エジプト
〜愛と野望のナイル
速見健吾
詩織
ナセル
谷本教授
ミッチェル・ウッド 古物商ウッド商会社長・暗黒街の顔役 フランス人
シャリ・アブ ワールド社社長 エジプト人
ラルフ シャリ・アブの法律顧問でドイツ人
ムスタファ ナセルの村の老人
ソフィア 古物商ウッド商会の事務員
第一章
黄金の杯
不思議な夢に導かれるがごとく古代の王妃アンケセナーメンの岩窟墓を発見したのち、その岩窟墓を襲った突然の落盤からからくも脱出した日本人民俗学者・速見健吾とその妻・詩織。そして日本を代表するエジプト学者・谷口とエジプト人タクシードライバー・ナセルの生き残った四人がアスワンにほど近いヌビア砂岩の谷を去ったのち、ヤグルマギク(矢車菊)が見おろす王妃・アンケセナーメンの岩窟墓は、すっかり形を変えたものの再び長い眠りにつこうとしていた。
岩窟墓と、この地を襲った凄まじい地震は、ナセルの故郷の村・カルガ村の日干しレンガで建てられた粗末な村人の住まいを倒壊させ壊滅的な被害を与えた。
村人の数十人がその犠牲となり、悲しみが村を支配していた。
だが、日中の惨事であったことが不幸中の幸いであった。ほとんどの住人は屋外で立ち働き、それが多くの住民の命を救ったのだ。
悲しみの支配する中、村人が後始末に追われているのを尻目に、一人の老人がヤグルマギクの谷にゆっくりと歩を運んだ。健吾たちが日本に帰国し、ナセルもカイロに戻ったわずか五日後のことである。
老人は、日がな一日することもなく、ナセルの村でも鼻つまみと言える存在の男で、家族もないこの老人ももちろん日干しレンガの粗末な家で暮らしていた。
しかし、この世の中は不公平がまかり通るとみえて、老人の住む掘ったて小屋は、わずかの家財道具が散乱しただけで倒壊は免れたのである。
老人は谷を見おろして呟いた。
「へ、こりゃひどいわい。谷の様子がいっぺんしておる。皆の集が楽しみにしているお参りも来年からはできないわい。ま、わしには関係ないがな」
老人の言うようにヌビア砂岩の岩山は、いたる所に亀裂が入り、崩れ転げ落ちた大小の岩石が谷を埋め尽くしていた。
谷は、つい数日前までの面影は一つない、まさにがれきの山としか思えない姿に変わっていた。そんな谷を眺める老人の目に、半ば埋もれた谷底で何かがキラリと光った。
「ん? なんだ?」、頭上の太陽が目を凝らす老人に強い興味を届けた。
足下もおぼつかない老人は、ゆっくりと谷に降りると、注意深くそのきらめきの元を探し始めた。そして一抱えほどもある岩の陰に目指すものを見た時、我とわが身を疑った。
生まれて以来このかた、学も金も身につけたことのない男であっても、それが何であるかくらいは分かりきった事だった。
老人がそこで見たものは、陽炎が立ちのぼる砂漠の陽に照らされて、キラキラと輝く一個の黄金の杯であった。
「こ、これは! な、なんでこんなものが…?」
老人は薄汚れた手で拾い上げてながめ回し、次にキョロキョロと当りをみまわした。が、すぐに我に帰ったように手と同じほど薄汚れた長い着衣の下にすばやくそれを隠し、普段の彼らしくない急ぎ足でわが家に立ち戻った。
「こいつは凄い物じゃ!」、粗末な我が家で感嘆の声を上げながら改めて杯を見つめる老人の黄色に濁ったその目と口元は、極上のものを得た喜びで満ち溢れていた。
それはたぶん、この老人の生涯で一番の至福の瞬間であったかも知れなかった。
その後の二日間、老人は谷に通い詰め、そして三日目に住み慣れた故郷から姿を消した。
だが、村人の誰一人として老人の動向に関心を持たなかったことは言うまでもなかった。
老人が、人知れず故郷を離れた丁度その頃…。
