第二章
消えた女
翌日は、早朝からバケツをひっくり返すという表現がもっともあった天気だった。
「残念だね…」
寝室の窓ガラスを、猛烈に雨が叩いている。
この滝のように降る雨では、優しそうな色とりどりの花びらは窓と同じように叩かれ、散り、根本から折られているに違いない。
「仕方ないわ…そろそろ梅雨ですもの。また行けるわ…」
夫に明るく言いはしたが、心なしか残念そうな志帆だ。
無理もない。心待ちにしていたせっかくの休日だ。
「出雲市にでも行ってみようか? 映画もしばらくは見てないんだろ?」
並木も志帆の気持ちがよく分かり、気晴らしにでもと水を向けた。
「ううん。今日はいいわ。あなたも久しぶりのお休みだもの。ゆっくりなさったら?」
志帆は、夫がやりたいことは先刻承知のように微笑んで言い返した。
その折、階下でベルがなった。食堂の電話だ。
二人は顔を見合わせた。並木も志帆も、早朝の電話は経験からしてあまり歓迎する内容ではないことを知っていたからだ。
おまけにこの天気だから尚更だ。
「誰かしら…?」
志帆は呟きながら階下に降りたが、しばらくするとその妻の嬉しそうな声が並木の耳に届いた。
「あなた! 大次郎さんよ!」
大次郎…。フルネームは、小暮大次郎。つい二日ほど前に、並木に電話をくれた大の親友である。
木暮大次郎は、警視庁捜査一課…、別名ー桜田門の警察官だ。
はやく言えば、泣く子も黙る殺人課所属の警部である。そして、志帆の従兄である。ようするに、大次郎の父と志帆の母は兄妹なのだ。
さらに、木暮と並木は大学時代からのつき合いで、お互いが結婚した現在でも「おい」とか、「お前」と呼び合う仲だ。
そんな木暮を見ると、並木は(なるほどな、…と)、感じることしばしばある。と言っても、並木自身と木暮ではない。
妻・志帆と木暮である。お互いに正義感が人一倍強いのだ。といっても志帆の優しさは正義感以上だが。
もっとも、木暮はいかにも警察官らしくがっしりした体格で、男臭さがぷんぷん臭うような男だ。志帆の華奢な体型とはだいぶ違うし、顔つきも全然違う。
そんな小暮は、志帆のことになると相好を崩す。ついで並木に良くこう言う。
「なあ、並木。お前さんは運がいい男だな。こんな別嬪を貰って。なにせ、母親似だからな! しほちゃんは」
並木は、子どもの頃の志帆のことを小暮から色々と聞いている。
一人娘の志帆は、近所に住む木暮の後を、
「おにいちゃん。おにいちゃん」と、よくついて回っていたことや、男の子にまじって遊び回っていたことなどだ。今の上品な志帆からは想像もできないが。
木暮にしても、兄弟だけで妹はいないから、なおさら可愛がっていたのだろう。だから今でも木暮は、「しほちゃん」と呼ぶし、志帆も本人だけには「おにいちゃん」と、言っている。
「よう。並木! この前は忙しいのに悪かったな! 元気か?」
相変わらずの大声だ。電話は、雨が激しく叩く窓のそばにある。おまけに並木の愛犬が棲むトタン葺きの犬小屋に降り注ぐ音がうるさいくらいだが、それでも全く支障がないほどよく耳に届いた。
「やあ、どうした? こんな朝早くから。ま、君の突然には慣れているけどね。ところで、東京の天気はどうだい? こっちは大雨だよ」
「東京か? たぶんいい天気だろうよ。俺が出かけるときも三十度を越えていた」
「?」
並木は、小暮の言う意味がよく飲み込めなかったが、
「おいおい、まさか島根に来ているんじゃないんだろうね?」と、小暮に負けないほどの声で訊いた。
並木の側で、志帆が(相変わらずね…)と言うような顔で二人の会話を聞いている。
「ハッハッハッ、そういうことだ! ゆうべの夜行で、今着いたとこだ。出雲市駅だよ」
「なんだ。来るなら昨日にでも連絡をくれればよかったのに。しかし、丁度よかった。今日は何の予定もない」
小暮はそれに何やら応えたようだ。
「あきれた奴だな。じゃあ、迎えには行かないが、待っているよ」と、並木は電話をおいて笑っている。
志帆も、「大次郎さんたら、全くしょうがない人ね」と、これも又あきれ顔である。
しかし、並木と志帆は“あきれた男”である小暮大次郎を、誰よりも大切な人間と心底思っていたし、小暮にしてもこうした事が言えるのはこの二人だけだった。
小暮が、並木宅に足を運んだのはその日の夕刻だった。
「お、並木。すまなかったな。思ったより時間がかかってな。はい。志帆ちゃんお土産だ。しかし、いつ来ても田舎はいいな」
小暮は、並木の書斎に通されると、豊かな緑が広がる窓の外を見て言った。
この時間になってやっと雨は上がり、並木宅から見る水耕田の緑がいっそう濃く見えた。五月とはいえ、夏に近い東京とは雲泥の差があるからだろう。
ひとしきり家族の近況を互いに語り合った。
そして、今回の来県の目的を促したのは、志帆がもてなしのために階下に降りた後だった。
並木は、警察官である小暮の突然の訪問が、先回話題になった出雲大社や、三瓶の縄文の埋没林が目的ではないことはとうに察していたし、志帆もそうだった。
利口な志帆は、意見を求められたり、絶対必要と思われる時以外は、二人の会話には口を挟むことはない。もちろん二人も、志帆の前では切り出しはしない。
なぜなら、警部の小暮がわざわざ尋ねて来るにはよほどの訳があるだろうし、従兄妹といえども女だ。小暮の関わる捜査のそのほとんどは残忍な殺人事件だったし、聞かせたくない男と女の話題もあるからだ。
「ところで、こっちで事件かい?」
「うむ。まだはっきりそうとは決まった訳じゃないが、疑ってかかってもいいだろうってとこだ。じつはな…」
小暮が切り出したのは、たしかに女の志帆には聞かせたくない内容だった。
「じつはな、昨年の…八月のことだが、日野署の風紀が一人の男を挙げたんだが、調べていくととんでもない奴だった」
「風紀というと、例の…なんだ…売春や風俗関係が絡んだものだろ?」
「まあな。もっとも、最近は女子大生などがよく引っかかる。ひどいのになると高校生や中学生までいて情けなくなるよ」
「だろうね。しかし、それに関わる大人も大人だね。社会批判をする訳じゃないが、子どもがそのまま大人になったような気がするよ」
「そうだな。姿はたしかに大人だが、そういう大人を見て育つ子どもたちもかわいそうだしな」
「…」
「ま、今回は女が悪いわけでじゃないから多少は救われるが、挙げられたのは、三十二歳になる都内出身の男で、直接の容疑は婦女暴行だ。手口は、宅配の配達人を装って押し込むんだが、そのほとんどが真っ昼間だ。それも女子寮などではなく、中程度のマンションが専門だ。あまり高級になると受け付けで止められるからな」
「ふーん。その男一人でやったのかい?」
「いや二人だ…もっとも共犯者は今も逃走中だがな」
「そうすると、君が島根に来たのは、その逃亡している男を追ってきたのかい?」
「いや。俺が知りたいのは、被害者の事なんだよ」
「被害者を? この島根にも被害者がいるのか!」
「ああ、どうもそのようなんだ」
「そのようなんだって、どういう意味なんだ? それに、君が出て来るからには殺人が起きたんじゃないのか?」
「自供が、不自然なんだが、どうも引っかかることがあってな」
「ほう…」
「被害者の一人はすでに死んでいる。もっとも、害者が直接に手をかけた訳じゃないが、似たようなもんだ」
小暮はそう言い、下唇を突き出し、忙しそうにタバコに火をつけた。
この表情と仕草は、小暮が困惑したときや熟慮するときには必ず見せる彼の癖だった。
そして、島根に来る事となった直接の原因である婦女暴行と、自供内容を話し始めた。
だが、その内容は、並木が首を傾げるほどの説明がつかない不思議なものだった。
事件の発覚は…、木暮が言ったように昨年・平成十年の八月…。夏真っ盛りの日のことだった。
事の起こりは、その一年ほど前の平成九年八月十五日だったという。
都下・日野市。盆の最中の八月十五日…。
この年の春に完成したばかりの独身者専用マンションが、多摩川沿いの土手に造られたサイクリング・コースを見下ろすように建てられている。
この時期は、昼はおだやかに流れる川と水際の緑が眼に優し。夜ともなればマンションの各階の明かりが、川面にきらきらと映る。
それが関西出身の美津子や、ここに住むほかの地方出身に、子供の頃に田舎で流した小さな流し灯籠が揺れているような錯覚を覚えさせた。また、川向こうの立川市の夜景が一人住まいの住人たちの孤独感を慰めもしたし、忘れもさせた。
今、世間ではお盆ということで、マンションの住人も大部分が帰省して留守のようだった。
そんな中で、このマンションに住む二十六歳になる美容師・墨野美津子は、つい一週間ほど前に階段から足を踏み外し、足首を捻挫していた。
だから一年のうちでもっとも多忙な時期を勤めにも行けず、ましてや故郷で待つ家族の元へも戻らずにいたのだった。
閑散としたマンションにいると、孤独感とは別の思いが沸々と美津子の心と体に襲いかかった。
美津子にはまだ親しい男友達もいなかったし、美容室の同僚たちも全員が帰省して、彼女の気持ちをいやが上にも滅入らせていた。
普段ならこうした時は、業界紙や女性誌のヘヤー・スタイル記事などに眼を通していただろうが、今日はそんな気分にもなれなかった。
所在なく、美津子はテレビを相手にするしかなかったようで、手元のリモコンスイッチを入れようとした。
その時、チャイムが鳴った。
美津子は、フローリングの床を足を庇いながらゆっくりいざるように玄関ドアに近づき、声を掛けた。
「どなたですか?」
「宅急便ですが」、若い男の声だった。
「はい!」
彼女はその時点で、大きな過ちを犯した。
美津子は座ったまま防犯ドアチェーンを外し、カギを開けた。
普段なら、ドアの覗き穴から外を確認してからそうしたのに…。
だが、立ち上がるのが困難な美津子はそうはしなかった。
身体の不自由さもあったが、二日ほど前に故郷からの電話がそれに輪を掛けたのだった。
それは、美津子の田舎から、“お盆のだんごの粉”を宅急便で送ったとの
内容だった。美津子の故郷では、お盆には“だんご”を作るのが習わしであったからだ。それはなんと皮肉な偶然だったろう。
「ご苦労様です。今開けます」
美津子が来訪者に告げるより早く、鋼鉄製のドアがさっと開いた。
そして、声を上げる間もなく二つの影が内部に侵入するやいなや、美津子は口を押さえられ、押し倒された。
それからの三時間は、美津子にとって生涯忘れ得ない地獄だった。まさに悪夢としか思えない出来事だったろう。
粘着テープで強く塞がれた美津子の口からは声一つ漏れ出ることがなく、涙でくしゃくしゃの恐怖でおののく眼に映るのは、交互にのしかかるサングラスで隠された二人の男の顔と、ポラロイドカメラのフラッシュの光りだけだった。
やがて、欲望を吐き出した男達は、美津子の生活が完全に窮乏することを好まないかのように、引き出しの中の十数万円あった金から数枚を抜き取り、侵入した時以上の素早さでその場を離れた。
そして、野獣の行動としか思えない暴力と理辱の限りを尽くし終えた男二人が放心状態の美津子の前に置き去ったのは、一枚の撮られたばかりの写真と脅迫の言葉だった。
「人に喋れば、あんたの勤め先と実家に同じ写真が届くだけだ!」
美津子の耳に、低く吐き捨てられた言葉がこびりつき、宙を漂うその眼には無惨な自分の裸体だけが焼き付いていた。
美津子は何度、故郷に帰ろうと思い悩んだか知れない。また、幾度も警察の前まで足が向いたか知れない。
だが、美津子は帰ることもなく、警察署の玄関をくぐることもしなかった。
自分の店を持つまではと、今まで辛抱してきたのである。勤務する店の待遇も満足できるものだったし、彼女はただがむしゃらに働くことで事件を忘れようとした。
だから、足の捻挫の完治と心と体の傷が癒えるのを待つことなく、事件の三日後には、やっと住み慣れ始めたマンションから美津子は逃げるように荷物を運びだしていたのだった。
美津子は、住まいを人のあふれかえる新宿に移した。
今度の住まいは、厳重にセキュリティが施されたマンションだった。
そして、美津子が引っ越してから一年が、何事もなく過ぎていた。
相変わらず、恐怖は残ってはいたが、やがては忘れ去る事ができるだろうし、また忘れなければならなかった。
だが、男たちは決して忘れてはいなかった。それどころか、再び美津子の眼前に現れる時期を待っていただけだったのである。
さらに、男たちの餌食は美津子だけでなく他に十三人もいたのだった。
男たちが有り金のすべてや貯金通帳などを奪わず、また一年も美津子に関して行動を起こさなかったのは、いわば彼らの常套手段で、したたかな計算でもある事などは美津子には想像すらできなかったのは無理からぬ事だったろうが…。
七月…。
ぎらぎらと照りつける太陽で熱せられた舗装道路と、車の排気ガス、そして林立するビルから吐き出される冷房の熱が東京をうだるような暑さにしていた。
高円寺の美容室「エルゼ」から、新宿・花園町のマンションに戻った美津子が、思い出すのもおぞましい事件が終わっていないことを知らされる事になったのは、その日からだった。
「帰りました」
美津子は、玄関先の管理室に、戻った挨拶をした。
ホールの冷房の冷気が何とも心地よかった。
「お帰りなさい」
何かと親しくしている管理人の言葉に送られて、彼女は壁際の郵便受けを覗くと一通の封書と一枚のハガキを取り出し、ハンドバックに入れて自室のある五階に向かった。
このマンションは、配達物も郵便局から来るものだけを手にする事ができるし、部外者が立ち入ることができないチェック機能を持つマンションなのだ。
決して安くはないマンションだが、主の帰りを待っていた西日が当たっていた部屋は、さすがにムッとくるほどの暑さが残り、廊下で冷やされた身体が、再び屋外の状態に戻っていた。
美津子は、コンクリートの塊だけが見えて、眺めは決して良くはないが、それでも心が落ちつく部屋の窓を目一杯開け、熱気を追い出した。
冷房のスイッチをオンにした部屋は、直ぐに一息着くことができる温度になり、ソファーに腰を下ろした美津子は、ハンドバックから封書とハガキを取り出して、差し出し人の名を確認した。
一通は、懐かしい母からだった。そして、ハガキは花園郵便局からのもので、郵便小包の不在通知だった。
