第二章 謎の手帳


警察官とて人間である。
迷いもあれば、ためらい、憎悪、悲しみなどの全てを持ち合わせた普通の市民だ。
 その市民であり警察官でもある小暮大次郎は、人並みはずれた正義感の持ち主ではあったが、やはりこれらの感情の全てを持つ、いや、人一倍、より人間味溢れる男であった。
 そのひとつの現れが、昨日の医療刑務所へ服役中の女囚を見舞ったような行動の中に見られた。
 そうした行動をさける傾向にある刑事仲間の噂の中で、小暮は、「刑に服しているんだ。これも仕事だよ」と言って取り合おうとはしなかったし、またそれ以上は言わせないほどに優秀な警部でもあった。
 そんな小暮は今、大きな決断に迫られていた。
「調べてみるか!」
小暮は、熟慮するとき決まって見せる、彼の癖である“下唇を突き出し”て呟くと、大股で廊下を挟んだ書庫に向かった。
 薄暗い書庫内の幾列にも並んだ棚の一つ一つには、膨大とも言える過去の犯罪の経過と、その結末が記された調書と資料が隙間がないほど納められていた。
 数万人。いや、数十万もの人間の、生と死と悲しみと、そして憎悪の記録がここにはあった。
小暮は、この部屋に入る度に思い、そして自分自身に言い聞かせるように口に出す言葉があった。
それは、
「俺達がしなければ、一体誰が真実を明らかに出来る!」
という言葉であり、彼の持論でもあった。
 そして、十五年もの間、自分の心の中でくすぶり続け、蝉時雨を聴く度に心に問いかけ囁き続けた、「何か妙だな…」との、自分自身の声を消し去る決意と覚悟でもあった。
小暮は、棚から一冊の調書を抜き出すと、上司である捜査一課・課長である神宮の前に緊張した面もちで立った。
「課長。ご相談があるのですが」
「お、ぐれさん。珍しいね! 君から僕に相談とは。いつもはこちらからばかりなのに…」
神宮は、小暮を愛称で呼び、笑った。
小暮は、上司・神宮の信頼を全面的に勝ち得ていたのである。
「実は…」
「?」
言い淀んだ小暮だったが、意を決したように一度大きく深呼吸して、神宮の顔を真正面から見て言った。
「実は、再捜査の許可をお願いしたいのですが」
「再捜査…、を?」
神宮は自分の耳を疑うように柔和な顔を一転させて訊き返した。
 それは、小暮の提案が警察にとっていかに重大で困難な意味を持つのかとの現れであった。
 小暮は、先日の村尾伊佐子の話からし始め、自分なりの疑問と事件の可能性についての考えを一句一句、噛みしめるように告げた。
腕組みし、眉間に数本の筋を刻み目を閉じた神宮は、
「うぅん…」と、うなったまま黙りこくっていたが、やがて、
「ぐれさん! 一日か二日待ってくれ」といい置き、木暮から受け取った『十五年前に終了した事件が書き記されている一冊の調書』を持って、慌てたように捜査一課の部屋を飛び出して行った。
木暮の突然の提起は、真実を追求することを使命とすべき警察全体の威信、そして事件を直接指揮した所轄署のメンツに拘わる重大事でもあった。
 言うならば、事件を取り扱った所轄署の思惑とは相反することでもあったのである。

長い三日間であった。
 だがその日、課長・神宮は険しい表情で指示したのである。
「木暮警部。上と所轄署には、再度の捜査の承諾を得た。もしも君の言うような事実があるのなら、なんとしても明らかにしなければならない。時効まであとわずか四ヶ月だ。確実なとこを頼みます!」
木暮は、神宮のその言葉と表情の中に、この三日間、はるか上層部に必死で掛け合う彼の姿を認めていた。
それは、とりもなをさず、神宮が木暮に寄せる全幅の信頼と、神宮みずからの正義を貫く姿勢の現れであったろう。

「警部。正直言って、何から手を付けていいのか、私にはどうも…」
