第七章 ほくろの女


島根の並木から、会議で急遽、上京するとの連絡を小暮は昨日に受け取っていた。 
「日程を消化すれば会えないか。相談したいことがあるんだ」
「会議は明日と明後日の昼までだ。二時にどうだ」
「それでいいよ。相談もあるが、久しぶりに一杯やるか」
小暮は受話器の向こうの友人に言った。
 小暮の並木に対する信頼と友情は、学生時代から周囲が羨むほどのもので、このことは、並木が小暮に対するそれと同じであった。
 もちろん並木は警察官ではないが、犯罪捜査に無縁ではない化学や自然現象などについてのずば抜けた知識と理論は、警視庁捜査一課警部・小暮が舌を巻くものであった。
小暮は並木に相談を持ちかける度に、
「この男の頭はどういう構造になっているのかな?」と内心うらやましく、そして、「こんな男が犯罪を企てたなら、俺たちはお手上げだな」
と、妙な感慨の篭った目で友人を見るのが常であった。
 落ち合ったのは都下・八王子駅前の喫茶店である。
 小暮は単刀直入に切り出した。
「並木。お前さんのおかげで、手帳は見つかった。村尾伊佐子の記憶が正しかったことは、宅澤と糸波が過去に何をしていたかを暴く重要な手がかりにはなる。だが、今回の八王子の殺しはそれとどうつながるかだ」
並木には、すでに二つの捜査の進捗状況を知らせていた。
当然、このことが外部に漏れれば、小暮の立場も彼の上司である神宮のそれも極めてまずいことになるのは目に見えていた。だが並木に関して言えば、それは有り得ない事を小暮は知っている。
「手帳に書かれていた名前から何か分かったのかい?」
「全部で四十八名の名があったが、住所と勤務先、それに取引内容と思えるものは暗号の様なもので書かれている。詳しいことは解読中だが、捜査四課と厚生省の話では、高純度のヘロインの密売だろうとのことだ。まだはっきりはしないが、末端価格にすれば数十億円に上る金が動いたと見ている」
「ほぉー、裏の世界の人間が、人の命と引き換えにしても取り戻す価値があったと考えるわけだ」
並木は妙な感心をして、言った。
「ああ。そしてそれを守るために、おそろしく悪知恵と警戒心が強い男だったようだな。宅澤徹人という男は」
「二つの事件で殺害されたのは、麻薬の売買の中に登場する因島と、その事務員。そしてその麻薬売買の秘密を知った陣野と、脅迫状を女に送った徳津の四人か」
「因島と事務員・佐々木聖子を殺害したのが、これもすでに死亡している伍代早苗ー因島の婚約者だ。彼女は会社の金を横領したことになっているが、宅澤を殺した村尾伊佐子や彼女の周辺の話では、横領など有り得ないとの疑問もある」
「宅澤と糸波の秘密を知り、手帳で脅迫したと考えられる陣野や、因島の殺害に何等かの情報を得たために殺された徳津たちとは、彼女の起こした殺人は別の意味を持つという事だね…」
「俺は最初、因島本人が麻薬を摂取していたのではと考えたが、彼にはその事実はなかった。無論、相手の女もそうだったし、伍代早苗も麻薬には関係がない」
「しかし、因島は麻薬購入の上客だった」
「言えるのは、因島が二次的な売人だったんじゃないだろうか…」
「仮に、君が言うように彼が売人だとして、宅澤との間で取引による何等かのトラブルがあり、その殺害の罪を婚約者の伍代早苗にかぶせたとしても、彼女が横領したとされる金の疑問が残るね」
「当時は、その金が伍代早苗の逃走資金だと考えられたんだよ」
「たしか、遺体の第一発見者は会社の人間だったね」
「現在は因島ガスの社長で、当時は経理課長の山城だ」
「帳簿の不正を見付けたのも彼だったね…」
 並木は少し考え込むように言い、さらに続けた。
「山城の人となりは? 当然結婚もしているんだろ」
「待ってくれ。えっと…、妻・舞子と、今年高校二年になる美華という娘の三人暮しだ。近所でも評判の愛妻家とのことだし、経理課長当時は社長・因島との関係も良好だったようだ。五年前に八王子に新居を購入しているが、経済状態は当時から良いようだな」
 小暮はびっしりと事件の内容と現在の捜査状況が克明に記された手帳をめくって、答えた。