貧困であえぎ、日々の暮しにも事欠く痩せこけた女と子供たちがうろつくルクソールの裏町にある粗末な食堂に人相の悪い六人の男たちがたむろしていた。六人の男たちは水パイプを回し飲みしながら額を寄せあって、なにやら囁きあっている。
共に目つきの悪い、いわば地元のごろつきと思われ、ここはたぶん彼らのたまり場なのであろう。
「アリ、俺はこれ以上あそこには近づきたくはないぜ! 命あってのものだねだ」、ぎすぎすした神経質そうな男が擦り切れあかじみた衣類の袖を振って呟いた。
「なあ、ラシードおめえはそう言うが、いま俺は命を懸ける価値があると思っているがな」。
アリと呼ばれた人一倍人相の良くない男が、ラシードと四人の男たちにせせら笑うように言った。
「…だ、だけどよ。兄貴…。俺たちの雇主はあれっきり姿もみせねえ。あの墓穴で埋まっちまったに違いねえ。奴ら何にも教えてはくれなかったが、あの墓はツタンカーメンに関係があるに違いねえと俺は思う…」
「アリ。たしかにおめえの言う様に、俺もあの時そう思って逃げだした。呪いだとな…。だがな、しばらくして思ったんだが、あの時一緒にいた日本人たちは何事もなかったように日本に帰ったと聞いた。なあよく考えてみろ…」
「考えるって…、なにを…」
「あほう! おめえは字が読めねえから分からないとは思うが、なんで新聞にあの事が載っていないと思う。載っているのは地震で村がぶっこわれたことだけだ。少なくとも三人の人間が消えてしまったというのにだぜ!」
「…」
「奴ら…公にできない何かを掴んだに違いねえと俺はふんでるがな…」
「だけどよ…アリ。たとえそうでも、谷は地震ですっかり様変わりしてしまって墓穴がどこだったか分からねえ」
ラシードが言うように、王妃・アンケセナーメンの谷は崩れ落ちたヌビア砂岩で埋め尽くされ、それまでの面影はまったくと言っていいほどになかったのは周知である。
「アリ。あんたが言うように、“あいつらがお宝を見つけていた”としても、その場所が一体どこなのか分からんし、どうして掘るんだ? あの調子じゃ機械が必要だぜ!」。
仲間の一人が、したり顔で意見を言った。
「うむ…たしかにそうだが…」。
アリにしても、隠密裏に事を運ぶにはあまりにも多くの問題点があることを認めないわけにはいかず、眉間に深いしわを刻んで言った。
仲間の一人が言うように、膨大な量の砂と岩を取り除き、隠された秘密の入り口を見つけるのは容易なことでないことはアリとて分かっていたし、ろくでもなしの男たちには、言うまでもなく手に余る仕事のはずだった。
金のためなら人殺しでも辞さない雰囲気を漂わせた物騒な男たちは、それから三時間ほど額を寄せあっていたが、やがて何事か名案が浮かんだかのような顔つきで、散散午後に散って行った。
当然、このような事が話されていたことなど、彼ら六人以外誰も知らなかった事は言うまでもないが…。
姿を消した老人は、生まれて初めて故郷・クルガ村を離れてアフリカ第一の都市・カイロのメイン通りをそわそわと歩いていた。
「たしか、この当りと聞いていたが…お、ここか! あったわい」
足を棒にしてやっと見つけ出した目的の建物のその豪華な作りを見つめ、老人は満足げに呟いた。
老人の故郷の住まいの床ほどもあるショウ・ウインドウを持つこの店は格式張り、痩せこけて貧相な異邦人のような老人が立ち入るような雰囲気の店ではなかった。が、いま彼は我が家のように堂々と、重々しいドアを開き中に入って行った。
さも高価そうな骨董品や貴金属が並ぶショー・ウインドウの上には、アラビア語とフランス語。そして英語で“古物商・ウッド商会”と書かれていた。
一週間後、雑多な旧市街のそのまた裏通りのうらぶれたアパートの一室で一人の老人の死体が管理人によって発見された。