「何かしら?」
ここの住所を知っているのは家族と同僚だけである。一瞬、妙な胸騒ぎに似たものが胸をよぎった。
だが、(明日に郵便局に行けば分かることだ)
美津子は、そう思って母からの手紙を読み始めた。
内容は、『足の調子はどうかとか、正月も盆も帰らなかったし、元気でいるか?』といったかわりばえもしないものだったが、癖のある筆跡は、母の温もりを十分に美津子に伝えていた。
美津子は、昨年と今年は帰郷しなかったが、あの事件以来、わざと田舎を遠く思おうとしていた。
矛盾するようだが、ここで田舎に帰れば二度と自分が立ち直れないような気がしていたからだ。美津子は、二度ほど読み返し、そっと折り畳んで引き出しにしまった。
その後、残された官製ハガキに目を向けたが、なぜか美津子には、不吉な予感を拭うことができなかった。
翌日の火曜日。
マンションから五分も歩けば、郵便局がある。
郵便物が、幸せを届けるだけではない事は誰でも承知してはいる。しかし、美津子に届けられたのは、まさに不幸そのものだった。
彼女の予感は当たったのである。
人目を避けるように小箱を開けた時、美津子はめまいを覚えた。
「ガシャ」と、いやな音がして小箱は足下に落ちた。拾い上げる気力もなかった。
「落ちましたよ」、
誰かがそう声を掛けた。
そこまでしか美津子は覚えてはいなかった。
どうしてマンションまで帰ったのか、又、どれくらい自室でしゃがんでいたのかまるで覚えてはいなかった。が、目の前には、ひしゃげた小箱があった。
おそるおそる手を伸ばして中のものを取り出した。
それは、忘れるはずのないポラロイドカメラであった。
そして、一枚のメモ書きが伴われていた。
美津子の生活が一変したのは、それからわずかな時間だった。
彼女は、再び居を変えていた。そして、勤め先の美容室も辞めていた。
夜の勤めも転々と変わった今、彼女は、電話もない古ぼけたアパートの一室で、目の下に青黒い隈を作り、亡霊のように変わり果てていた。
男二人は、美津子の一挙手一投足をこの一年間、静観し続けていた。そして行動を起こしたのだった。
脅迫が始まっていたのである。
美津子はメモ書きの指示通り、最初は十万円で一枚の写真を渡された。次は二枚の写真で五十万円だった。値段はその度につり上がった。
やがて、貯金は底をつき、残された道はサラ金だけであった。
そして今、彼女の元には五百万以上に上る借金と、逃れられない脅迫だけが重くのしかかっていた。
ほんの一ヶ月の間に、今まで築きあげたすべてを美津子は失った。
そして、彼女の返済能力が完全に失われた時、男はその姿を現した。
指定された場所は、あの多摩川土手に建つ、マンションの屋上だった。
この日は、美津子が人生を狂わされた日から丁度一年目の真夏の事だった。
「そろそろ許してやる。その代わり、お前の知り合いの一人暮らしの女を教えろ!」
男がそう言ったとき、美津子は怒りを覚えるより先にふと遠い昔を思い出した。
それは、美津子の中学生時代に流行っていた手紙のことだった。
美津子の顔に表現できぬーそれは自嘲に似たー表情が浮かんだ。
(どうしてこんな事を思い出したんだろう…。まるで不幸の手紙だわ)とでも取れるような…。
そして彼女は、突然走り出した。美津子の向かう先は、すべてが終わる死のダイブだった。
美津子のぼやけた視界に映ったのは、かつてよく散歩した、緑覆い茂る川沿いの小道だけであった。
そしてその日は、サイクリング・ロードも川沿いの小道もすべてが陽炎で燃えていた。
婦女暴行犯・上杉博司は、三十分後、緊急配備の網に捕らえられた。
墨野美津子の落下と、必死の形相でマンションを走り去る一人の男を、夏休みを川縁で楽しむ家族連れや、サイクリストの多くが目にしていたのだ。ビルが林立する市中とは異なる場所である。上杉が逃げおおせるわけはなかった。
「なんという…むごい…」
並木は、ついぞこのような話しを聞いたことがなかった。
「ああ、…かわいそうにな、ひどいもんだよ…」
残忍な事件には慣れているはずの小暮も、そう呟くと固く口を結んだ
しばしの沈黙があった。
「墨野美津子は…思ったんだろう。体力ではかなわないし、ここで上杉に逃げられれば二度と奴に復讐もできない。もし奴が捕まっても恐喝と婦女暴行だ。自分を犠牲にしてでもとな…」
と、小暮は、墨野美津子の話しを終えた。
「そうか…そうだったんだろうな…」
「そればかりじゃない! まだ犠牲者がいるんだよ。本題はこれからだ!」
小暮はやりきれない表情と声で言った。
それが、小暮を島根に呼び寄せた謎の出来事の発端であり、かつまた序曲でもあったのである。しばしの沈黙があった。
「小暮、そろそろ食事だろう。志帆がせっかく君のために腕を振るってくれる。話しは後だ。これ以上聞くと、お通夜になってしまう」
並木は、小暮を誘い階下に降りていった。
食堂では、夕餉の支度を済ました志帆がニコニコと笑顔を隠さないで二人を待っていた。並木宅は世間並みの生活をしてはいるが今日のテーブルの上は豪華版だ。
「お、すごいな! 親父が志帆ちゃんの料理は文句の付けどころがないと言っていたが、本当だな。おい、並木。お前は幸せ者だぞ!」
「それに…でしょ? ね、大次郎さん?」志帆が、嬉しそうに茶化した。
「そうそう!」
木暮は、テーブルの上の料理と志帆を覗き込み、並木に片目をつむって見せた。
「おいおい。二人とも何を言っているんだ。まずは乾杯だ!」
並木も笑いをこらえ、殊勝な顔で席に着いた。
食事時間(?)は深夜まで続いたが、木暮も並木も、つい先ほどまで話し込んでいたことなどとっくに忘れたように、事件のことはおくびにも出すことはしなかった。また、木暮はビールをなみなみと注いでくれる志帆に対しては、子供の頃に舞い戻った調子で笑いを引き出して楽しんだ。
「なあ、志帆ちゃん。並木は堅物かもしらんが、なかなかこんな男は見つからんぞ。それに並木。お前さんも身体には気を付けろよ。研究だけが仕事じゃないからな」
「うむ。ありがとう。でも僕のことを心配する前に、君こそな…」
並木と志帆は、警察官である木暮のことを、彼の妻と同じほど気に留めている。
そして、言うまでもなく木暮にしても二人に対する思いは同じだ。
警察白書によると、東京都内だけで年間に起きる自殺者・他殺・災害事故者などの死亡事件はおよそ四万件〜五万件にも上り、その中で、「一割強が他殺を含む変死者」だという。
つまり、変死という異常な死を迎える人間が、一日平均にして十名以上ということである。
とりもなおさずこの事実は、木暮たち警察官を休ませることのない過酷な勤務が絶えず待ち受けていることである。長年の付き合いである二人はそれをいつも心に留めていたからだった。
もちろん木暮は、そんなことを口にするほど柔な男ではないが…。
時計を見ると十時を回っていた。
「志帆ちゃん。遅くなるといかん。片づけ始めてくれ。なんなら皿ぐらいは洗うよ!」木暮は、志帆にはあくまでも優しい。
「大丈夫よ! それに、お食事前のお話がまだ終わってないんでしょ?」
「うん? あ…それはそうなんだが…」木暮は並木を見た。
「かまわんだろう」と、並木。
「話にくいことなら別だけど、私も役に立てることがあるかもよ…」
志帆には、二人がお見通しのようである。
木暮の口が尖り開かれた。
「なら言うが、墨野美津子が死んだのは、上で話したように上杉ともう一人の男。名は竹見貢というんだが。二人が殺したようなもんだ」
「だろうね」
「連中が、被害者たちをすぐに脅迫しなかったり、有り金を残らず盗らなかったのは、襲った相手の出方を見るのと同時に順番に脅迫していたからだ。搾れるだけ搾り取って、取れなくなると相手を変えた。行き当たりばったりの押し込みじゃないから次の獲物がどういう人間かがよく分かるからな。全くずるがしこい…いや、鬼みたいなもんだ」
「そうすると、被害者は一人や二人ではないね」
「ああ。現在までに分かっている人数は、死んだ墨野美津子を含めて十四人にもなる」
「なんと言っていのか…」、並木は世も末だといった顔つきで首を横に振った。
「なんともしぶとい奴だが、最初は暴行の事実も否認していた上杉も、へたをすれば殺人の罪に問われることを恐れてやっと自供し始めた」
「…」、並木は無言で頷いてる。
「その自供の中で、何とも奇妙なことを言うんだよ」
「奇妙な?」
「そうだ。死体を見たとな」
「美津子とかいう女性の他にも、犠牲者が?」
並木は、流し台に向かう志帆をちらっと見て訊いた。
「そうだ。脅迫されていたうちの一人だ。上杉の自供通り名前も住所も確認が出来て、俺が先月になってそこに行ったんだが、死んだなんてのは真っ赤な大嘘で当の本人はぴんぴんしていた」
「そりゃおかしいね…わざわざなんのためにそんなことを? 自分に不利になる嘘をつくはずもないだろうし…それで、その上杉はその女性が間違いなく死んでいたと言っているんだね?」
「そうなんだよ。上杉の話では、墨野美津子が死ぬひと月ほど前だったようだが…。上杉がその女に連絡を取ったんだが、指定の金どころか本人が一向に姿も声も見せなかった。それで、業を煮やした上杉が錦糸町の女のマンションにでかけたところ、女が死んでいた」
「七月だね? それで?」
「部屋のカギがかかっていない玄関から忍び込んだところ、応接間のソファーの脇で仰向けになって死んでいたというんだ。俺もその状況をだいぶ問いつめたが、死亡していた状況はじつに克明に覚えているんだ。例えば異臭がして、眼を開けたまま鼻から血を流していたとか、首にストッキングのような物が巻き付いていて舌がだらんとしていた。というようなことだ」
「ほう、良く覚えているものだね。どうだろう? 普通なら死体を見れば、悲鳴を上げて逃げ出すと僕は思うが…」
「まあな。だが、上杉たちのような人間なら、割合に冷静かもしれんね。自分が殺したと思われたらやばいからな。しかし、その殺された本人が生きていてはな…」
「なあ、木暮。たとえばだが、鼻から血を出しているような場合は、どんなふうに殺された時なんだ?」 「お前さんも、そう思うか。俺が不思議に思うのは、奴が言言い張る首にストッキング状の物が巻き付いていたというとこだ。絞殺されれば、鼻血がでるんだよ。それに、舌も伸びきる」
「そういう状態で、蘇生は可能か?」、並木は膝を乗り出すように訊いた。
「いや、まず無理だ。ブラック・ジャック先生でもな」
真面目くさった顔と声で、漫画の主人公である有名な医師を持ち出したのは、蘇生が絶対に不可能だと言う意味でもあった。
「それにしても…」と並木は、木暮を真似たわけではないだろうが口を曲げて考え込んだ。
「あり得ない話だが、お前さんもそう思うのか?」木暮も並木も、上杉の自供内容が、あまりにも迫真に迫っていることが気に入らなかったのだ。
「ところで、その時に君が会った女性はどんな人なんだ?」
「井辻美土里か?」
木暮は胸の内ポケットから手帳と写真を取り出して女の名を言い、並木を見た。
写真は、大学の研究室で借りたものだそうで、友人三人と映っている。
「ほう、美人だね。井辻美土里というのか。やはり独身なんだね?」
「ああ。えっと…今年二十六になる。大学院の研究生で奴らが狙うように独身だ。それにこの通りの美人だよ。金もありそうだが、ま、正直言って俺の好みじゃないがな」
「ん? どういう意味だい?」
「何て言うか…人を寄せ付けないというか…信じない…ような感じだな。別嬪だからなおさらだ」
その言葉に、今まで黙々と流しに向かっていた志帆が振り返って木暮を見た。志帆と眼が合った木暮は、慌てて手のひらを横に振った。
並木はそんな二人に構わず訊いた。
「その井辻という女性もやはり、脅迫されていた一人から紹介のようにされたのか?」
「まだそこんところは分からんが…他の被害者もそういうことは言いづらいと見えてな。それに押収した手帳には住所と名前があったが、肝心のこの美土里という女の写真は一枚もないんだよ」
「ないのか?」
「ああ、他の十三人の被害者のは一、二枚は必ずあったが、この女のだけは一枚もない。だから、自供で会いに行きはしたが、話もなにもあったものじゃない」
「ま、喜ばしい話じゃないからね。それにしても、もし脅迫されていたなら犯人が捕まって内心は嬉しいはずだろうから、何らかの態度は示すだろうがな…」
「そんなものは一つもないよ。全く逆の態度をされただけだ。迷惑そうにな。おまけに三日後の四月二十一日に、検証の時点で上杉に面通しをさせるつもりだったが、いないんだよ!」
「いない?」
「ああ! 引っ越して所在不明だ! もちろん大学もやめている」
「それで、その女性がこの島根にいると?」
「そんなことは分からんが、出身地が山陰の仁多郡という所だとまでは判明している。たしか松本清張の小説の舞台だったはずだ。ま、仁多郡についての予備知識はそんなものだが…」
「名前が分かっていて、出身地も明らかならどうにか出来るだろう? 彼女の実家には連絡をしたんだろ」
「それがな。まずいことに今は誰も住んでいないとのことだ。県警に確認を取って初めて分かったんだよ。なんでも五年ほど前に旅行中の母親が焼死したらしい。父親もとっくに亡くなっているしな」
「ほう…そうなると、周辺で訊くしかないのか…」
「そういうことになるな…」木暮は、人ごとみたいに並木を見つめて言った。
並木は笑いながら、
「おいおい、まさか僕を引き出すつもりじゃないだろうね?」と、並木は太平楽な友人に言った。
そして、その返当は、
「おい、志帆ちゃん。志帆ちゃんからも頼むよ」、だった。
木暮が、並木に捜査状況を話したり、意見を訊いたりするのはこれが始めてではない。
もちろん並木は民間人だから、その身に危険が及んだり、彼の口から情報が外部に漏れれば重大な結果をもたらす。
警察の使命は、あくまでも善良な民間人を犯罪から守り、また防止することだからだ。
しかし、木暮と絶対的な信頼関係があるコンピューターのような頭脳を持つこの科学者・並木に関しては、情報の漏洩はなきに等しい。
世間で、よく゛学者ばか゛と陰口をたたかれる、学者の一人ではあるが、人の情けや義理、そしてふれ合いなどを、生涯の仕事と選んだ研究と同じほど知り理解しようとする男だからだ。