運転する、木暮の部下である年若い刑事・工藤が、ありのままの気持ちを告げた。
 甲州街道を八王子に向かう車中である。
再捜査の専従捜査員は、諸々の事情から捜査一課の木暮と部下の工藤の二人だけであった。
木暮にしても、彼に言われるまでもなく十五年も前の、それもすでに解決済みとされる事件の蒸し替えしとも言えなくもない捜査が、いかに困難なものであるかくらいは百も承知だった。
 そして、これは木暮にとって、かつてない大きな賭であった。
「私は宅澤の事は良く知らないのですが、どんな男だったんですか? それと、村尾伊佐子の言う手帳でもあれば流れが変えられるでしょうが…」
 工藤が、尊敬する木暮の横顔を盗み見るように訊いた。
「俺たちは、伊佐子に殺された宅澤の“ガサ入れ(家宅捜査)”や関係者からもそのような物は見つけてはいないが、間違いなく手帳か類似する物は有るはずだろうね。むしろない方がおかしい。宅澤は、ハイエナのような男だったようだが頭の方も相当に切れた。表向きは建設会社の経営者だったが、その裏では組織暴力団とのつながりが取り沙汰されていたし、何人もの女にバーや高級クラブなども経営させていた。だが、結局は一番金になった麻薬の売人として殺されたがね」
木暮は、路の両側に切れ間なく立ち並ぶ高層ビルや流れる人の波を見ながら、この大都会とそこで生きる人間の乾いた心の隙間に冷たい風のように入り込んで成長し、巣くう悪と、脆さとを考えていた。
過去に、木暮が逮捕した多くの犯罪者にしても、また伊佐子にしても、心の豊かさとは程遠い、便利さだけが取り柄とも言える物質文明にドップリと浸かりきったこの街に飲み込まれ、挫折した犠牲者であったのかも知れなかった。
二人の乗る車は、目まぐるしいほどの開発が進む都心を抜けて、国道二十号線を西に向かっていた。
国道二十号線は、古くから甲州街道と呼ばれ、中央高速道路が出来た今でも、都心と信州を結ぶ大動脈で、都下・立川市を抜けると多摩川にさしかかる。この多摩川に架かる多摩大橋が立川市と日野市の境界線である。
 やがて浅川の大和田橋を越えて市内に入った二人が出向く所轄署・八王子警察は、すぐこの先である。
今年の春に本庁から赴任した所轄署の署長は、幸いにも小暮の上司・神宮の同期生で小暮の心配をよそに多分に好意的であり、神宮の要請に気持ち良く応えたと思われる態度と物腰であった。
「詳しいことは、彼から聞いています。…ここだけの話だが…私としても、被疑者死亡で終了したあの事件を、心底納得していた訳ではなかった…」
と、先ほどまで目を通していたと思われる分厚い書類に手を置いたまま、二人に困惑した表情と口調で言った。
木暮は机上のその書類をちらと見ると頭を下げて言った。
「恐れ入ります。署長にそうおっしゃって頂ければ…確か、この事件の担当官は、島田刑事と伺っていましたが」
 小暮は、島田との専従捜査を神宮を介して依頼していたのである。
「島田刑事を」
 呼ばれて入室した初対面の刑事は、いかにも実直さを絵に書いたような印象の男であった。
「島田刑事。こちらは、本庁の木暮警部と工藤刑事だ。日頃から君が言っていた“例の事件”で貴重な手がかりを掴んで頂いた。本日からお二人と専従捜査に当たって貰いたい」
 署長は、島田にそう告げると、机上の書類を島田に渡した。
 そして、署長室を辞退する三人の背に言葉を投げかけた。
「必ずや真実を明らかにして下さい」
それは、神宮と同じ言葉であり、警察の威信を懸けた力強く愛情の篭ったものでもあった。

「島田さん。先ほど署長がおっしゃるには、『あなたもあの事件に疑問を持っておられた』とのことですが…」