この国では国民の所得は決して高くはない。このアパートも低所得者やその日の暮しにも不自由な人々のふきだまりともいえる粗末なつくりのものであった。
“すわ事件か”と、急を聞きつけた警察官も、周囲の環境と同じほどにみすぼらしい身なりの痩せこけた死体を一目見るなり、冷淡とも言える言葉を残して救急車に後を任せて引き上げた。
もちろん二〜三日後ではあるが、地域の住民に対して、暮しに困った身元不明の老人が病死したとの連絡がなされただけで、新聞にも掲載されることはなく、一人の老人がこの世から消えた。
だが、この老人の死が、やがて遠い異国の地で暮らす一人の民俗学者の運命をも左右し、さらにこの国の経済はおろか、中近東で鉄壁の軍事力を誇るエジプト軍の中枢をも脅かす大事件につながるとは“神のみぞ知る”出来事であった。
カイロの新市街は、旧市街の町並みとは隔絶されたような近代的な多くの外資系のビルやホテル、各国の航空会社が立ち並び、まさにヨーロッパの都市とみまごうほどの、整備された都市である。
こうしたビルの一つであるコングロマリット(複合企業)の勇であるワールド社は、地下二階、地上四十階建ての巨大なビルで、この辺りでももっとも高く辺りを聘睨するかのごとくメインストリート十五番地に建っている。
高さ百二十メートルに及び、朝日に反射する総鏡貼りの外観は、伝えられるかつてのピラミッドのように威厳があった。
今、いまこの最上階の豪華な部屋と同じほどの、柔らかく高価なソファーに三人の男が何やら密談とも言える最中であった。
「…私には信じられないのだが…それが事実なら、今ごろは世界中がそのニュースで湧きかえっていそうなものだ」
一目でアラブ系と分かる顔つきの恰幅のよい男が口を“ への字”にし、腕組みして言った。
その口調は、対面のヨーロッパ人に対して疑惑を隠さないものではあったが、あからさまの態度といった風ではなかった。
腕組みする男の名は、シャリ・アブ。この巨大企業の経営者であり、世界の富豪の十指に数えられる人物である。
シャリ・アブは続けた。
「君もここでは名の通った人物で情報も入り易いはずだ。そこのところをどう考えるのかね?」
「あなたが不審をもたれることはよく分かります。が、これもそんじょそこらの物ではないことはおわかりでしょう? これが入手された場所の存在がまだ考古庁に入っていないだけだと思いますがね」
ヨーロッパ人も負けずに言い返した。
ヨーロッパ人の名は、ミッチェル・ウッド。フランス生まれの名の知れた古物商である。
だが、表向きはその看板を掲げてはいたが、彼はもう一つの顔を持つ男でもあった。
もちろん、それが何なのかを知る人間は、ここにはいない。
美術品の収集家としてのシャリ・アブは、目の前のこの四十才すぎのどことなく陰のある金髪の美男氏の名は以前からよく耳にしてはいたし、特に最近は、この古物商の男から好事家なら喉から手が出るほどの古美術品の世話を受けることが度々あった。事実今も、今までシャリ・アブが目にしたこともないほどの杯がテーブルの上に置かれている。
だが、そのワイングラス様の杯はただの杯ではなかった。
「実に素晴らしい物だ。金に糸目はつけないが、なおさら君の言う出所が少々気になってね」
シャリ・アブは、テーブルの上の杯にゆっくりと手を差し伸べると立ち上がって窓辺に歩み寄り、言葉を続けた。
「だが、実に素晴らしい。この眩い輝きを見てくれ!」
シャリ・アブが分厚いガラス越しの太陽にかざした杯は、ある輝きを増した。
彼が唸った訳は、この杯が太陽のごとく輝く純金の杯であったからである。