そんな友人である並木に、井辻美土里の件を促したのは、理由があった。
二十七歳の井辻美土里は、東都大学大学院で、森林学を専攻する研究者だった。
多くの男子学生の中にあって、ずば抜けた知識とひたむきな研究努力が専任教授の目に留まり、修了と同時に助手に推薦されており、ほぼ内定もしていた。そんな彼女が錦糸町と大学院から姿を消した翌日、東都大に出向いた木暮の耳に入った美土里に関する情報は、ことさら首をひねるものだった。
美土里を知る全員が、
「信じられないんですよ! あの若さで将来を約束されたようなものですのにね」とか、
「あれだけ優秀なら教授も夢じゃないでしょうにね…」と、口を揃えたように言った。
大学の学生事務局に美土里が残したものは、
『一身上の都合で、退学する』との電話連絡だけだったという。
学内のみならず私生活についても、彼らが話す範囲では、なに一つ行方をくらますに足る理由は見つからなかった。
強いて美土里の周辺で異変といえば、旅行中の母親の不幸で、五年前にひと月ばかり実家に戻っていたことだけだった。
もちろんその不幸も、犯罪が関与したものではなかった。
「なるほど、少しどころかだいぶ妙だね。いわば、順風満帆の船が突然消えたわけか…」
「そうだな。思い当たる節が一切ないそうだ。調べでも美土里を上杉たちに教えた女もいないようだしな。残るは、想像だが…」と、木暮は、れいの表情を作り、
「上杉か…」と呟いた。
「しかし…上杉とかいう男の証言どおりに死んでいれば、消えるのは分かるが、現実には生きている。それも君が会っている。彼女の周辺ではトラブルもなさそうだから、なぜそんな証言をしたんだろう? なおさら不思議だね…」
並木も、考え込んだようで眉間に皺が寄っている。
「とにかく、井辻美土里を見つけるしか手がないんだよ」
「ところで木暮。訊いてみるんだが、普通は殺人がなければ君たちは動かないんだろ? 事件の信憑性が薄いのに、君が捜査し始めたのは、特別な訳でもあるのかい?」
並木のいうように、当の警察官が生存を確認しているのに捜査をするのは、誰が考えてもおかしいし、不審を持つのは当然だ。
「うん。じつはな。いわば俺の…言うのもなんだが、第六感とでも言うか、井辻美土里の印象なんだよ。俺がマンションに訪ねたとき、ちょうど隣りに住んでいるという夫婦が彼女と二言、三言笑顔まじりで話をしていたし、本人に間違いはないと思う。でもな…」
「でも? どうした?」
「学校で聞き込んだり、もちろんマンションの他の住人からも事情を聞いたがね…。誰もが井辻美土里本人だというが、俺には、なぜだかわからんが他人のような気がし始めたんだよ」
「他人?」
「うん。彼女の人柄を聞く度に、そう思う気持ちが強くなる」
「たしか…君が言っていた、別嬪さんの話か?」
「そうだ。人を寄せ付けないというか…信じないような感じだな。話で聞く井辻美土里は、それとは全く逆のような女なんだよ…」
「…」
「もちろん、そんなことで捜査の許可が下りる訳がないが、有能な課長がいてな」
木暮の上司・神宮は、木暮大次郎を全面的にかっている、捜査一課長である。
木暮は神宮に、『井辻美土里は他人では…』との、突拍子もないと思われなくもない話を切りだした時のことを並木に聞かせた。
「ぐれさん…それは、ぐれさんの感ですか?」
神宮は、木暮を“ぐれさん”と呼んで親しみを込めている。
その問いにも顔にも、そうした気持ちがにじみ出ている。
「ええ…。何の証拠もありませんし、こうしたことに関わってはおられないやま(事件)があるのは知ってはいるのですが…」
木暮は警部である。部下が昼夜なく東西に靴底をすり減らして奔走している最中に言い出しにくいのは当然だった。
神宮は、ほんのわずかな時間を沈黙していたが、木暮の顔を真正面から見つめて口を開いた。
「ぐれさん。ぐれさんの方が、僕よりはるかに現場を踏んでいます。忙しいのはぐれさんも、工藤君をはじめみんな一緒です。警察の使命は市民の安全を守ることで、どの事件が先とかはありません。…ただ、時間は三日間で何とかなりませんか?」
神宮は、その顔によく似合った言葉も丁寧で上品な言葉使いをするキャリアだ。年齢は小暮より十も若い。
「課長! ありがとうございます。それだけいただければ! 必ず、納得がいく結果を出してきます!」
頭をこれ以上はないほど下げて退出する木暮の後ろ姿に、神宮の声が届いた。
「ぐれさん。頼みましたよ」と。
木暮は、この年下の上司の素晴らしさは十分に承知しており、振り返ると再び頭を下げた。
木暮たちの世界では、一般社会と比べるとより上下関係は厳しい。
それは、捜査方針に顕著に現れるが、時として大変なマイナス面もが作用する。
第一線で働く捜査官と、指揮を執る役職との意見の相違であり、経験に基づく一歩一歩の地道な捜査を重視する現場と、世論を気にし解決のみを急ぎ望む立場の差である。
だが、会社でいえば業務命令である捜査方針には誰も逆らうことなど出来はしない。
しかし、誤った捜査方針からは絶対に真実は見えてはこない。それが過去多くの冤罪を生んだ要因の一つだと、この年若いキャリアは知っているのだ。
木暮は心の中で(この人は偉くなるだろうな…。またそうなって欲しいもんだ)と常々思っている。木暮と部下の検挙率が抜群なのも、そうした信頼関係が成せる業といえた。
「なるほど、頼もしい上司だね」
並木は、研究所の所長のきまじめな顔を思い出しながら言った。
「ああ。ここだけの話だが、飾りものだけが多い中で俺達は幸せだよ」
「それで、この三日間の目算はあるのかい?」
「ひとまず仁多郡に行き、彼女の足取りを掴むつもりだ。それでお前さんに頼みがあるんだよ」
「頼み?」
「うん。彼女は森林学を専攻しているんだが、大学の話じゃあ、姿を消す直前まで『山林と都市を結ぶ、森林構造分析』とやらいう論文にかかっていたそうだ」
「ほう…」
「それでな、俺たちはそういう方面はからきしだ。俺もその論文に眼を通したんだが、その中に仁多郡の記述があった。卒業論文も、『森林資源の利用とその影響』というものだった。それも故郷のことが主な検討記述だ」
「なるほど、それから足取りを追うんだね。仁多郡の横田は、そろばん(算盤)の生産が全国有数の町だし、すぐ隣の吉田町はたたらで有名だ。それも森林がなければかなわないからね」
「たぶん、仁多郡や近隣の市町村はくまなく歩いているはずだ」
木暮は、三日間という限られた日数の中でしか今回の聞き込みは出来ない。
それに、まだ事件でもないものに島根県警や所轄署の応援を頼むわけにはいかなかった。だからこそ、いわば地元であり、火山や地質を専門とする研究者の力を借りようと三瓶に来たのだった。
「わかった。森林学と僕の専門は異なるが、全くの畑違いでもない。そっちの専門の友人も県内には多い。当たってみるよ」
「ねえ、あなた。奥出雲の松永さんを訪ねられたら?」と志帆。
三人が床についたのは、すでに一時を回っていた。
並木は、志帆が言った松永からまず当たろうと、眠りに就いた。
翌日、二人は早朝の三瓶を仁多郡に向かった。
並木は珍しく年次休暇を三日ほど取ったのだ。もっとも、考えてみると休暇を使うのは半年ぶりだった。
仕事は山ほどあり、昨日の休みも久しぶりであったくらいだったのだ。
東西に細長い島根県と、隣県・広島県、山口県を隔てるのは中国山地である。
二人は、その山深い山地に沿うように流れる川沿いの国道五十四号線を、東に向かっている。この国道は広島県と島根県を結ぶ大動脈で、国道九号線が平野の道なら、こちらは山岳の道だ。
「やはり、山が深いな! しかし、スギとマツが結構目に付くな」
と、国道の両側に迫ってくる風景に、助手席の木暮が興味深そうに並木に聞いた。
時期ともなれば全山を見事なキャンパスに変えるだろう広葉樹の森のいたるところに常緑の固まりが見え、そのほとんどがあたりの樹木よりひときわ高く尖っている。
「そうだね、この当たりはとくにね。全国的にもそうだろうが、ここだけでなくこれから行く仁多もご多分にもれず開発で森林の破壊が進んでいるよ。あのスギやマツは炭を焼くために切り出されたクヌギやコナラの代わりに植えられたようだね。一年を通して常緑の木々というのも四季折々に変化を楽しむ日本人にとっては無粋な気もしないではないがね」
「ま、切ったままで知らぬはんべいを決め込むよりはましか」
「そういうことだね。井辻美土里も若いながらこうしたことに興味を持っているんじゃないのかな」
車は掛合町に入ったようで、今まで見た山間の村から町らしい雰囲気が道路の両側に広がってきた。
この当たりからは、急峻だった中国山地もなだらかな田園地帯に変わってくるのだ。車はかなりのスピードで、国道を東進してきたようで十数分後には木次町に入った。
ヤマタノオロチの伝説で知られる斐伊川を越えると、すぐ国道五十四号線に別れを告げ車は右折する。
ここまで来ると完全に出雲部だ。
「なあ、並木。この当たりの方言はどうなんだ? 小説のようにずうずう弁なのか?」
「若い人たちはそうでもないが、お年寄りの言葉はなかなか難しいね。これから行く仁多の方はもっと難しいかもな」
その仁多郡に着いたのは、十時を少しだけ回った時刻だった。
並木は、路肩に車を寄せるとこの地域の詳細な地図を広げた。最初の目的地・横田町の文字が丸で囲まれている。
「まず井辻美土里の実家に行ってみるか!」
「住所からすると、奥出雲おろちループの付近のようだね」
並木の言うおろちループは、国道三一四号線の坂根と三井野原の間のおよそ四キロの区間を十一の橋と三つのトンネルで結んでいるが、その結び方が非常にユニークである。
坂根が標高五六四メートルあり、三井野原は七三一メートルである。この百六十七メートルの標高差がちょうど大蛇(おろち)が二重にとぐろを巻くようにループで結ばれている。
二十分後着いた井辻美土里の実家は、ちょうどその真下に位置していた。
「なんともすごいものだな!」巨大な赤い大蛇の下腹を見上げて、木暮が感嘆の声を上げた。
何はともあれ、日本最大規模の二重ループである。
今まで数回ここを訪れている並木とて、その度に感心する位なのだ。
「ところで木暮、何から当たるんだ?」
並木は、まだ橋を見上げている木暮の肩を叩いて訊いた。
「おっ、そうだったな。見とれているわけにはいかんな!」
木暮は何にでも興味を持つが、そうしたことが欠点といえば欠点である。
言われて振り返った木暮の目に、美土里の実家の土塀の屋根と赤瓦の屋根が、主のいない住まいの物悲しさを如実に示していた。
「人が住まなくなると、アッというまだな」
「そうだね。これも数年先には崩れ落ちるんだろうね」
「昔は相当な資産家だったようだが…人間はいつどうなるかわからんな」
あたりには民家がなく、このあたりは井辻家の私有地らしい佇まいをみせていたのだ。
「とにかく、中に入ってみるんだろ?」
「まだ私有地だから不法侵入になるが、この際目をつむってな」
木暮は、今日にはいって三度目のいつもの表情でそう言った。
しかし、驚いたことに塀には頑丈な錠前がかかり、蹴破るか塀を乗り越えなければ入れそうもなかった。
二人は土塀の周囲を一回りしたが、侵入出来そうな箇所は一箇所もなかった。
おまけに土塀は、大柄な木暮より頭二つほど高いのだ。この塀の一つを取り上げても最盛期の井辻家の様子がよく分かった。
「おいおい、こいつは駄目だ!」
いくら何でも、壊したり乗り越えてまでは出来ないのは当たり前で、諦めざるを得なかった。
「仕方ないよ。近所で訊くしかないだろう」
二人が井辻家を後にして、最初に訪ねたのはおろちループの途中に設置されているレストランだった。
レストランには近郊の住民が勤めているに違いないからだ。
広い駐車場の向こうにしゃれた建物が見え、アプローチの途中には大蛇をイメージしたオブジェも幾つか置かれている。
レストランは昼食時でほとんど空席がないようだ。
国道三一四号線は、松江市と新見市を結ぶこの地方の主要幹線道路だが、観光名所にもなったおろちループの影響で移動のための車だけでなく、観光客も大いに利用するようだ。レストランの客も大部分がそうした客のようである。
「多いな。ここは後にするとして、売店で訊くか!」
木暮と並木は、レストランに併設されている土産物売場に向かった。
レストランの繁盛のせいかここには人影はほとんどない。
「ちょっと伺いたいんですが」
「はい? 何でしょう?」
木暮に応えたのは、アルバイト学生のような年齢の娘だ。他にも二人ほどいるがいずれも同じような年格好の娘たちである。言葉も服装も東京の子たちとまったく変わらない。
「おろちループの下に大きな家があるんですが、そのお宅のことをご存知の方はここにはお勤めじゃないでしょうか?」
「大きな家ですか?」
と、店員は(そんな家があるの?)といった様子で首をかしげて言った。
「ええ、展望台から見える…今はどなたも住んでらっしゃらないようですが…」
「? ちょっと待って下さい。訊いてみますので」
店員は、手持ちぶさたでこちらを見ていた同僚に訊いてくれたが、返答は同じらしく二人とも同じように首を傾げて並木と木暮を見ている。
どうにもらちがあかないようだ。
木暮は礼を言うと、並木に囁いた。
「分からないとよ。ま、観光案内を頼んだ訳でもないし、土産物も買っていないから仕方がないな」
「若い子だろ。相手が悪かったんじゃないのか?」と、にやにやする並木だ。「馬鹿なことを言うなよ! あの子たちはただ知らないだけだよ」と、若干がっくりとした様子で木暮は応えた。
どうもレストランが暇になるまで待つしかないようである。
昼時でもあったが、
「飯でも食ってから訊くか」、先ほどの顔はどこやらすました顔で木暮はレストランに並木を誘った。
案の定、知りたかった情報は客が引けた時間に年輩の女性従業員から得られた。
木暮は、『豪農の過去と現在』という取材で東京から来たと伝えた。
「ええ、ええ。井辻さんのお宅ですが今は誰も住んではおらっしゃらないんですよ。若い人たちは知らないでしょうがね。お気の毒に奥さんは五年ほど前に旅行中に亡くなりましてね。昔は庄屋さんで、それは大変な身代でしてね。今生きておられたら、ループが出来てそれなりのもんが入ったでしょうに、先のことは分からないもんだとすじん(主人)と話しておるんですよ。ですが…」