「因島の周辺で金に困っていた人間は見あたらないか…」
「そういう事になる。つまり、当時、金が必要だったのは、逮捕された伍代早苗以外にはいないと考えられたんだ。ましてや、彼女以外に必要とする人間がいたなら、なぜ他人の冷蔵庫に金を隠すのかが分からないからな」
小暮は、まさにお先真っ暗という表情で並木の顔を見て言った。
「だがな小暮。この世の中には金がない人間ばかりではないだろう。中には億の金を竹薮に捨てたり、よそ様のポストに百万、いや千万単位を投げ入れるような人間もいる」
と、安月給の小暮にはしたくて出来るはずのない言葉を並木は口にした。
「それはそうだが…」
「もし、もしもだよ。横領とされる五百万円の金が、伍代早苗を陥れて殺人の汚名を着せるためだけのものだとしたらどうなる」
「金にこだわるな…、か!」
「この二つの殺人事件には、たしかに麻薬や金の陰がちらついてはいるが、実際はもっと違うところにあるのではないのか?」
「どういう事だ?」
「陣野殺害はひとまず置いて、十五年前の事件に絞って考えると、当時警察が知り得なかった事実があった」 
「因島と関係があったと見られる、脅迫された女だな」
「そう。問題は、例の写真に写っている男女だよ。写真の男は徳津とは違うんだろ?」
「ああ。写真では残念ながら顔は分からないが、違うはずだ。ずいぶん体格がいい若い男のようで、医者は『年齢は三十歳前半くらいだろう』と言っている。写真は間違いなく十五年前のものだから、現在はたぶん四十歳後半にはなる筈だ」
「ほかに目だつ身体的な特徴はないのか」
「女のようにほくろのようなものでもあればいいのだが、特にないようだ」
「女性から追わないと無理か。ところで、このパソコンの脅迫文の中に『あと四ヶ月で時効。十五年も待った』と、書かれているが、なぜ徳津は十五年も脅迫を待ったんだろうか。写真の女性が因島を殺害したのなら、脅迫はいつでも出来るはずだ」
「時効間際の脅しの方がより強い効果を持つだろうし、『復讐のためなら』と見るむきも捜査本部にはあるが…」
「それはそうだが…。それと、単に金が目的なら、脅迫する相手が十五年後にどうなっているか分からないのにこのように待つだろうか?」
「女から絞り取ろうにも、取るものがなかった?」
「あるいは、この女性だけが脅しの対象ではなく、狙いはもっと別の人間を含んだものかも知れないね」
並木の頭脳は、木暮のそれよりもはるかに複雑であった。
 あらゆる可能性を模索し推理するこの男は、まさに未知の謎に挑む研究者なのだ。
 木暮は下唇を突き出して、
「うんー。なるほど…、別の人間か」と、考え込みうなずくだけである。
 並木は続けた。
「徳津の部屋からは、写真の他にカメラは見つかったかい?」
「カメラやその関係のものは多数あったし、本来は動物学の専門家でもある徳津が、写真についての知識を十分持っているとみて間違いはないが、脅迫に使った写真は、彼が自分で取ったのか、どこかであの写真のネガを入手したのかは判らない」
警察は、そのフィルムの出所に関心を持ち、徳津のマンション周辺のカメラ店などの聞込みに全力を上げていたが、いまだ成果はなかった。
「徳津の専門は動物学か」
「そうとうなものらしい。元々は獣医だった。だが、女のことで問題を起こして、勤め先をやめざるを得なくなると同時に離婚している。その後、現在の予備校の数学講師をしていた」
「生まれも東京なのかい?」
「板橋だ。離婚してからは、予備校のある八王子に移っている」
「八王子に来て何年になるんだろうか?」
「十六年になるはずだ。事件の一年前には八王子にいた計算になる。俺たちは、その頃に徳津が写真の女と知り合ったと見ているが」
「問題を起こした女性は、今は?」
「結婚したそうだが、どこに住んでいるのかまでは…」
並木は、それにこだわって言った。
「すぐに調べてみた方がいいのではないかな。徳津は何かを待ち続けていたように思えるんだよ。もちろんそれが何なのかはまだ分からないが…」
「十五年もの間…か? ちょっと待ってくれ。確認してみる」