「シャリ・アブさん。いかがですか…太陽神・ラーの杯のようでしょう?」
金髪の古物商は、ニヤリと薄い唇を歪めて言った。
シャリ・アブは、その声を背に聞きながら、ヨーロッパ人のもたらした美術品を、さもいとおしそうに撫で回しながら振り向いて尋ねた。
「ここに書かれている文字と絵の意味は。意味は何かね?」
シャリ・アブの目は、輝く杯に書かれた古代の文字・ヒエログリフと、ある花の文様に移っていた。
透かし彫りの文様はキク(菊)が咲き乱れているものだったが、入り交ざる紋様は、古物商のミッチエル・ウッドでさえも初めてみる細工文様であり、また形式だった。
「シャリ・アブさん、それがこの杯の価値なのですよ!」
ミッチエル・ウッドは先ほどの表情で応えた。
「じらさずに言ってくれ!」
「分かりました。その杯は、例のツタンカーメンに縁のある貴婦人の物ですよ。王妃・アンケセナーメンの使用した杯ですよ…」
「ツタンカーメンの妃・アンケセナーメン! まさか!」
シャリ・アブの驚きは当然である。
エジプト新王国時代で最も有名なファラオ・ツタンカーメンを始めとして、三人の王の寵愛を一身に受け、やがて歴史の舞台から消え去った謎の王妃の墓はいまだに未発見であったからだ。
「ええ、そのまさかですよ。これが発見されたのは、王妃・アンケセナーメンの岩窟墓と思われます。そしてこれはほんの一部のはずですよ!」
「一部と言うと、こうした物がまだあると言うのかね?」
「ええ、山ほどあるはずですよ」
「…うん…。詳しく話してくれないかね。それによっては、私も考えないわけではないが…。たしかににこの杯は、かつて見たこともないほどの見事なものには違いはない。が…、ラルフ。君はどう思うね?」
「そうですね…彼が言うように、これがあった谷の存在が発覚していないだけのことかも知れませんね。この杯と、刻まれている文字の意味を考古学者が知れば黙ってはいないでしょうしね」
ラルフは、テーブルの上に戻された黄金の杯と、大きめの地図と新聞の切抜き、を見て答えた。もちろんラルフは、古代エジプトに造詣が深く、何の造作もなくヒエログリフをも判読できた。
新聞記事は、丁度二十日ほど前のアスワンでの大規模な地震災害の模様が書かれていた。
意見を求められたラルフはドイツ人であるが、シャリ・アブの法律顧問であり、シャリ・アブが最も信頼する男だった。
「なるほど…。考古庁か…。しかし、厄介な事になった場合は…」
シャリ・アブは慎重な男だった。それゆえ信頼するラルフの言葉にも、一抹の不安を覚えていた。
「社長!」
古物商・ミッチェル・ウッドが膝を進めて促した。
数分の沈黙がシャリ・アブを押し包んだ。が、やがて彼はおもむろに口を開いた。
「…分かった。話しに乗ろう。金は出す。が、人の手配は頼む」
「言われるまでもなく!」
ミッチェル・ウッドは応えると先程来の話しを更にこと細かく説明し始めた。
それから三時間後…。
金髪の男・ミッチェル・ウッドは豪華な部屋を後にした。
「ラルフ。彼を本当に信用できると思うか? 話しが甘すぎると思わないか」
「ええ…私も最初は疑心暗鬼でしたが、話しは信用してもいいでしょう。ただ、人間としては信用はできないことは言うまでもないでしょうが。しかし、叩けば幾らでもほこりの出る男でしょう。あの黄金の杯を持ち込んだ老人はたぶん死んでいるでしょう。そんな危険な話しを持ち込むのですから、間違いはないと…」
「分かった。ラルフ、明日にもルクソールに飛んでくれ。奴のいう裏付けを取るのだ。私は政府筋に交渉をする」
シャリ・アブの指示に、金髪碧眼のラルフは軽くうなずくと、何事もなかったかのように市街を一望に見渡せる部屋から出て行った。