「ああ、そうですか。ところで」と、木暮は話好きの店員の口をいったん閉めて貰うお願いをしなければならなかった。
このままでは、肝心なことを訊く前に新たな客が入ればどうにもならないからだ。
「たしか、井辻さんにはお嬢さんがいらっしゃったはずですが? 現在はどちらに?」
「ええ、ええ、美土里ちゃんでしょ。一人娘で、今は東京ですよ。美土里ちゃんはこの地区でも自慢の娘さんでしてね。学校はいつも一番で、東都大学に行っちょんなはるんですよ。うちの子とは保育園からの同級生ですがね。どうしてああまで出来が違うのかね、と主人とよく話しちょるんですよ。だいぶ前に盆の同窓会に戻って来ちゃったですが、なんでも大学を一番で卒業しなはったらしいですよ。息子が話しておりましたがな。息子の嫁に欲しいようなお嬢さんですわ。なにぶん、この田舎では嫁さんの来てがなくて…」
「そうですか、そうでしょうね」
木暮は、並木の顔とレストラン内を見渡して再び中断をお願いした。
「その時は、実家にお泊まりになったんでしょうか? それと、門に錠がしてありましたがどなたかが管理なさっておられるんですか?」
「いいえ、それがね、あなた。奥さんが亡くなってからは一度も。鍵は葬儀の後されたようですよ。旧家で先先代がおらっしゃった頃は親類もずいぶんあったんですがね。こんなことをいっちゃなんですが、美土里ちゃんの父親は若い頃に親に黙って結婚したことで勘当されておらっしゃったんですが、美土里ちゃんが生まれて許されたと聞いていますがな。それからまもなく病気で亡くならしたんですよ。それからしばらくして奥さんがやっと許されて戻んなはったんですよ。ですが、人付き合いはあんましいい方じゃなくて、親類付き合いはなかったようですがな。それですけ管理はされとりませんが…正直言いますと、近所の私たちも、亡くなった茂さん夫婦とはほとんど付き合いはなかったとですよ。たしか葬儀の年だと思うんですが、なんでも三瓶のキャンプ場で同窓会でしたから、キャンプ場でしたよ。私は行ったことがなかけどですが、なんでもいいとこだと息子が話しておりましたがな。目の前に山が…」
三度目の正直である。木暮は、
「そうですか。いやありがとうございました。参考になりました」
と、神妙に頭を下げた。
隣の並木も同じように頭を下げたが、その顔は笑っていた。たぶん苦笑の部類だろう。
レストランを出る二人と入れ替わりに、着いたばかりの団体客がにぎやかに横を通り過ぎた。
親切な主婦も、しばらくは仕事に専念することになるはずだ。
二人はおろちループに別れを告げると、再び車を三一四号線に乗せ松江方面に走らせた。
どうしてももう一、二件の情報を得なければならないのだ。、
「なあ、並木。親とは出来が違うようだが、実家には立ち寄った形跡はないようだな」
「うん。それに戻ってもあの屋敷じゃ広すぎるよ」
並木は、若い女性が一人で寝泊まりするのは寂しすぎると感じていたのだ。
「俺も話を聞いて思ったんだが、若い女が生活するのには十分な財産はあったようだな」
「だろうね。さっきの奥さんの話じゃ、遺産相続も問題はなさそうだしね」
「ああ。それと言葉もよく分かったよ」
「君が東京の人間だと分かって、気を使ってくれたようだったね」
「人情味溢れる島根の奥座敷って所だな?」
並木は木暮の言葉に、かつては裕福なお嬢さんだった美土里が、両親を亡くしても世間で良く耳にするいざこざに巻き込まれなかったようだと想像して、なぜかほっとしていた。
二人が次に向かったのは、やはりここならではの場所、『雲州そろばん伝統工芸館』である。
途中で並木が話したように、この地方は全国に名高い雲州そろばん(算盤)の産地だ。雲州とはもちろんこの地方をさす地方名である。ちなみに出雲とか雲州に当てられる「雲」だが、七百三十三年に編纂された「出雲国風土記」に「八雲立つ出雲」とあるからこの語源はとても古いようだ。
そろばんの産地は一に雲州、二に播州といわれ、現在雲州そろばんは全国生産額の七十パーセントを占める。さらに国の伝統工芸品にも指定されており、この産業がもたらす有形無形の付加価値は計り知れない。
並木は、ここを訪れるのは初めてだったが、専門は違っても館内の展示に興味を引かれたが、今日の訪問目的は違うし小暮の手前もある。二人は職員との面会を申し込んだまま、受付で佇んでいた。
レストランの従業員の取材とは違って、今度は並木が出る番だった。
ここなら、並木の名刺でことは済むはずだからだ。
「じつはこの人なんですが…今度、私どもの研究所で中途採用をと考えているのですが…それで少しお話をお聞きしたかったもので」、並木は木暮から預かっていた井辻美土里の写真を内ポケットから取りだして言い、続けた。
「もちろん本人には内密にお願いしたいんですが、なんでもこのご近所にご実家があるそうで…こうした地場産業にも関心があるような方を求めておりましてね」
「この方ですか…」、しばらく写真を見ていたが、
「ああ、これは井辻の美土里ちゃんでしょう。ですが、ここにはみえたことはないですがね。山田さん。あんたはどうです…?」
親切な職員は、受付の女子職員にも訊いてくれたが、答えは同じだった。
そろばん伝統工芸館を辞してから、三軒のガソリンスタンドと五軒の食品店、二軒の衣料店をまわったが、誰一人として写真の主をここ数年見かけた者はいなかった。
並木が腕に目をやると、時間は五時を回っていた。
「どうする?」と並木は訊いた。
「どうもここには戻ってはいないな…」
聞き込みには慣れっこの木暮も、いささかがっくりした様子で並木を見た。
足取りが掴めないこともあったのだろうが、年輩者の聞き慣れぬ言葉と話好きな人柄が、より木暮を疲れさせたのかも知れない。
レストランの奥さんは別として、七十を過ぎた人たちの方言は、並木とて理解しがたい難物だったからである。
「まだ、明日もあるよ。ひとまず帰るとするか。途中に僕の親しい友人がいるから彼にも頼んでみるよ」
並木のいう友人・松永は、同じ仁多郡にある民俗資料館の学芸員だ。
昨晩の内に彼の名を思い浮かべていた並木は、横田町で聞き込みをする最中に、すでに彼との面会を確約していた。
松永と会うのは三月ぶりである。正確には一年ぶりだ。というのは三ヶ月前には電話で用を済ませたからだ。
資料館は奥出雲(雲州)と呼ばれるこの地方独特の民俗文化や技術を展示・保存する町立の施設で、この地方の近世から近代初期の人々の暮らしを伝える。
並木が彼を知ったのは、三瓶地方の古い農家を紹介してくれないかとわざわざ松永が自宅を訪ねてきた十年ほど昔に遡る。
石見地方と出雲地方のたたずまいと歴史・文化の対比のためのようであった。
「やあ。並木さん、いかがでしたか?」
相変わらず人なっこい笑顔を見せる男である。並木はすでに、人捜しだと知らせていた。
並木は、松永には木暮を刑事と紹介し、今回の訪問を包み隠さず話した。
彼には隠す必要はないからだ。
「なるほど。この女性ですね? 私もあの旧家の奥さんが亡くなったのはよく知ってはいますが、娘さんまでは…。とにかく、何か分かったらすぐにでもご連絡を差し上げますが」
学芸員の松永が、古くからの地主であった井辻家を知っているのは当然である。調査・研究で頻繁に郡内を歩き回るからだ。
並木と木暮は、小一時間ばかりの雑談を済ませると、松永に別れを告げた。
松永からも、美土里に関する有意義な言葉は聞けなかったが、やがてその一年後、おだやかで素朴な人々が住む静かな山里で一つの事件が持ち上がることになる。
そしてそれが、木暮と並木が終生忘れることが無いほどの哀れな事件の新たな一ページになるのだが、もちろん今の二人に判るはずもなく、それは、出雲の神のみが知っているのかも知れない。
その夕刻に三瓶に戻った二人が、志帆を交えて明日の予定を立てている最中だった。
「プルプル、プルプル」
木暮の持つ腰の携帯電話が、珍しく鳴った。東京を出るとき、部下の工藤との打ち合わせは万全だったし、特別な用件がない限りこの三日間は鳴らないはずだった。
「うん? 嫁さんから?」、木暮はこう言い、耳に当てた。
この電話は貸与された物で、本来は仕事でしか使用することはないが、出張時などは家族との連絡に限っては使用が認められている。もちろん受けるだけだが。
「はい。私だが」と木暮。
並木と志帆は、木暮の話が終われば代わって貰うつもりでニコニコしている。
木暮の妻・千絵と志帆は、木暮と並木が気が合う以上に仲がいい。
しかし、案に相違して木暮の顔は険しかった。
「? どうした! なにかあったのか?」、怪訝な表情の並木が訊いた。
「?」、志帆も不安そうな面もちである。
そして顔を見合わせる夫婦の耳に入ったのは、とんでもない言葉だった。
木暮の口から出た言葉は、
「なに! 殺し!」だったのである。
驚愕すべき連絡は、妻でなく東京で走り回る部下・工藤栄一からである。
木暮は電話にかじりつくように続けた。
「なに! 女? その女のビデオが現場に?」
木暮と工藤のやりとりは数分続き、木暮は電話を切ったが、その表情は明らかに困惑の固まりと思えるものだった。
「なにかあったのか…?」、並木は先ほどと同じ言葉で訊いた。
「新宿で殺しだ! やられたのはスタジオ・ミロという写真店の経営者だ」
「さっき、『その女のビデオ』とか言っていたが…」
「井辻美土里…彼女のものと思われるビデオが押収されたんだよ!」
「井辻美土里! 彼女のが?」
「大次郎さん…どういうこと? その人が事件に関係が?」
二人が足取りを追っている女の名が、新たな形で出たことに志帆も驚きを隠さなかった。
木暮は一瞬ためらったが、
「こいつは志帆ちゃんに聞かせていいものかどうか…」と、並木にこう断ってから、工藤からの報を話し始めた。
事件のあらましは次のようなことであるという。
新宿は眠らぬ街である。
六月二十七日。一介のサラリーマンである道山忠夫はこの不夜城で久々の夜を堪能した。もちろん最初は、だが…。
道山は、給料で膨らんだ懐の暖かさに連れられたのだった。
彼が紫煙と体臭の立ちこめる薄暗いバーから、派手な洋服とそれに劣らない化粧の女に送られて、もつれる足と睡眠不足の目で狭い階段を上がったのは、始発電車が動き始める少し前の時間だった。
この通りは、繁華街より少し奥まった、いわば裏通りのためか見るところ道山以外の人影はないが、通りを一歩出ると雑多な飲食店が軒を連ね、彼のような男たちの姿がちらほら見えた。路上やビルの脇にはこうした店の残飯やゴミが異臭を放ち、酔った脳と胃袋を後悔もさせる。
道山もごたぶんに漏れずその気分を味わうこととなった。
「うっ…おえ」
それでなくとも二日酔いである。何とも形容しがたい悪臭が一挙に道山の全身を包み込み、道山は吐き気を催して傍の壁に寄りかかると全身を震わせて数回嘔吐して横転した。
その後、彼はだらしなく口を半開きにしたままふらふらと立ち上がると、今度はコンクリートの壁と壁に挟まれた路地に転がり込んで積まれたゴミの山に突っ伏した。
どれほどたった頃か良く覚えてはいないが、ゴミだめの中の道山のぼんやりとした網膜に一人の男が遠ざかって行くのが映っていた。
道山はゆっくりと首を回して、男が来た路地の奥を見た。
そして、ろれつの回らない口で叫んだ。
「か…か、火事だ」
道山はその言葉の後、ふらつく身体を転がらせるように大通りに投げ出した。
早朝の出勤者の通報で、消防車、救急車そしてパトロール・カーが現場に到着したのはおよそ七、八分ほど後だと思われる。
出火元は、五階建てビルの二階にある写真スタジオだった。
幸い緊急通行の妨げになる車両も少なかったことで消防車の到着が早かったのと、各階の防火扉が功を奏しスタジオ以外への類焼は免れた。
現場検証は、まだ消化液と大量の水が滝のように流れ落ちる室内で早くも始まっていた。
そしてその結果、一人の男の焼死体が発見された。
男は、司法解剖を待つまでもなく明らかに殺害されたと思われる遺体であった。なぜなら仰向けで横たわる半ば焼けこげた頭部のすぐ下、頸骨に凶器と思われるナイフが突き刺さっていたのである。
被害者は直ちに判明した。内田恒太(三十二歳)。スタジオ・ミロの経営者だ。
硬く握られていた拳の中で猛火から消されることを免れた指紋と床に守られた背中一面に彫られた入れ墨からである。
そして、工藤が告げた『その女のビデオ』も、二千万円の現金とともに、およそ何ものをも見逃さない目を持つ鑑識の捜査員によって、壁に仕込まれた秘密の金庫内から発見された。
しかし、金庫内から発見された物の中に捜査陣が首を傾げさせる物が一つあった。
「主任! このガラス片のような物は何でしょうね?」
手元に引き寄せて見つめる捜査員に呟かせたのは、まさにガラス片としか思えない、長さ二センチほどの真っ黒な物である。
警視庁は、所轄署・新宿署に捜査本部を設置した。
そして、酔っぱらいとはいえ、不審な人物を目撃した道山の証言から、その男を重要参考人とみて行方を追うこととなった。
ガラス片も科警研(科学警察研究所)に鑑定のため送られ、現在その鑑定結果待ち。工藤からの報は以上の連絡であった。
「それで、君はどうする?」
(工藤が連絡してくるからには、明日にでも東京に戻らなければならないだろう)と、並木は訊いた。
「いや、ますます井辻美土里の足取りを掴む必要が出た。明日にでも彼女の論文をこちらに送るそうだ。それを元に関連先を虱潰しに探す。わりいが三、四日泊めてくれ」
「それはかまわんが…なあ、木暮。さっきガラス片のような物が金庫内から見つかったとか言ったね」
「ああ、そうだが。 それが?」
「それが何かはいつ頃分かる? 結果がでれば教えてくれないか」
「ん? ま、そりゃ構わんが…なにか気になるのか?」
並木は、なぜかある遺跡を思い出していたのだ。
言うまでもなくそれは、W板尾第五遺跡Wであった。
この翌日も、昨日と同じように二人は足を棒にした。
二人は写真をもとに出雲市内から玉造温泉、そして松江にまで足を延ばしていた。
しかし、二人が追う井辻美土里の足どりは一切得られないままだった。
第二章
消えた女