木暮は、店内での携帯電話の使用を遠慮して、席を立った。
 数分後、引き換えして来ると、
「お前さんには、かなわんよ」と、笑いながら木暮に言った。
「どうした? 何のことだい」
「驚くなよ。八王子にいる。それも因島ガス・社長婦人になっている。山城光則の嫁さんだよ。八王子署の連中もびっくり仰天ってとこだよ」
「本当か!」
「ああ、そうだ! 徳津と別れたのが二十三歳の時だったらしいから、今は三十八歳だ。そして、勤めていたのは同じ動物病院だ。並木、お前さんはホテルで待っていてくれ! 俺は八王子署の島田刑事と山城の所に行ってくる!」
小暮は、立ったままそう早口で言うと、彼を見上げる並木をそこに残して八王子駅前に飛び出した。
八王子市街を見渡せる山手の住宅街にある山城光則の自宅は、市内から二十分程にある。
周囲の手入れされた庭と高い塀を持つ高級住宅の中では、地味といってもいいような山城家であったが、さすがに瀟洒と思える雰囲気を持っていたし、住人の生活を反映してか、
「街中の住まいとは違うな」と小暮の目には映った。
彼の押す門扉のチャイムが、家の中で微かに聞こえた。
 二度ほど押したとき、インターホンから、
「どなた様ですか」
 女の声がした。山城夫人である。
「山城さんですね。八王子署の島田と言います」
小暮に変わって、島田が面会を求めた。
返事の代わりに重厚な玄関ドアが開き、すらりとした女の姿が現れて門扉を開けた。
「奥さんですか? 少々お尋ねしたいことがありまして」
と、言った島田と小暮は、次の瞬間、弾かれるかのように目の前の女の口元を見ていた。
だが、山城夫人は、警察手帳を見せたそんな二人の心中と“ある思い”に気が付くわけはなく、「どうぞ」と招き入れた。
だが、その声は上品な容姿には不釣り合いなほど暗いと二人は感じていた。
「早速ですが、この男をご存じありませんか? 名は『とくつたけし』。人徳の“徳”に、さんずいの“津”。そして猛々しいの“猛”と書きますが」 
島田が取り出した写真は、生前の徳津である。
「いいえ。存じませんが…。この方が何か?」
 言下に否定するその表情の中のあるものを、小暮は見逃しはしなかった。
ー上品な言葉が漏れ出る、その形の良い口元が引きつるように震えているのを…。
二人は婦人にいくつかの質問をすると、
「ありがとうございました。またお聞きすることがあるかとは思いますが、その節は宜しく」
と、庭先に咲く菊のアプローチを横目で見て山城家を辞した。 
 山城夫人は、二人の刑事をうつむき加減に見送る心の中で、この日の数日前から悪夢の中をさまよっていた。
彼女の上品な顔と体のすべてから、笑みと優しさが失われたかのようであった。
徳津の写真を見たとき、彼女はその写真を持つことが出来なかった。
 なぜならば、口元と同じように、細い白魚のように白く長い指も、膝の上から動かすことが出来ないように震えていたのである。
事件当時、経理課長であり現在は因島ガスの社長である夫・山城光則は、殺害された因島義則とその父親の下で二十数年に渡り会社と苦楽を共にした男であった。
 担当する経理課での不名誉な横領事件と、殺人の第一発見者という思いもよらぬ出来事に遭遇した山城ではあったが、殺人の当日から翌日にかけてのアリバイは爪の先ほども疑うことの出来ない完全なものであった。
 ましてや、犯人が数日後に検挙されるという八王子署の快挙に、当然山城には何等の嫌疑も懸けられることはなかった。
 もちろん、殺人容疑者・伍代早苗が横領したとされる金も会社に戻され、彼はその責任の追求からも免れた。
そして、二代目社長の死と共に、社長亡き後の経営の中心適役割を担い、ワンマンであった因島義則の後を継いで、社長に就任していた。
彼は多忙を極める職務を全うするために、仕事一筋の毎日であった。
社員の信任も、前社長以上に厚かったようである。
そして、高校生になる娘と妻の、良き父親でもあり夫でもあった。
 だが、その理解者と優しい妻の築き上げた家庭を破滅しかねない、悲惨な出来事が待ち受けているとは、本人たちが想像できるはずもなかった。