い頃を知っていて、そして現在も知っていることになりますね。かりに写真の当時の年齢を二十三〜二十四歳として、あの事件から十五年です。文面から推測すれば、写真の女もすでに四十歳前後になっているはずです」
島田も工藤の意見に賛成するように頷いた。
「そうすると島田さんは、近所に住んでいるか、あるいは顔見知りだと…」
「ええ、そう考えられますね」
「手がかりは、この口元のほくろですね」
小暮が、写真の女を見て言った。
女の顔の拡大写真に見える、小豆大のほくろが印象的であった。
現時点では、走査線上に浮かんだ女と糸波の関連は、なにもないように思われた。
言えるのは、時も場所も異なる二人の人間の“死”という“点”であった。
だが小暮は、“因島義則を介して”二つの殺人が、見えない“線”でつながっているに違いないと、確信していた。
すでに、重要参考人と思われる女の身元を知るために、捜査員が暮れの街に散っていた。
小暮たちは、新たな事件で奔走する八王子署の捜査員との連携を島田の調整で計りながら、引続き捜査の手を広めていった。
「徳津の事件をひとまずおいて、いま一度整理してみると、糸波が殺しに関わっていると考えてまちがいないと思われるが、何故今月になって再び隠岐に行ったかだよ」
「自殺と見せかけた殺人を起こし、その二年後に、再びその現場に現れたとすると、その死体に用があった考えて差し支えないんじゃないでしょうか」
「もの言わぬ白骨にか…」
小暮は、眼が座ったように言った。
「ええ、もしあの白骨が手帳の在処を知っていれば、困るのは当然でしょうから」
「糸波が最初に島根に来たのが二年前、そして、遺体の死亡推定も二年前だ。だが、殺害されたと考えられる陣野は、その二年前にはすでに失踪している。つまり、糸波が二年前に隠岐に来た時は、被害者はまだ生きていたことになる。実際は陣野はすでに死んでいたのではないだろうか」
「糸波は陣野が生きていると見せかける必要があったわけですね。警部、死体は死後二年と考えられていますが、実際は三年か四年ということでしょうか」
「たぶんな。殺害後、どこかに埋めて置き、その後に堀だして摩天涯に放置すれば死後の時間をずらすことは可能だ。野ざらしと違い、地中なら腐敗はゆっくりと進む」
木暮は立久恵峡で一人の男を目撃した主婦の証言を思い起こしていた。
「そうすると、糸波は三回、隠岐に来ていることになりますね」
「そうだ。一度は、殺して運んだ時、二度目は掘り起こして摩天涯に運んだ時、そして三度目が、この前だ」
「最初も偽名でしょうか」
「当然だろうね。それと、遺体を動かしたのは自殺と見せかけるだけとは思えない。奴は遺体が白骨化するのを急いでいたんじゃないだろうか」
「白骨化を?」
「地中では、一年では完全に白骨にはなりにくい。もちろん気温や季節にも影響されるが、冬から早春にかけての季節ならなおさら腐敗は遅い。だが糸波にとって、遺体の腐敗を急がせる事情が出来たとしたどうなる」
「掘り起こして野ざらしにする。そして、その白骨に会いに行くでしょうね」
「だが、野ざらしは発見される心配がある。だから危険を犯してまでも、人の近寄れない断崖の縁を選んだ。高さ三百メートルの断崖の縁にね」
小暮はそう言いながら、並木と行った現場の風景を思い浮かべて、堅く口を結んだ。
「死体から何を知ろうとしたんでしょうね」
「いまはまだ分からないが、俺の想像では“あの手帳のに関係があるのはまちがいないと思う。貸し金庫の鍵”か、それに類似したものじゃないかな。小さなものだ。殺害される直前に飲み込んだと、糸波が考えたとしてもおかしくない」
「なるほど。白骨からなら容易に取り出せますね」
「だが、現場からは何も見つかってはいない。たぶん、最初に埋められた場所に残されている可能性が大だね」
「イズモコバイモですか!」
「だと思う!」