翌日は、早朝からバケツをひっくり返すという表現がもっともあった天気だった。
「残念だね…」
寝室の窓ガラスを、猛烈に雨が叩いている。
この滝のように降る雨では、優しそうな色とりどりの花びらは窓と同じように叩かれ、散り、根本から折られているに違いない。
「仕方ないわ…そろそろ梅雨ですもの。また行けるわ…」
夫に明るく言いはしたが、心なしか残念そうな志帆だ。
無理もない。心待ちにしていたせっかくの休日だ。
「出雲市にでも行ってみようか? 映画もしばらくは見てないんだろ?」
並木も志帆の気持ちがよく分かり、気晴らしにでもと水を向けた。
「ううん。今日はいいわ。あなたも久しぶりのお休みだもの。ゆっくりなさったら?」
志帆は、夫がやりたいことは先刻承知のように微笑んで言い返した。
その折、階下でベルがなった。食堂の電話だ。
二人は顔を見合わせた。並木も志帆も、早朝の電話は経験からしてあまり歓迎する内容ではないことを知っていたからだ。
おまけにこの天気だから尚更だ。
「誰かしら…?」
志帆は呟きながら階下に降りたが、しばらくするとその妻の嬉しそうな声が並木の耳に届いた。
「あなた! 大次郎さんよ!」
大次郎…。フルネームは、小暮大次郎。つい二日ほど前に、並木に電話をくれた大の親友である。
木暮大次郎は、警視庁捜査一課…、別名ー桜田門の警察官だ。
はやく言えば、泣く子も黙る殺人課所属の警部である。そして、志帆の従兄である。ようするに、大次郎の父と志帆の母は兄妹なのだ。
さらに、木暮と並木は大学時代からのつき合いで、お互いが結婚した現在でも「おい」とか、「お前」と呼び合う仲だ。
そんな木暮を見ると、並木は(なるほどな、…と)、感じることしばしばある。と言っても、並木自身と木暮ではない。
妻・志帆と木暮である。お互いに正義感が人一倍強いのだ。といっても志帆の優しさは正義感以上だが。
もっとも、木暮はいかにも警察官らしくがっしりした体格で、男臭さがぷんぷん臭うような男だ。志帆の華奢な体型とはだいぶ違うし、顔つきも全然違う。
そんな小暮は、志帆のことになると相好を崩す。ついで並木に良くこう言う。
「なあ、並木。お前さんは運がいい男だな。こんな別嬪を貰って。なにせ、母親似だからな! しほちゃんは」
並木は、子どもの頃の志帆のことを小暮から色々と聞いている。
一人娘の志帆は、近所に住む木暮の後を、
「おにいちゃん。おにいちゃん」と、よくついて回っていたことや、男の子にまじって遊び回っていたことなどだ。今の上品な志帆からは想像もできないが。
木暮にしても、兄弟だけで妹はいないから、なおさら可愛がっていたのだろう。だから今でも木暮は、「しほちゃん」と呼ぶし、志帆も本人だけには「おにいちゃん」と、言っている。
「よう。並木! この前は忙しいのに悪かったな! 元気か?」
相変わらずの大声だ。電話は、雨が激しく叩く窓のそばにある。おまけに並木の愛犬が棲むトタン葺きの犬小屋に降り注ぐ音がうるさいくらいだが、それでも全く支障がないほどよく耳に届いた。
「やあ、どうした? こんな朝早くから。ま、君の突然には慣れているけどね。ところで、東京の天気はどうだい? こっちは大雨だよ」
「東京か? たぶんいい天気だろうよ。俺が出かけるときも三十度を越えていた」
「?」
並木は、小暮の言う意味がよく飲み込めなかったが、
「おいおい、まさか島根に来ているんじゃないんだろうね?」と、小暮に負けないほどの声で訊いた。
並木の側で、志帆が(相変わらずね…)と言うような顔で二人の会話を聞いている。
「ハッハッハッ、そういうことだ! ゆうべの夜行で、今着いたとこだ。出雲市駅だよ」
「なんだ。来るなら昨日にでも連絡をくれればよかったのに。しかし、丁度よかった。今日は何の予定もない」
小暮はそれに何やら応えたようだ。
「あきれた奴だな。じゃあ、迎えには行かないが、待っているよ」と、並木は電話をおいて笑っている。
志帆も、「大次郎さんたら、全くしょうがない人ね」と、これも又あきれ顔である。
しかし、並木と志帆は“あきれた男”である小暮大次郎を、誰よりも大切な人間と心底思っていたし、小暮にしてもこうした事が言えるのはこの二人だけだった。
小暮が、並木宅に足を運んだのはその日の夕刻だった。
「お、並木。すまなかったな。思ったより時間がかかってな。はい。志帆ちゃんお土産だ。しかし、いつ来ても田舎はいいな」
小暮は、並木の書斎に通されると、豊かな緑が広がる窓の外を見て言った。
この時間になってやっと雨は上がり、並木宅から見る水耕田の緑がいっそう濃く見えた。五月とはいえ、夏に近い東京とは雲泥の差があるからだろう。
ひとしきり家族の近況を互いに語り合った。
そして、今回の来県の目的を促したのは、志帆がもてなしのために階下に降りた後だった。
並木は、警察官である小暮の突然の訪問が、先回話題になった出雲大社や、三瓶の縄文の埋没林が目的ではないことはとうに察していたし、志帆もそうだった。
利口な志帆は、意見を求められたり、絶対必要と思われる時以外は、二人の会話には口を挟むことはない。もちろん二人も、志帆の前では切り出しはしない。
なぜなら、警部の小暮がわざわざ尋ねて来るにはよほどの訳があるだろうし、従兄妹といえども女だ。小暮の関わる捜査のそのほとんどは残忍な殺人事件だったし、聞かせたくない男と女の話題もあるからだ。
「ところで、こっちで事件かい?」
「うむ。まだはっきりそうとは決まった訳じゃないが、疑ってかかってもいいだろうってとこだ。じつはな…」
小暮が切り出したのは、たしかに女の志帆には聞かせたくない内容だった。
「じつはな、昨年の…八月のことだが、日野署の風紀が一人の男を挙げたんだが、調べていくととんでもない奴だった」
「風紀というと、例の…なんだ…売春や風俗関係が絡んだものだろ?」
「まあな。もっとも、最近は女子大生などがよく引っかかる。ひどいのになると高校生や中学生までいて情けなくなるよ」
「だろうね。しかし、それに関わる大人も大人だね。社会批判をする訳じゃないが、子どもがそのまま大人になったような気がするよ」
「そうだな。姿はたしかに大人だが、そういう大人を見て育つ子どもたちもかわいそうだしな」
「…」
「ま、今回は女が悪いわけでじゃないから多少は救われるが、挙げられたのは、三十二歳になる都内出身の男で、直接の容疑は婦女暴行だ。手口は、宅配の配達人を装って押し込むんだが、そのほとんどが真っ昼間だ。それも女子寮などではなく、中程度のマンションが専門だ。あまり高級になると受け付けで止められるからな」
「ふーん。その男一人でやったのかい?」
「いや二人だ…もっとも共犯者は今も逃走中だがな」
「そうすると、君が島根に来たのは、その逃亡している男を追ってきたのかい?」
「いや。俺が知りたいのは、被害者の事なんだよ」
「被害者を? この島根にも被害者がいるのか!」
「ああ、どうもそのようなんだ」
「そのようなんだって、どういう意味なんだ? それに、君が出て来るからには殺人が起きたんじゃないのか?」
「自供が、不自然なんだが、どうも引っかかることがあってな」
「ほう…」
「被害者の一人はすでに死んでいる。もっとも、害者が直接に手をかけた訳じゃないが、似たようなもんだ」
小暮はそう言い、下唇を突き出し、忙しそうにタバコに火をつけた。
この表情と仕草は、小暮が困惑したときや熟慮するときには必ず見せる彼の癖だった。
そして、島根に来る事となった直接の原因である婦女暴行と、自供内容を話し始めた。
だが、その内容は、並木が首を傾げるほどの説明がつかない不思議なものだった。
事件の発覚は…、木暮が言ったように昨年・平成十年の八月…。夏真っ盛りの日のことだった。
事の起こりは、その一年ほど前の平成九年八月十五日だったという。
都下・日野市。盆の最中の八月十五日…。
この年の春に完成したばかりの独身者専用マンションが、多摩川沿いの土手に造られたサイクリング・コースを見下ろすように建てられている。
この時期は、昼はおだやかに流れる川と水際の緑が眼に優し。夜ともなればマンションの各階の明かりが、川面にきらきらと映る。
それが関西出身の美津子や、ここに住むほかの地方出身に、子供の頃に田舎で流した小さな流し灯籠が揺れているような錯覚を覚えさせた。また、川向こうの立川市の夜景が一人住まいの住人たちの孤独感を慰めもしたし、忘れもさせた。
今、世間ではお盆ということで、マンションの住人も大部分が帰省して留守のようだった。
そんな中で、このマンションに住む二十六歳になる美容師・墨野美津子は、つい一週間ほど前に階段から足を踏み外し、足首を捻挫していた。
だから一年のうちでもっとも多忙な時期を勤めにも行けず、ましてや故郷で待つ家族の元へも戻らずにいたのだった。
閑散としたマンションにいると、孤独感とは別の思いが沸々と美津子の心と体に襲いかかった。
美津子にはまだ親しい男友達もいなかったし、美容室の同僚たちも全員が帰省して、彼女の気持ちをいやが上にも滅入らせていた。
普段ならこうした時は、業界紙や女性誌のヘヤー・スタイル記事などに眼を通していただろうが、今日はそんな気分にもなれなかった。
所在なく、美津子はテレビを相手にするしかなかったようで、手元のリモコンスイッチを入れようとした。
その時、チャイムが鳴った。
美津子は、フローリングの床を足を庇いながらゆっくりいざるように玄関ドアに近づき、声を掛けた。
「どなたですか?」
「宅急便ですが」、若い男の声だった。
「はい!」
彼女はその時点で、大きな過ちを犯した。
美津子は座ったまま防犯ドアチェーンを外し、カギを開けた。
普段なら、ドアの覗き穴から外を確認してからそうしたのに…。
だが、立ち上がるのが困難な美津子はそうはしなかった。
身体の不自由さもあったが、二日ほど前に故郷からの電話がそれに輪を掛けたのだった。
それは、美津子の田舎から、“お盆のだんごの粉”を宅急便で送ったとの
内容だった。美津子の故郷では、お盆には“だんご”を作るのが習わしであったからだ。それはなんと皮肉な偶然だったろう。
「ご苦労様です。今開けます」
美津子が来訪者に告げるより早く、鋼鉄製のドアがさっと開いた。
そして、声を上げる間もなく二つの影が内部に侵入するやいなや、美津子は口を押さえられ、押し倒された。
それからの三時間は、美津子にとって生涯忘れ得ない地獄だった。まさに悪夢としか思えない出来事だったろう。
粘着テープで強く塞がれた美津子の口からは声一つ漏れ出ることがなく、涙でくしゃくしゃの恐怖でおののく眼に映るのは、交互にのしかかるサングラスで隠された二人の男の顔と、ポラロイドカメラのフラッシュの光りだけだった。
やがて、欲望を吐き出した男達は、美津子の生活が完全に窮乏することを好まないかのように、引き出しの中の十数万円あった金から数枚を抜き取り、侵入した時以上の素早さでその場を離れた。
そして、野獣の行動としか思えない暴力と理辱の限りを尽くし終えた男二人が放心状態の美津子の前に置き去ったのは、一枚の撮られたばかりの写真と脅迫の言葉だった。
「人に喋れば、あんたの勤め先と実家に同じ写真が届くだけだ!」
美津子の耳に、低く吐き捨てられた言葉がこびりつき、宙を漂うその眼には無惨な自分の裸体だけが焼き付いていた。
美津子は何度、故郷に帰ろうと思い悩んだか知れない。また、幾度も警察の前まで足が向いたか知れない。
だが、美津子は帰ることもなく、警察署の玄関をくぐることもしなかった。
自分の店を持つまではと、今まで辛抱してきたのである。勤務する店の待遇も満足できるものだったし、彼女はただがむしゃらに働くことで事件を忘れようとした。
だから、足の捻挫の完治と心と体の傷が癒えるのを待つことなく、事件の三日後には、やっと住み慣れ始めたマンションから美津子は逃げるように荷物を運びだしていたのだった。
美津子は、住まいを人のあふれかえる新宿に移した。
今度の住まいは、厳重にセキュリティが施されたマンションだった。
そして、美津子が引っ越してから一年が、何事もなく過ぎていた。
相変わらず、恐怖は残ってはいたが、やがては忘れ去る事ができるだろうし、また忘れなければならなかった。
だが、男たちは決して忘れてはいなかった。それどころか、再び美津子の眼前に現れる時期を待っていただけだったのである。
さらに、男たちの餌食は美津子だけでなく他に十三人もいたのだった。
男たちが有り金のすべてや貯金通帳などを奪わず、また一年も美津子に関して行動を起こさなかったのは、いわば彼らの常套手段で、したたかな計算でもある事などは美津子には想像すらできなかったのは無理からぬ事だったろうが…。
七月…。
ぎらぎらと照りつける太陽で熱せられた舗装道路と、車の排気ガス、そして林立するビルから吐き出される冷房の熱が東京をうだるような暑さにしていた。
高円寺の美容室「エルゼ」から、新宿・花園町のマンションに戻った美津子が、思い出すのもおぞましい事件が終わっていないことを知らされる事になったのは、その日からだった。
「帰りました」
美津子は、玄関先の管理室に、戻った挨拶をした。
ホールの冷房の冷気が何とも心地よかった。
「お帰りなさい」
何かと親しくしている管理人の言葉に送られて、彼女は壁際の郵便受けを覗くと一通の封書と一枚のハガキを取り出し、ハンドバックに入れて自室のある五階に向かった。
このマンションは、配達物も郵便局から来るものだけを手にする事ができるし、部外者が立ち入ることができないチェック機能を持つマンションなのだ。
決して安くはないマンションだが、主の帰りを待っていた西日が当たっていた部屋は、さすがにムッとくるほどの暑さが残り、廊下で冷やされた身体が、再び屋外の状態に戻っていた。
美津子は、コンクリートの塊だけが見えて、眺めは決して良くはないが、それでも心が落ちつく部屋の窓を目一杯開け、熱気を追い出した。
冷房のスイッチをオンにした部屋は、直ぐに一息着くことができる温度になり、ソファーに腰を下ろした美津子は、ハンドバックから封書とハガキを取り出して、差し出し人の名を確認した。
一通は、懐かしい母からだった。そして、ハガキは花園郵便局からのもので、郵便小包の不在通知だった。
「何かしら?」