小暮は、捜査本部もとうの昔に解散したこの事件の直接の担当者とも言える島田が、十五年近くもの永きに渡って、自分と同じように割り切れない疑問ーそれは不審に近いーを持ち続けていたことに驚きを隠そうとしなかった。
「ええ。おっしゃる通りです。しかし、当時の状況証拠の前には、それを主張し続けることは不可能だったのですよ。しかし私には、なぜ伍代早苗があの様な大金を横領しながら使いもしないでいたかが不思議でなりませんでした。もちろん、彼女が金に困っていた形跡もありませんでしたしね」
「検察の一部でも、その金の件で同じような異論があったことは、私も聞いてはいたのですが…」
「そうです。ですが、現場の凶器に残された指紋と目撃されたことは、動かすことの出来ない事実ですし、三角関係のもつれや金が彼女の自室から発見された経緯から見て、横領と使途の疑問を覆す事は出来ませんでした」
「早苗が横領したという証拠はいかがなんですか? 紛失が発覚したのは逮捕の数日後だと聞いていますが」
「ええ…当時はまだ経理課長だった山城…、現在は因島ガスの社長ですが、彼からの告発があったからです。ちょうどその一ヶ月ほど前に、会社の内部異動と監査が重なりあったことがあり、その時に、数度に渡って帳簿が不正操作されていた事実が発覚したのです。問屋から納入されたガスと、消費されたものとの差の巧妙な改算です」
島田は当時の状況を事細かく説明した。
「それが、早苗の手による不正だったのですね」
「そうです。それが可能だったのは、早苗と、殺された佐々木聖子の二人しかいません。しかし、その佐々木聖子は死んでおり、金は早苗が持っていましたからね」
「誰の目から見ても捜査線上には早苗しかうかばなかったと…」
「ええ…それと一部の捜査員は、早苗が以前から二人関係…社長と聖子のですがね。知っていて計画的な殺害との見方もあったのは事実です…」
「逃亡資金と…そうでしたね?」
「ええ」
島田は当時を振り返るように言った。
「捜査本部が早苗を容疑者と考えたのは分かりましたが、あなたがあくまでも金にこだわるのは、その使途が不明だからなのですか?」
木暮は、自分自身の疑問でもある“使途が不明”の金について聞いた。
「そうです。目的のハッキリとしない金を、早苗がなぜ横領という危険を犯してまで手にいれたのか…私は来春で定年ですが、こうした疑問を持ち続けて辞めることだけはなんとしても避けたかったんですよ。警部が進言されなければ、私は三十年の刑事生活に悔いを残す事になったはずです。ですからどのような結果になろうとも、自分なりの結論を出すつもりなんですよ」
「伍代早苗が逮捕されたのは、三日後でしたね」
「ええ。しかし、その後の聞込みでも彼女と因島との間でトラブルなどがあったとは思えないのですよ。当時は横領がばれ、さらに親友とも言える佐々木聖子と社長の不倫の現場を見て逆上した上の犯行と断定されましたが、私には、結婚を目前にしていた早苗が、計画的な殺人にしろ発作的にしろ、ましてやその逃亡資金を調達していたとは今でも思えませんし、時が経てば経つほど、妙だとの思いは強くなるんです。それは、金が冷蔵庫に、ということをも含めてですがね」
「誰かにはめられたと?」
「いえ、そこまでは…ですが…どうしても…」
島田は、当時の多数を占めた“殺害後の逃亡資金”との意見を、どうしても受け入れることは出来なかった事を率直に告げた。
もし、伊佐子の話を木暮が信じなければ、被疑者死亡のままで、誰一人としてこの事件を蒸し返す事はなかったはずであった。
「警部は、四年前の宅澤徹人が殺害された、麻薬がらみの件に関係ありとお考えのようですが」
 島田はいよいよ本題に入った。
 宅澤が殺害されたのも八王子であり、その捜査本部は所轄署である八王子署に設置され、島田刑事も村尾伊佐子と宅澤に深く関わりあっていたことは当然だった。
