第八章 一通の手紙


いま彼女は、顔を両手で覆い、四日前のその日の事実を絶望するがごとく思い起こしていた。

四日前の朝….
「美華! 時間よ」
階下で妻・舞子の娘を呼ぶ声がした。
今日は、十七歳の娘・美華の三泊四日の合宿の日である。
「お父さん。行ってきます。お土産買ってくるね!」
山城の部屋のドア越しに、美華は元気よく声をかけると、
「ああ、気を付けてな」との父の声に応えるように「トントン」と階段を軽やかに降りていった。
 その足音と、妻・舞子の「楽しんでらっしゃい」と言う声に返す、
「はーい。行ってきます」との娘の明るく快活な声を、山城は遠くでぼんやりと聴くような思いでいた。
しばらく放心したかのような表情で山城はいたが、やがて気を取りなおしたようにある言葉を口にした。
「いったい誰なんだ!」
その口調は、吐き捨てるとも、やりきれないとも言ったような響きを持っていた。
書斎のソファーに浅く腰掛けて、苦悶と恐怖の入り交じった表情の山城にうわずった言葉を吐かせたのは、手にもたれている一通の手紙と写真であった。
山城は、立ち上がるとウロウロと落ち着かない様子で部屋を歩き回っていたが、やがて意を決した様に階下の妻を呼んだ。
しかし、その声は、彼自身が感じるように、カラカラに乾ききっていたはずである。
普段の優しい夫の呼ぶ声とは違う、呼び声に、
「どうなさいました? あなた」
と、入室した妻・舞子に山城は一通の手紙を突きつけた。
舞子は普段とはちがう夫の様子を不審に思ったが、何も言わずに手紙を受け取った。
 読み進めるうちに顔から血の気が引いてゆき、手紙を読み終えて夫を見上げたその顔は蒼白であった。
 そして、山城の指さした先にはそんな彼女に追い打ちをかけるように一枚の写真があった。
その夜の深夜、周囲が寝静まった高級住宅街の一角の山城家もひっそりと静まり返っていた。
だが、一筋の光も漏らさない程に堅くカーテンが閉じられた部屋で、山城光則は、妻と向き合ってソファーに腰掛け、テーブルに置かれた手紙と写真を食い入るように見つめていた。
夫の光則は、送られてきた差出人のない茶封筒に書かれた自分の宛名を見て“ぽつり”と呟いた。
「なぜ今頃になって…」
その声は、普段やり手の男らしくなく、また、妻・舞子は、痴呆のように呆然としていた。
娘の美華を送りだして以来、この夫婦は悪魔に魅入られたかのような激しい虚脱感と手の打ちようのない焦りの中にいた。
そして、この差出人のない封筒の中の物が警察に知れれば、全てが終わることを誰よりもよく分かっていた。
苦悩と恐れは、昨日の夕刻、山城が十日間の出張から自宅に戻った時から始まった。
 塀に囲まれた二階建ての自宅は、五年前に市内から転居購入した物である。
 雑多な市内を遠くに見渡し、静かでいてなお生活に便利な周囲の環境も気に入って購入したのである。

昨日の午後。
山城はチャイムを鳴らしたが、妻は明日から合宿に出かける娘の買物にでも出かけているらしく、迎え出る者はいなかった。
「いないのか」と呟くと、門扉脇の郵便受けを覗き、中の数通の封書を取り出して家に入って行った。
自室で土産物などの旅装を解くと、
「相変わらずいろんな物が来るんだな」と言いながら、几帳面な山城は全ての封書に目を通し始めた。
ほとんどがダイレクトメールである。
一番最後の封筒を手に取って山城は小首を傾げた。
その封書には差出人がなかったからだった。
「どこからかな?」
封を切った山城の足元に何かが滑り落ちた。
それは丁寧に折り畳まれた手紙の中から落ちた物であった。
「写真か」
拾い上げた山城は、さすがに男であるらしく、それを見てニヤリとした。
だが、その目は瞬時に大きく見開かれ、その口から驚きとも絶望とも取れる声が漏れたのである。
それは、一人の若い女と、体格の良い男の情交の写真であった。
山城も、成人向けのビデオや雑誌の新手の営業方法と思えるこのような写真やカタログが、時折り郵便物として届けられることは知っていたし、年頃の娘を持つ親として、眉をひそめる妻の気持ちも分からないわけではなかった。
しかし、それだけならば、驚愕ともいえるほどの表情はしなかったはずである。
 山城は、全裸で組敷かれた女の右の口元にある大きめのほくろを食いいるように見ていた。
そして山城は、一人の女の名を叫んだのである。
「舞子!」と…。
彼は、その写真をテーブルの上に投げ出すようにして手紙を乱暴に開いた。そして読み始めたその顔は、先ほど以上に引きつり硬直していた。
何時間が経ったのだろうか、買物から帰ったらしく、階下で妻の声がした。
「あなたお帰りでしたの。ごめんなさい。すぐお食事の用意をしますから」
山城は、妻・舞子の声に「ああ」と一言だけ応えると黙りこくった。
娘の戻る時刻であったのだった。
 明日は、高校生活最後の合宿に行く娘の為にも、今、妻に切り出すことは出来なかった。

物音一つしない部屋の、言いようのない沈黙を破ったのは、
『プルプルプル…、プルプルプル…』との、時間をわきまえない電話であった。
二人は、忌まわしい呪文がさらに増幅したかのように全身を「ビク」と震わせ、互いに顔を見合わせた。
『プルプルプル…、プルプルプル…、プルプルプル…』
深夜の電話は鳴り続けた。その音は、二人を襲う不気味な、まさに恐怖の響きを与えた。
山城は、受話器を恐る恐る取ると、ゆっくりと耳を近づけ、言った。
「…もし、もし…」
「山城さんだね。写真と手紙は見ていただいたようですね」
その声は、山城のそれとは対照的に落着き払ったものであった。
「ど…、ど…どなた様ですか…。一体何のことでしょう」
山城は、意味もない言葉を震える声で呟いていた。
 先方は、そんな彼にはお構いなしに続けて喋った。
「五千万だ。昨日送った写真と、もう少し詳しい奥さんの全てが写っているネガを買い取って貰いたいんですが。断わることは出来ないはずですね?」
電話の声は抑揚のない、冷たく、そして有無を言わせない語調であった。
「あんたは誰なんだ! 何の為にこんなことを! 私には覚えがない」
 山城の声はうわずっていた。
「山城さん。私を怒らせないで下さいね。しらを切っても無駄ですよ。私が、証拠のあの写真を警察に見せ、あの晩の出来事を話せば、今までの苦労が水の泡になるんじゃないですか? あと四ヶ月で時効ですがね。五千万円で、あなた方家族三人が今まで以上に安泰で暮らせるんですよ。かわいいお嬢さんを不幸にさせても良いんですか?」
「…」
「私も十五年待ちましたから、ついでにあと二日ほど待ちましょう。十二月十六日の午後六時が期限です。三時に、あなたの携帯電話に連絡を入れますのでその指示で動いて下さい」
「待ってくれ! そんな大金が右から左にすぐには用意が出来ない」
「もう一度言います。二日後・十六日の、午後八時が期限です」
「ま…待って…」
「あなた!」
山城の耳に妻の悲鳴がわずかに残り、彼自身の言葉の途中で、電話は切れた。 山城は、『ツーツー、ツーツー』との通信音を発する受話器だけを、ぼんやりと見つめていた。