ここの住所を知っているのは家族と同僚だけである。一瞬、妙な胸騒ぎに似たものが胸をよぎった。
だが、(明日に郵便局に行けば分かることだ)
美津子は、そう思って母からの手紙を読み始めた。
内容は、『足の調子はどうかとか、正月も盆も帰らなかったし、元気でいるか?』といったかわりばえもしないものだったが、癖のある筆跡は、母の温もりを十分に美津子に伝えていた。
美津子は、昨年と今年は帰郷しなかったが、あの事件以来、わざと田舎を遠く思おうとしていた。
矛盾するようだが、ここで田舎に帰れば二度と自分が立ち直れないような気がしていたからだ。美津子は、二度ほど読み返し、そっと折り畳んで引き出しにしまった。
その後、残された官製ハガキに目を向けたが、なぜか美津子には、不吉な予感を拭うことができなかった。
翌日の火曜日。
マンションから五分も歩けば、郵便局がある。
郵便物が、幸せを届けるだけではない事は誰でも承知してはいる。しかし、美津子に届けられたのは、まさに不幸そのものだった。
彼女の予感は当たったのである。
人目を避けるように小箱を開けた時、美津子はめまいを覚えた。
「ガシャ」と、いやな音がして小箱は足下に落ちた。拾い上げる気力もなかった。
「落ちましたよ」、
誰かがそう声を掛けた。
そこまでしか美津子は覚えてはいなかった。
どうしてマンションまで帰ったのか、又、どれくらい自室でしゃがんでいたのかまるで覚えてはいなかった。が、目の前には、ひしゃげた小箱があった。
おそるおそる手を伸ばして中のものを取り出した。
それは、忘れるはずのないポラロイドカメラであった。
そして、一枚のメモ書きが伴われていた。
美津子の生活が一変したのは、それからわずかな時間だった。
彼女は、再び居を変えていた。そして、勤め先の美容室も辞めていた。
夜の勤めも転々と変わった今、彼女は、電話もない古ぼけたアパートの一室で、目の下に青黒い隈を作り、亡霊のように変わり果てていた。
男二人は、美津子の一挙手一投足をこの一年間、静観し続けていた。そして行動を起こしたのだった。
脅迫が始まっていたのである。
美津子はメモ書きの指示通り、最初は十万円で一枚の写真を渡された。次は二枚の写真で五十万円だった。値段はその度につり上がった。
やがて、貯金は底をつき、残された道はサラ金だけであった。
そして今、彼女の元には五百万以上に上る借金と、逃れられない脅迫だけが重くのしかかっていた。
ほんの一ヶ月の間に、今まで築きあげたすべてを美津子は失った。
そして、彼女の返済能力が完全に失われた時、男はその姿を現した。
指定された場所は、あの多摩川土手に建つ、マンションの屋上だった。
この日は、美津子が人生を狂わされた日から丁度一年目の真夏の事だった。
「そろそろ許してやる。その代わり、お前の知り合いの一人暮らしの女を教えろ!」
男がそう言ったとき、美津子は怒りを覚えるより先にふと遠い昔を思い出した。
それは、美津子の中学生時代に流行っていた手紙のことだった。
美津子の顔に表現できぬーそれは自嘲に似たー表情が浮かんだ。
(どうしてこんな事を思い出したんだろう…。まるで不幸の手紙だわ)とでも取れるような…。
そして彼女は、突然走り出した。美津子の向かう先は、すべてが終わる死のダイブだった。
美津子のぼやけた視界に映ったのは、かつてよく散歩した、緑覆い茂る川沿いの小道だけであった。
そしてその日は、サイクリング・ロードも川沿いの小道もすべてが陽炎で燃えていた。
婦女暴行犯・上杉博司は、三十分後、緊急配備の網に捕らえられた。
墨野美津子の落下と、必死の形相でマンションを走り去る一人の男を、夏休みを川縁で楽しむ家族連れや、サイクリストの多くが目にしていたのだ。ビルが林立する市中とは異なる場所である。上杉が逃げおおせるわけはなかった。
「なんという…むごい…」
並木は、ついぞこのような話しを聞いたことがなかった。
「ああ、…かわいそうにな、ひどいもんだよ…」
残忍な事件には慣れているはずの小暮も、そう呟くと固く口を結んだ
しばしの沈黙があった。
「墨野美津子は…思ったんだろう。体力ではかなわないし、ここで上杉に逃げられれば二度と奴に復讐もできない。もし奴が捕まっても恐喝と婦女暴行だ。自分を犠牲にしてでもとな…」
と、小暮は、墨野美津子の話しを終えた。
「そうか…そうだったんだろうな…」
「そればかりじゃない! まだ犠牲者がいるんだよ。本題はこれからだ!」
小暮はやりきれない表情と声で言った。
それが、小暮を島根に呼び寄せた謎の出来事の発端であり、かつまた序曲でもあったのである。しばしの沈黙があった。
「小暮、そろそろ食事だろう。志帆がせっかく君のために腕を振るってくれる。話しは後だ。これ以上聞くと、お通夜になってしまう」
並木は、小暮を誘い階下に降りていった。
食堂では、夕餉の支度を済ました志帆がニコニコと笑顔を隠さないで二人を待っていた。並木宅は世間並みの生活をしてはいるが今日のテーブルの上は豪華版だ。
「お、すごいな! 親父が志帆ちゃんの料理は文句の付けどころがないと言っていたが、本当だな。おい、並木。お前は幸せ者だぞ!」
「それに…でしょ? ね、大次郎さん?」志帆が、嬉しそうに茶化した。
「そうそう!」
木暮は、テーブルの上の料理と志帆を覗き込み、並木に片目をつむって見せた。
「おいおい。二人とも何を言っているんだ。まずは乾杯だ!」
並木も笑いをこらえ、殊勝な顔で席に着いた。
食事時間(?)は深夜まで続いたが、木暮も並木も、つい先ほどまで話し込んでいたことなどとっくに忘れたように、事件のことはおくびにも出すことはしなかった。また、木暮はビールをなみなみと注いでくれる志帆に対しては、子供の頃に舞い戻った調子で笑いを引き出して楽しんだ。
「なあ、志帆ちゃん。並木は堅物かもしらんが、なかなかこんな男は見つからんぞ。それに並木。お前さんも身体には気を付けろよ。研究だけが仕事じゃないからな」
「うむ。ありがとう。でも僕のことを心配する前に、君こそな…」
並木と志帆は、警察官である木暮のことを、彼の妻と同じほど気に留めている。
そして、言うまでもなく木暮にしても二人に対する思いは同じだ。
警察白書によると、東京都内だけで年間に起きる自殺者・他殺・災害事故者などの死亡事件はおよそ四万件〜五万件にも上り、その中で、「一割強が他殺を含む変死者」だという。
つまり、変死という異常な死を迎える人間が、一日平均にして十名以上ということである。
とりもなおさずこの事実は、木暮たち警察官を休ませることのない過酷な勤務が絶えず待ち受けていることである。長年の付き合いである二人はそれをいつも心に留めていたからだった。
もちろん木暮は、そんなことを口にするほど柔な男ではないが…。
時計を見ると十時を回っていた。
「志帆ちゃん。遅くなるといかん。片づけ始めてくれ。なんなら皿ぐらいは洗うよ!」木暮は、志帆にはあくまでも優しい。
「大丈夫よ! それに、お食事前のお話がまだ終わってないんでしょ?」
「うん? あ…それはそうなんだが…」木暮は並木を見た。
「かまわんだろう」と、並木。
「話にくいことなら別だけど、私も役に立てることがあるかもよ…」
志帆には、二人がお見通しのようである。
木暮の口が尖り開かれた。
「なら言うが、墨野美津子が死んだのは、上で話したように上杉ともう一人の男。名は竹見貢というんだが。二人が殺したようなもんだ」
「だろうね」
「連中が、被害者たちをすぐに脅迫しなかったり、有り金を残らず盗らなかったのは、襲った相手の出方を見るのと同時に順番に脅迫していたからだ。搾れるだけ搾り取って、取れなくなると相手を変えた。行き当たりばったりの押し込みじゃないから次の獲物がどういう人間かがよく分かるからな。全くずるがしこい…いや、鬼みたいなもんだ」
「そうすると、被害者は一人や二人ではないね」
「ああ。現在までに分かっている人数は、死んだ墨野美津子を含めて十四人にもなる」
「なんと言っていのか…」、並木は世も末だといった顔つきで首を横に振った。
「なんともしぶとい奴だが、最初は暴行の事実も否認していた上杉も、へたをすれば殺人の罪に問われることを恐れてやっと自供し始めた」
「…」、並木は無言で頷いてる。
「その自供の中で、何とも奇妙なことを言うんだよ」
「奇妙な?」
「そうだ。死体を見たとな」
「美津子とかいう女性の他にも、犠牲者が?」
並木は、流し台に向かう志帆をちらっと見て訊いた。
「そうだ。脅迫されていたうちの一人だ。上杉の自供通り名前も住所も確認が出来て、俺が先月になってそこに行ったんだが、死んだなんてのは真っ赤な大嘘で当の本人はぴんぴんしていた」
「そりゃおかしいね…わざわざなんのためにそんなことを? 自分に不利になる嘘をつくはずもないだろうし…それで、その上杉はその女性が間違いなく死んでいたと言っているんだね?」
「そうなんだよ。上杉の話では、墨野美津子が死ぬひと月ほど前だったようだが…。上杉がその女に連絡を取ったんだが、指定の金どころか本人が一向に姿も声も見せなかった。それで、業を煮やした上杉が錦糸町の女のマンションにでかけたところ、女が死んでいた」
「七月だね? それで?」
「部屋のカギがかかっていない玄関から忍び込んだところ、応接間のソファーの脇で仰向けになって死んでいたというんだ。俺もその状況をだいぶ問いつめたが、死亡していた状況はじつに克明に覚えているんだ。例えば異臭がして、眼を開けたまま鼻から血を流していたとか、首にストッキングのような物が巻き付いていて舌がだらんとしていた。というようなことだ」
「ほう、良く覚えているものだね。どうだろう? 普通なら死体を見れば、悲鳴を上げて逃げ出すと僕は思うが…」
「まあな。だが、上杉たちのような人間なら、割合に冷静かもしれんね。自分が殺したと思われたらやばいからな。しかし、その殺された本人が生きていてはな…」
「なあ、木暮。たとえばだが、鼻から血を出しているような場合は、どんなふうに殺された時なんだ?」 「お前さんも、そう思うか。俺が不思議に思うのは、奴が言言い張る首にストッキング状の物が巻き付いていたというとこだ。絞殺されれば、鼻血がでるんだよ。それに、舌も伸びきる」
「そういう状態で、蘇生は可能か?」、並木は膝を乗り出すように訊いた。
「いや、まず無理だ。ブラック・ジャック先生でもな」
真面目くさった顔と声で、漫画の主人公である有名な医師を持ち出したのは、蘇生が絶対に不可能だと言う意味でもあった。
「それにしても…」と並木は、木暮を真似たわけではないだろうが口を曲げて考え込んだ。
「あり得ない話だが、お前さんもそう思うのか?」木暮も並木も、上杉の自供内容が、あまりにも迫真に迫っていることが気に入らなかったのだ。
「ところで、その時に君が会った女性はどんな人なんだ?」
「井辻美土里か?」
木暮は胸の内ポケットから手帳と写真を取り出して女の名を言い、並木を見た。
写真は、大学の研究室で借りたものだそうで、友人三人と映っている。
「ほう、美人だね。井辻美土里というのか。やはり独身なんだね?」
「ああ。えっと…今年二十六になる。大学院の研究生で奴らが狙うように独身だ。それにこの通りの美人だよ。金もありそうだが、ま、正直言って俺の好みじゃないがな」
「ん? どういう意味だい?」
「何て言うか…人を寄せ付けないというか…信じない…ような感じだな。別嬪だからなおさらだ」
その言葉に、今まで黙々と流しに向かっていた志帆が振り返って木暮を見た。志帆と眼が合った木暮は、慌てて手のひらを横に振った。
並木はそんな二人に構わず訊いた。
「その井辻という女性もやはり、脅迫されていた一人から紹介のようにされたのか?」
「まだそこんところは分からんが…他の被害者もそういうことは言いづらいと見えてな。それに押収した手帳には住所と名前があったが、肝心のこの美土里という女の写真は一枚もないんだよ」
「ないのか?」
「ああ、他の十三人の被害者のは一、二枚は必ずあったが、この女のだけは一枚もない。だから、自供で会いに行きはしたが、話もなにもあったものじゃない」
「ま、喜ばしい話じゃないからね。それにしても、もし脅迫されていたなら犯人が捕まって内心は嬉しいはずだろうから、何らかの態度は示すだろうがな…」
「そんなものは一つもないよ。全く逆の態度をされただけだ。迷惑そうにな。おまけに三日後の四月二十一日に、検証の時点で上杉に面通しをさせるつもりだったが、いないんだよ!」
「いない?」
「ああ! 引っ越して所在不明だ! もちろん大学もやめている」
「それで、その女性がこの島根にいると?」
「そんなことは分からんが、出身地が山陰の仁多郡という所だとまでは判明している。たしか松本清張の小説の舞台だったはずだ。ま、仁多郡についての予備知識はそんなものだが…」
「名前が分かっていて、出身地も明らかならどうにか出来るだろう? 彼女の実家には連絡をしたんだろ」
「それがな。まずいことに今は誰も住んでいないとのことだ。県警に確認を取って初めて分かったんだよ。なんでも五年ほど前に旅行中の母親が焼死したらしい。父親もとっくに亡くなっているしな」
「ほう…そうなると、周辺で訊くしかないのか…」
「そういうことになるな…」木暮は、人ごとみたいに並木を見つめて言った。
並木は笑いながら、
「おいおい、まさか僕を引き出すつもりじゃないだろうね?」と、並木は太平楽な友人に言った。
そして、その返当は、
「おい、志帆ちゃん。志帆ちゃんからも頼むよ」、だった。
木暮が、並木に捜査状況を話したり、意見を訊いたりするのはこれが始めてではない。
もちろん並木は民間人だから、その身に危険が及んだり、彼の口から情報が外部に漏れれば重大な結果をもたらす。
警察の使命は、あくまでも善良な民間人を犯罪から守り、また防止することだからだ。
しかし、木暮と絶対的な信頼関係があるコンピューターのような頭脳を持つこの科学者・並木に関しては、情報の漏洩はなきに等しい。
世間で、よく゛学者ばか゛と陰口をたたかれる、学者の一人ではあるが、人の情けや義理、そしてふれ合いなどを、生涯の仕事と選んだ研究と同じほど知り理解しようとする男だからだ。
そんな友人である並木に、井辻美土里の件を促したのは、理由があった。