 だが、その犯人が、本庁の刑事である木暮の手によって逮捕されたのには、一つの理由があった。
それは、ここ数年、都区内で起こる覚醒剤やその他の薬物による犯罪の裏に、一人の男の影が絶えず見えかくれしていたのだった。
それが、広域暴力団との噂の絶えない宅澤徹人である。

 宅澤が殺害される一月ほど前だった。
 高層ビルの谷間に色とりどりのネオンサインがともる頃、数人の社員ーむろん彼の配下であるがーに守られるように、高級クラブで著名な財界人と談笑する宅澤の姿には、余裕があふれ、何の確証も持たない木暮たちは、傲慢とも取れるその表情に歯ぎしりする時間が過ぎるのみであった。
そんな折、警察は一度、彼に手ひどくやりこめられたことがあった。
それは、ある事件の参考人である彼に対しての、過剰な取調べであり、実際は事件に無関係な人間にとった焦りの事情聴取であったのだった。
優秀な顧問弁護士を抱えた宅澤の告訴により、全面的に非を認めざるをえなかった警察は、それ以後の彼に対しての行動は、慎重すぎる程のものとなっていたのである。
だが、そのような中での宅澤の死は、木暮たちに少なからず衝撃を与えたことは当然で、さらにその日は新たな事件の参考人として、再び彼を招致する日でもあったのである。宅澤逮捕にはやる警察は気勢をそがれたことは言うまでもないことで、村尾伊佐子は、警察より先に直接、死を与えたのであった。
木暮は、島田の質問に明確に答えた。
「ご存じのように、宅澤は良からぬ噂の絶えぬ男でした。村尾伊佐子の言うように顧客の名が書かれた手帳があってもなんら不思議はありませんし、配下を使っての恐喝なども十分考えられます。彼なら、同じ地域に住む社長である因島を知っていても不思議はないかも知れませんしね。ひょっとすると因島か伍代早苗に関して何かを掴んでいたとも考えられますが…」
「警部。村尾伊佐子は、その手帳の中で、因島義則らしき名を見たとのことでしたね」
「そうです。ただ残念なことに名字だけで、下の名は覚えていないんですが…、ですが、電話帳で“因島”という名を捜したところ、都内では三名、そしてこの八王子では二名の該当者がありました。全国でどれだけの数があるのかは調査中ですが、そう多くはないと思われますし、手帳の“因島”はおそらく八王子に居住する人間ではないかと思われます」
「その中の一人が因島義則だと、警部はおっしゃるのですね」
と、島田は小刻みに頭を上下させて言った。
島田は、木暮より年上であるが、言葉使いは丁寧である。
「ええ。そうです。因島義則です。もう一名は、一人住いの老女ですので除外しても差し使えないでしょうしね」
「警部。村尾伊佐子は当時、宅澤の愛人でしたね」
「ああ。…最後は廃人同様な身体になっていたが、若いときは女優のような女だったらしい」
工藤に、木暮が遠くを見るような顔つきで応えた。
「たしか、五代早苗も大変な美人だったと聞いていますが…宅澤と五代早苗が関係があったということはないでしょうか?」
「いや。それはないはずだ。宅澤には伊佐子の他にも数人の女がいたが早苗とは繋がりはなかった」
「そうですか。結局伊佐子の言う手帳の存在を明らかにすることが先決と言うことですね」
「…伊佐子の話は事実でしょうね。彼女の言う手帳の在処さえ判明すれば…」と、島田が大きくうなずき、工藤も「万万歳でしょうね」と、笑顔を見せた。
たしかにその手帳が見つかれば、工藤の言うように万々歳であった。
しかし、三人にはそれがいかに困難なことであるかは、分かりすぎるほど分かっていた。
なぜならば、四年前の宅澤殺害時の家宅捜査においてさえも、手帳どころか、彼の旧悪の何一つとして暴くことが出来なかったのである。