小暮は、並木が話した、イズモコバイモの希少性と立久恵峡という二つの言葉から、閃きとも予感とも言えるものを感じて、隠岐島にその追求の手を広げた。
そして、糸波の行動の一端を探りだし、白骨の身元をも明かにした。
もし、並木がこの花に関心を寄せなければ、いまなお徒労に近い聞込みを続けていたに違いなかった。
翌日。
小暮は、再び島根県の、隠岐島にその体を運んだ。
希少植物・イズモコバイモの発見地に向かうためである。
十二月の落葉樹の森は、死んだ様にひっそりと小暮たちを迎えた。
浦郷署の杉野刑事や、島根県警の矢島刑事を始めとする数名の捜査員が踏みしめる、降り積もった落葉がカサカサと音を立てた。
時折り、厚い雲の合間から差し込む孤島の弱い陽が、それを物悲しく包み込んだ。
「ここです。私が、あの花を見つけたのは」
同行した高校教師は、山にはまだ残雪が残る一年前の早春に訪ねた場所を指さした。
もちろん今は花はなくその形跡すら見ることは出来なかったが…。
ユリ科の植物・バイモ属のイズモコバイモは、その産地を島根県の極めて限られた地域の落葉樹林のしたばえに生育し、早春のほんの一時期にのみ、茎頂に可憐な白い一花をつけてその開花と同じ程の短い命を終えるのである。
「ここを中心に掘ってみて下さい」
祈るような気持ちで、小暮は県警の捜査員に指示した。
時が止まったかのような静寂の中で、発掘は行われようとしていた。
一抱えほどのクヌギの大木の手前五〜六メートル四方の落葉が、指先で剥がれるように取り去られ、その下の湿った腐葉土も、これ以上は出来ないだろうと思えるほどの注意深さと慎重さで掘り進まれた。
土に突き刺さるスコップの音だけが、静寂に包まれたこの地で響く唯一の音であった。
捜査員の手に触れる全ての物が、細かい目の“ふるい”にかけられた。
小暮の目はじっと、その様子に注がれていた。
そして,その一時間後、小暮の予想は見事に的中した。
「あったぞ! 毛髪だ」
穴の中を這うようにしていた捜査員の一人が沈黙を破るように叫んだ。
その時、小暮は、捜査員の指先に持たれた紛れもない数本の毛髪を見た。
地面下・六十センチほどの柔らかい土は、周囲の土とは明らかに違い、一度掘り起こして埋め戻されたことを物語ると共に、そこに埋められていた物体をも指し示していたのである。
再び捜査員の緊張がピークに達したのは、小暮がまちに待った物の、発見があった時であった。
それは、三年もの間、被害者の必死の思いを知ったかのように犯罪者から逃れ通し、そして又、別の思いを託したかのように刑事たちの目に触れた“鍵”であった。
「小暮警部。出ましたね」
全ての捜査員の顔は、紅潮していた。
だが、小暮にとっても彼らにとっても、勝負はこれからであった。
「奴らはこの鍵を手に入れたかったはずだ。だが奴らに手帳は絶対にわたさん」
手の平に乗せた、死者の告発を願うかのような泥で汚れた鍵に、小暮は誓うようにその言葉を口にした。
そして、鍵を堅く握りしめて振り返った小暮の目に、人を拒むようにそそり立つ摩天涯が映っていた。
鍵の刻印から、渋谷のS銀行駅前支店の“貸し金庫の鍵”と判明するのに時間はかからなかった。
そして翌日、とんぼ帰りした小暮の目の前で、重々しい金属扉が開かれた。
「あった!」
「ありましたね! 警部」
手帳は、金属の小部屋の中で、じっと木暮たちを待ち続けていたかのように木暮には思えた。
手に持った、その半分に切り放された手帳と、出雲で発見されたものとはピタリと符合した。
まるで、割符のように…。
その中に、“因島義則”の名を確認した時、小暮大次郎は、二度と出られぬ病床で横たわっていた女囚・村尾伊佐子のか細い顔と、痩せて折れそうな指を思い浮かべたのであった。
物悲しく思えるヒグラシの声を聞き、半信半疑で捜査を開始した時からまもなく四カ月が経とうとしていた。