二十七歳の井辻美土里は、東都大学大学院で、森林学を専攻する研究者だった。
多くの男子学生の中にあって、ずば抜けた知識とひたむきな研究努力が専任教授の目に留まり、修了と同時に助手に推薦されており、ほぼ内定もしていた。そんな彼女が錦糸町と大学院から姿を消した翌日、東都大に出向いた木暮の耳に入った美土里に関する情報は、ことさら首をひねるものだった。
美土里を知る全員が、
「信じられないんですよ! あの若さで将来を約束されたようなものですのにね」とか、
「あれだけ優秀なら教授も夢じゃないでしょうにね…」と、口を揃えたように言った。
大学の学生事務局に美土里が残したものは、
『一身上の都合で、退学する』との電話連絡だけだったという。
学内のみならず私生活についても、彼らが話す範囲では、なに一つ行方をくらますに足る理由は見つからなかった。
強いて美土里の周辺で異変といえば、旅行中の母親の不幸で、五年前にひと月ばかり実家に戻っていたことだけだった。
もちろんその不幸も、犯罪が関与したものではなかった。
「なるほど、少しどころかだいぶ妙だね。いわば、順風満帆の船が突然消えたわけか…」
「そうだな。思い当たる節が一切ないそうだ。調べでも美土里を上杉たちに教えた女もいないようだしな。残るは、想像だが…」と、木暮は、れいの表情を作り、
「上杉か…」と呟いた。
「しかし…上杉とかいう男の証言どおりに死んでいれば、消えるのは分かるが、現実には生きている。それも君が会っている。彼女の周辺ではトラブルもなさそうだから、なぜそんな証言をしたんだろう? なおさら不思議だね…」
並木も、考え込んだようで眉間に皺が寄っている。
「とにかく、井辻美土里を見つけるしか手がないんだよ」
「ところで木暮。訊いてみるんだが、普通は殺人がなければ君たちは動かないんだろ? 事件の信憑性が薄いのに、君が捜査し始めたのは、特別な訳でもあるのかい?」
並木のいうように、当の警察官が生存を確認しているのに捜査をするのは、誰が考えてもおかしいし、不審を持つのは当然だ。
「うん。じつはな。いわば俺の…言うのもなんだが、第六感とでも言うか、井辻美土里の印象なんだよ。俺がマンションに訪ねたとき、ちょうど隣りに住んでいるという夫婦が彼女と二言、三言笑顔まじりで話をしていたし、本人に間違いはないと思う。でもな…」
「でも? どうした?」
「学校で聞き込んだり、もちろんマンションの他の住人からも事情を聞いたがね…。誰もが井辻美土里本人だというが、俺には、なぜだかわからんが他人のような気がし始めたんだよ」
「他人?」
「うん。彼女の人柄を聞く度に、そう思う気持ちが強くなる」
「たしか…君が言っていた、別嬪さんの話か?」
「そうだ。人を寄せ付けないというか…信じないような感じだな。話で聞く井辻美土里は、それとは全く逆のような女なんだよ…」
「…」
「もちろん、そんなことで捜査の許可が下りる訳がないが、有能な課長がいてな」
木暮の上司・神宮は、木暮大次郎を全面的にかっている、捜査一課長である。
木暮は神宮に、『井辻美土里は他人では…』との、突拍子もないと思われなくもない話を切りだした時のことを並木に聞かせた。
「ぐれさん…それは、ぐれさんの感ですか?」
神宮は、木暮を“ぐれさん”と呼んで親しみを込めている。
その問いにも顔にも、そうした気持ちがにじみ出ている。
「ええ…。何の証拠もありませんし、こうしたことに関わってはおられないやま(事件)があるのは知ってはいるのですが…」
木暮は警部である。部下が昼夜なく東西に靴底をすり減らして奔走している最中に言い出しにくいのは当然だった。
神宮は、ほんのわずかな時間を沈黙していたが、木暮の顔を真正面から見つめて口を開いた。
「ぐれさん。ぐれさんの方が、僕よりはるかに現場を踏んでいます。忙しいのはぐれさんも、工藤君をはじめみんな一緒です。警察の使命は市民の安全を守ることで、どの事件が先とかはありません。…ただ、時間は三日間で何とかなりませんか?」
神宮は、その顔によく似合った言葉も丁寧で上品な言葉使いをするキャリアだ。年齢は小暮より十も若い。
「課長! ありがとうございます。それだけいただければ! 必ず、納得がいく結果を出してきます!」
頭をこれ以上はないほど下げて退出する木暮の後ろ姿に、神宮の声が届いた。
「ぐれさん。頼みましたよ」と。
木暮は、この年下の上司の素晴らしさは十分に承知しており、振り返ると再び頭を下げた。
木暮たちの世界では、一般社会と比べるとより上下関係は厳しい。
それは、捜査方針に顕著に現れるが、時として大変なマイナス面もが作用する。
第一線で働く捜査官と、指揮を執る役職との意見の相違であり、経験に基づく一歩一歩の地道な捜査を重視する現場と、世論を気にし解決のみを急ぎ望む立場の差である。
だが、会社でいえば業務命令である捜査方針には誰も逆らうことなど出来はしない。
しかし、誤った捜査方針からは絶対に真実は見えてはこない。それが過去多くの冤罪を生んだ要因の一つだと、この年若いキャリアは知っているのだ。
木暮は心の中で(この人は偉くなるだろうな…。またそうなって欲しいもんだ)と常々思っている。木暮と部下の検挙率が抜群なのも、そうした信頼関係が成せる業といえた。
「なるほど、頼もしい上司だね」
並木は、研究所の所長のきまじめな顔を思い出しながら言った。
「ああ。ここだけの話だが、飾りものだけが多い中で俺達は幸せだよ」
「それで、この三日間の目算はあるのかい?」
「ひとまず仁多郡に行き、彼女の足取りを掴むつもりだ。それでお前さんに頼みがあるんだよ」
「頼み?」
「うん。彼女は森林学を専攻しているんだが、大学の話じゃあ、姿を消す直前まで『山林と都市を結ぶ、森林構造分析』とやらいう論文にかかっていたそうだ」
「ほう…」
「それでな、俺たちはそういう方面はからきしだ。俺もその論文に眼を通したんだが、その中に仁多郡の記述があった。卒業論文も、『森林資源の利用とその影響』というものだった。それも故郷のことが主な検討記述だ」
「なるほど、それから足取りを追うんだね。仁多郡の横田は、そろばん(算盤)の生産が全国有数の町だし、すぐ隣の吉田町はたたらで有名だ。それも森林がなければかなわないからね」
「たぶん、仁多郡や近隣の市町村はくまなく歩いているはずだ」
木暮は、三日間という限られた日数の中でしか今回の聞き込みは出来ない。
それに、まだ事件でもないものに島根県警や所轄署の応援を頼むわけにはいかなかった。だからこそ、いわば地元であり、火山や地質を専門とする研究者の力を借りようと三瓶に来たのだった。
「わかった。森林学と僕の専門は異なるが、全くの畑違いでもない。そっちの専門の友人も県内には多い。当たってみるよ」
「ねえ、あなた。奥出雲の松永さんを訪ねられたら?」と志帆。
三人が床についたのは、すでに一時を回っていた。
並木は、志帆が言った松永からまず当たろうと、眠りに就いた。
翌日、二人は早朝の三瓶を仁多郡に向かった。
並木は珍しく年次休暇を三日ほど取ったのだ。もっとも、考えてみると休暇を使うのは半年ぶりだった。
仕事は山ほどあり、昨日の休みも久しぶりであったくらいだったのだ。
東西に細長い島根県と、隣県・広島県、山口県を隔てるのは中国山地である。
二人は、その山深い山地に沿うように流れる川沿いの国道五十四号線を、東に向かっている。この国道は広島県と島根県を結ぶ大動脈で、国道九号線が平野の道なら、こちらは山岳の道だ。
「やはり、山が深いな! しかし、スギとマツが結構目に付くな」
と、国道の両側に迫ってくる風景に、助手席の木暮が興味深そうに並木に聞いた。
時期ともなれば全山を見事なキャンパスに変えるだろう広葉樹の森のいたるところに常緑の固まりが見え、そのほとんどがあたりの樹木よりひときわ高く尖っている。
「そうだね、この当たりはとくにね。全国的にもそうだろうが、ここだけでなくこれから行く仁多もご多分にもれず開発で森林の破壊が進んでいるよ。あのスギやマツは炭を焼くために切り出されたクヌギやコナラの代わりに植えられたようだね。一年を通して常緑の木々というのも四季折々に変化を楽しむ日本人にとっては無粋な気もしないではないがね」
「ま、切ったままで知らぬはんべいを決め込むよりはましか」
「そういうことだね。井辻美土里も若いながらこうしたことに興味を持っているんじゃないのかな」
車は掛合町に入ったようで、今まで見た山間の村から町らしい雰囲気が道路の両側に広がってきた。
この当たりからは、急峻だった中国山地もなだらかな田園地帯に変わってくるのだ。車はかなりのスピードで、国道を東進してきたようで十数分後には木次町に入った。
ヤマタノオロチの伝説で知られる斐伊川を越えると、すぐ国道五十四号線に別れを告げ車は右折する。
ここまで来ると完全に出雲部だ。
「なあ、並木。この当たりの方言はどうなんだ? 小説のようにずうずう弁なのか?」
「若い人たちはそうでもないが、お年寄りの言葉はなかなか難しいね。これから行く仁多の方はもっと難しいかもな」
その仁多郡に着いたのは、十時を少しだけ回った時刻だった。
並木は、路肩に車を寄せるとこの地域の詳細な地図を広げた。最初の目的地・横田町の文字が丸で囲まれている。
「まず井辻美土里の実家に行ってみるか!」
「住所からすると、奥出雲おろちループの付近のようだね」
並木の言うおろちループは、国道三一四号線の坂根と三井野原の間のおよそ四キロの区間を十一の橋と三つのトンネルで結んでいるが、その結び方が非常にユニークである。
坂根が標高五六四メートルあり、三井野原は七三一メートルである。この百六十七メートルの標高差がちょうど大蛇(おろち)が二重にとぐろを巻くようにループで結ばれている。
二十分後着いた井辻美土里の実家は、ちょうどその真下に位置していた。
「なんともすごいものだな!」巨大な赤い大蛇の下腹を見上げて、木暮が感嘆の声を上げた。
何はともあれ、日本最大規模の二重ループである。
今まで数回ここを訪れている並木とて、その度に感心する位なのだ。
「ところで木暮、何から当たるんだ?」
並木は、まだ橋を見上げている木暮の肩を叩いて訊いた。
「おっ、そうだったな。見とれているわけにはいかんな!」
木暮は何にでも興味を持つが、そうしたことが欠点といえば欠点である。
言われて振り返った木暮の目に、美土里の実家の土塀の屋根と赤瓦の屋根が、主のいない住まいの物悲しさを如実に示していた。
「人が住まなくなると、アッというまだな」
「そうだね。これも数年先には崩れ落ちるんだろうね」
「昔は相当な資産家だったようだが…人間はいつどうなるかわからんな」
あたりには民家がなく、このあたりは井辻家の私有地らしい佇まいをみせていたのだ。
「とにかく、中に入ってみるんだろ?」
「まだ私有地だから不法侵入になるが、この際目をつむってな」
木暮は、今日にはいって三度目のいつもの表情でそう言った。
しかし、驚いたことに塀には頑丈な錠前がかかり、蹴破るか塀を乗り越えなければ入れそうもなかった。
二人は土塀の周囲を一回りしたが、侵入出来そうな箇所は一箇所もなかった。
おまけに土塀は、大柄な木暮より頭二つほど高いのだ。この塀の一つを取り上げても最盛期の井辻家の様子がよく分かった。
「おいおい、こいつは駄目だ!」
いくら何でも、壊したり乗り越えてまでは出来ないのは当たり前で、諦めざるを得なかった。
「仕方ないよ。近所で訊くしかないだろう」
二人が井辻家を後にして、最初に訪ねたのはおろちループの途中に設置されているレストランだった。
レストランには近郊の住民が勤めているに違いないからだ。
広い駐車場の向こうにしゃれた建物が見え、アプローチの途中には大蛇をイメージしたオブジェも幾つか置かれている。
レストランは昼食時でほとんど空席がないようだ。
国道三一四号線は、松江市と新見市を結ぶこの地方の主要幹線道路だが、観光名所にもなったおろちループの影響で移動のための車だけでなく、観光客も大いに利用するようだ。レストランの客も大部分がそうした客のようである。
「多いな。ここは後にするとして、売店で訊くか!」
木暮と並木は、レストランに併設されている土産物売場に向かった。
レストランの繁盛のせいかここには人影はほとんどない。
「ちょっと伺いたいんですが」
「はい? 何でしょう?」
木暮に応えたのは、アルバイト学生のような年齢の娘だ。他にも二人ほどいるがいずれも同じような年格好の娘たちである。言葉も服装も東京の子たちとまったく変わらない。
「おろちループの下に大きな家があるんですが、そのお宅のことをご存知の方はここにはお勤めじゃないでしょうか?」
「大きな家ですか?」
と、店員は(そんな家があるの?)といった様子で首をかしげて言った。
「ええ、展望台から見える…今はどなたも住んでらっしゃらないようですが…」
「? ちょっと待って下さい。訊いてみますので」
店員は、手持ちぶさたでこちらを見ていた同僚に訊いてくれたが、返答は同じらしく二人とも同じように首を傾げて並木と木暮を見ている。
どうにもらちがあかないようだ。
木暮は礼を言うと、並木に囁いた。
「分からないとよ。ま、観光案内を頼んだ訳でもないし、土産物も買っていないから仕方がないな」
「若い子だろ。相手が悪かったんじゃないのか?」と、にやにやする並木だ。「馬鹿なことを言うなよ! あの子たちはただ知らないだけだよ」と、若干がっくりとした様子で木暮は応えた。
どうもレストランが暇になるまで待つしかないようである。
昼時でもあったが、
「飯でも食ってから訊くか」、先ほどの顔はどこやらすました顔で木暮はレストランに並木を誘った。
案の定、知りたかった情報は客が引けた時間に年輩の女性従業員から得られた。
木暮は、『豪農の過去と現在』という取材で東京から来たと伝えた。
「ええ、ええ。井辻さんのお宅ですが今は誰も住んではおらっしゃらないんですよ。若い人たちは知らないでしょうがね。お気の毒に奥さんは五年ほど前に旅行中に亡くなりましてね。昔は庄屋さんで、それは大変な身代でしてね。今生きておられたら、ループが出来てそれなりのもんが入ったでしょうに、先のことは分からないもんだとすじん(主人)と話しておるんですよ。ですが…」
「ああ、そうですか。ところで」と、木暮は話好きの店員の口をいったん閉めて貰うお願いをしなければならなかった。
このままでは、肝心なことを訊く前に新たな客が入ればどうにもならないからだ。
「たしか、井辻さんにはお嬢さんがいらっしゃったはずですが? 現在はどちらに?」
「ええ、ええ、美土里ちゃんでしょ。一人娘で、今は東京ですよ。美土里ちゃんはこの地区でも自慢の娘さんでしてね。学校はいつも一番で、東都大学に行っちょんなはるんですよ。うちの子とは保育園からの同級生ですがね。どうしてああまで出来が違うのかね、と主人とよく話しちょるんですよ。だいぶ前に盆の同窓会に戻って来ちゃったですが、なんでも大学を一番で卒業しなはったらしいですよ。息子が話しておりましたがな。息子の嫁に欲しいようなお嬢さんですわ。なにぶん、この田舎では嫁さんの来てがなくて…」
「そうですか、そうでしょうね」
木暮は、並木の顔とレストラン内を見渡して再び中断をお願いした。
「その時は、実家にお泊まりになったんでしょうか? それと、門に錠がしてありましたがどなたかが管理なさっておられるんですか?」
「いいえ、それがね、あなた。奥さんが亡くなってからは一度も。鍵は葬儀の後されたようですよ。旧家で先先代がおらっしゃった頃は親類もずいぶんあったんですがね。こんなことをいっちゃなんですが、美土里ちゃんの父親は若い頃に親に黙って結婚したことで勘当されておらっしゃったんですが、美土里ちゃんが生まれて許されたと聞いていますがな。それからまもなく病気で亡くならしたんですよ。それからしばらくして奥さんがやっと許されて戻んなはったんですよ。ですが、人付き合いはあんましいい方じゃなくて、親類付き合いはなかったようですがな。それですけ管理はされとりませんが…正直言いますと、近所の私たちも、亡くなった茂さん夫婦とはほとんど付き合いはなかったとですよ。たしか葬儀の年だと思うんですが、なんでも三瓶のキャンプ場で同窓会でしたから、キャンプ場でしたよ。私は行ったことがなかけどですが、なんでもいいとこだと息子が話しておりましたがな。目の前に山が…」
三度目の正直である。木暮は、
「そうですか。いやありがとうございました。参考になりました」
と、神妙に頭を下げた。
隣の並木も同じように頭を下げたが、その顔は笑っていた。たぶん苦笑の部類だろう。
レストランを出る二人と入れ替わりに、着いたばかりの団体客がにぎやかに横を通り過ぎた。
親切な主婦も、しばらくは仕事に専念することになるはずだ。
二人はおろちループに別れを告げると、再び車を三一四号線に乗せ松江方面に走らせた。
どうしてももう一、二件の情報を得なければならないのだ。、
「なあ、並木。親とは出来が違うようだが、実家には立ち寄った形跡はないようだな」
「うん。それに戻ってもあの屋敷じゃ広すぎるよ」
並木は、若い女性が一人で寝泊まりするのは寂しすぎると感じていたのだ。
「俺も話を聞いて思ったんだが、若い女が生活するのには十分な財産はあったようだな」
「だろうね。さっきの奥さんの話じゃ、遺産相続も問題はなさそうだしね」
「ああ。それと言葉もよく分かったよ」
「君が東京の人間だと分かって、気を使ってくれたようだったね」
「人情味溢れる島根の奥座敷って所だな?」
並木は木暮の言葉に、かつては裕福なお嬢さんだった美土里が、両親を亡くしても世間で良く耳にするいざこざに巻き込まれなかったようだと想像して、なぜかほっとしていた。
二人が次に向かったのは、やはりここならではの場所、『雲州そろばん伝統工芸館』である。
途中で並木が話したように、この地方は全国に名高い雲州そろばん(算盤)の産地だ。雲州とはもちろんこの地方をさす地方名である。ちなみに出雲とか雲州に当てられる「雲」だが、七百三十三年に編纂された「出雲国風土記」に「八雲立つ出雲」とあるからこの語源はとても古いようだ。
そろばんの産地は一に雲州、二に播州といわれ、現在雲州そろばんは全国生産額の七十パーセントを占める。さらに国の伝統工芸品にも指定されており、この産業がもたらす有形無形の付加価値は計り知れない。
並木は、ここを訪れるのは初めてだったが、専門は違っても館内の展示に興味を引かれたが、今日の訪問目的は違うし小暮の手前もある。二人は職員との面会を申し込んだまま、受付で佇んでいた。
レストランの従業員の取材とは違って、今度は並木が出る番だった。
ここなら、並木の名刺でことは済むはずだからだ。
「じつはこの人なんですが…今度、私どもの研究所で中途採用をと考えているのですが…それで少しお話をお聞きしたかったもので」、並木は木暮から預かっていた井辻美土里の写真を内ポケットから取りだして言い、続けた。
「もちろん本人には内密にお願いしたいんですが、なんでもこのご近所にご実家があるそうで…こうした地場産業にも関心があるような方を求めておりましてね」
「この方ですか…」、しばらく写真を見ていたが、
「ああ、これは井辻の美土里ちゃんでしょう。ですが、ここにはみえたことはないですがね。山田さん。あんたはどうです…?」
親切な職員は、受付の女子職員にも訊いてくれたが、答えは同じだった。
そろばん伝統工芸館を辞してから、三軒のガソリンスタンドと五軒の食品店、二軒の衣料店をまわったが、誰一人として写真の主をここ数年見かけた者はいなかった。
並木が腕に目をやると、時間は五時を回っていた。
「どうする?」と並木は訊いた。
「どうもここには戻ってはいないな…」
聞き込みには慣れっこの木暮も、いささかがっくりした様子で並木を見た。
足取りが掴めないこともあったのだろうが、年輩者の聞き慣れぬ言葉と話好きな人柄が、より木暮を疲れさせたのかも知れない。
レストランの奥さんは別として、七十を過ぎた人たちの方言は、並木とて理解しがたい難物だったからである。
「まだ、明日もあるよ。ひとまず帰るとするか。途中に僕の親しい友人がいるから彼にも頼んでみるよ」
並木のいう友人・松永は、同じ仁多郡にある民俗資料館の学芸員だ。
昨晩の内に彼の名を思い浮かべていた並木は、横田町で聞き込みをする最中に、すでに彼との面会を確約していた。
松永と会うのは三月ぶりである。正確には一年ぶりだ。というのは三ヶ月前には電話で用を済ませたからだ。
資料館は奥出雲(雲州)と呼ばれるこの地方独特の民俗文化や技術を展示・保存する町立の施設で、この地方の近世から近代初期の人々の暮らしを伝える。
並木が彼を知ったのは、三瓶地方の古い農家を紹介してくれないかとわざわざ松永が自宅を訪ねてきた十年ほど昔に遡る。
石見地方と出雲地方のたたずまいと歴史・文化の対比のためのようであった。
「やあ。並木さん、いかがでしたか?」
相変わらず人なっこい笑顔を見せる男である。並木はすでに、人捜しだと知らせていた。
並木は、松永には木暮を刑事と紹介し、今回の訪問を包み隠さず話した。
彼には隠す必要はないからだ。
「なるほど。この女性ですね? 私もあの旧家の奥さんが亡くなったのはよく知ってはいますが、娘さんまでは…。とにかく、何か分かったらすぐにでもご連絡を差し上げますが」
学芸員の松永が、古くからの地主であった井辻家を知っているのは当然である。調査・研究で頻繁に郡内を歩き回るからだ。
並木と木暮は、小一時間ばかりの雑談を済ませると、松永に別れを告げた。
松永からも、美土里に関する有意義な言葉は聞けなかったが、やがてその一年後、おだやかで素朴な人々が住む静かな山里で一つの事件が持ち上がることになる。
そしてそれが、木暮と並木が終生忘れることが無いほどの哀れな事件の新たな一ページになるのだが、もちろん今の二人に判るはずもなく、それは、出雲の神のみが知っているのかも知れない。
その夕刻に三瓶に戻った二人が、志帆を交えて明日の予定を立てている最中だった。
「プルプル、プルプル」
木暮の持つ腰の携帯電話が、珍しく鳴った。東京を出るとき、部下の工藤との打ち合わせは万全だったし、特別な用件がない限りこの三日間は鳴らないはずだった。
「うん? 嫁さんから?」、木暮はこう言い、耳に当てた。
この電話は貸与された物で、本来は仕事でしか使用することはないが、出張時などは家族との連絡に限っては使用が認められている。もちろん受けるだけだが。
「はい。私だが」と木暮。
並木と志帆は、木暮の話が終われば代わって貰うつもりでニコニコしている。
木暮の妻・千絵と志帆は、木暮と並木が気が合う以上に仲がいい。
しかし、案に相違して木暮の顔は険しかった。
「? どうした! なにかあったのか?」、怪訝な表情の並木が訊いた。
「?」、志帆も不安そうな面もちである。
そして顔を見合わせる夫婦の耳に入ったのは、とんでもない言葉だった。
木暮の口から出た言葉は、
「なに! 殺し!」だったのである。
驚愕すべき連絡は、妻でなく東京で走り回る部下・工藤栄一からである。
木暮は電話にかじりつくように続けた。
「なに! 女? その女のビデオが現場に?」
木暮と工藤のやりとりは数分続き、木暮は電話を切ったが、その表情は明らかに困惑の固まりと思えるものだった。
「なにかあったのか…?」、並木は先ほどと同じ言葉で訊いた。
「新宿で殺しだ! やられたのはスタジオ・ミロという写真店の経営者だ」
「さっき、『その女のビデオ』とか言っていたが…」
「井辻美土里…彼女のものと思われるビデオが押収されたんだよ!」
「井辻美土里! 彼女のが?」
「大次郎さん…どういうこと? その人が事件に関係が?」
二人が足取りを追っている女の名が、新たな形で出たことに志帆も驚きを隠さなかった。
木暮は一瞬ためらったが、
「こいつは志帆ちゃんに聞かせていいものかどうか…」と、並木にこう断ってから、工藤からの報を話し始めた。
事件のあらましは次のようなことであるという。
新宿は眠らぬ街である。
六月二十七日。一介のサラリーマンである道山忠夫はこの不夜城で久々の夜を堪能した。もちろん最初は、だが…。
道山は、給料で膨らんだ懐の暖かさに連れられたのだった。
彼が紫煙と体臭の立ちこめる薄暗いバーから、派手な洋服とそれに劣らない化粧の女に送られて、もつれる足と睡眠不足の目で狭い階段を上がったのは、始発電車が動き始める少し前の時間だった。
この通りは、繁華街より少し奥まった、いわば裏通りのためか見るところ道山以外の人影はないが、通りを一歩出ると雑多な飲食店が軒を連ね、彼のような男たちの姿がちらほら見えた。路上やビルの脇にはこうした店の残飯やゴミが異臭を放ち、酔った脳と胃袋を後悔もさせる。
道山もごたぶんに漏れずその気分を味わうこととなった。
「うっ…おえ」
それでなくとも二日酔いである。何とも形容しがたい悪臭が一挙に道山の全身を包み込み、道山は吐き気を催して傍の壁に寄りかかると全身を震わせて数回嘔吐して横転した。
その後、彼はだらしなく口を半開きにしたままふらふらと立ち上がると、今度はコンクリートの壁と壁に挟まれた路地に転がり込んで積まれたゴミの山に突っ伏した。
どれほどたった頃か良く覚えてはいないが、ゴミだめの中の道山のぼんやりとした網膜に一人の男が遠ざかって行くのが映っていた。
道山はゆっくりと首を回して、男が来た路地の奥を見た。
そして、ろれつの回らない口で叫んだ。
「か…か、火事だ」
道山はその言葉の後、ふらつく身体を転がらせるように大通りに投げ出した。
早朝の出勤者の通報で、消防車、救急車そしてパトロール・カーが現場に到着したのはおよそ七、八分ほど後だと思われる。
出火元は、五階建てビルの二階にある写真スタジオだった。
幸い緊急通行の妨げになる車両も少なかったことで消防車の到着が早かったのと、各階の防火扉が功を奏しスタジオ以外への類焼は免れた。
現場検証は、まだ消化液と大量の水が滝のように流れ落ちる室内で早くも始まっていた。
そしてその結果、一人の男の焼死体が発見された。
男は、司法解剖を待つまでもなく明らかに殺害されたと思われる遺体であった。なぜなら仰向けで横たわる半ば焼けこげた頭部のすぐ下、頸骨に凶器と思われるナイフが突き刺さっていたのである。
被害者は直ちに判明した。内田恒太(三十二歳)。スタジオ・ミロの経営者だ。
硬く握られていた拳の中で猛火から消されることを免れた指紋と床に守られた背中一面に彫られた入れ墨からである。
そして、工藤が告げた『その女のビデオ』も、二千万円の現金とともに、およそ何ものをも見逃さない目を持つ鑑識の捜査員によって、壁に仕込まれた秘密の金庫内から発見された。
しかし、金庫内から発見された物の中に捜査陣が首を傾げさせる物が一つあった。
「主任! このガラス片のような物は何でしょうね?」
手元に引き寄せて見つめる捜査員に呟かせたのは、まさにガラス片としか思えない、長さ二センチほどの真っ黒な物である。
警視庁は、所轄署・新宿署に捜査本部を設置した。
そして、酔っぱらいとはいえ、不審な人物を目撃した道山の証言から、その男を重要参考人とみて行方を追うこととなった。
ガラス片も科警研(科学警察研究所)に鑑定のため送られ、現在その鑑定結果待ち。工藤からの報は以上の連絡であった。
「それで、君はどうする?」
(工藤が連絡してくるからには、明日にでも東京に戻らなければならないだろう)と、並木は訊いた。
「いや、ますます井辻美土里の足取りを掴む必要が出た。明日にでも彼女の論文をこちらに送るそうだ。それを元に関連先を虱潰しに探す。わりいが三、四日泊めてくれ」
「それはかまわんが…なあ、木暮。さっきガラス片のような物が金庫内から見つかったとか言ったね」
「ああ、そうだが。 それが?」
「それが何かはいつ頃分かる? 結果がでれば教えてくれないか」
「ん? ま、そりゃ構わんが…なにか気になるのか?」
並木は、なぜかある遺跡を思い出していたのだ。
言うまでもなくそれは、W板尾第五遺跡Wであった。
この翌日も、昨日と同じように二人は足を棒にした。
二人は写真をもとに出雲市内から玉造温泉、そして松江にまで足を延ばしていた。
しかし、二人が追う井辻美土里の足どりは一切得られないままだった。
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