「黒い宝石」
 第三章
第三章
フィッション・トラック(ウランの飛跡)

通称・科警研とは、科学警察研究所の略である。
並木の勤務する地質研究所が火山や地質分野の専門機関なら、こちらは犯罪科学に関する総合的な研究をする機関で、千葉県柏市に所在する。
第一線で奮闘する木暮や、その他の捜査員の揺るぎない信頼がここにはある。
木暮によると、
科警研での主たる業務は、研究開発・鑑定・検査・技術指導であるが、業務の対象が広範で多岐に渡るため、医学をはじめ歯学・薬学・工学・農学さらに心理学・教育学などと、あるとあらゆる専門的知識を有するおよそ九十人もの研究職員がそれぞれの専門部門に配置され活動しているという。
中でも鑑定・検査は科学捜査の観点から重要な業務の一つで、都道府県警察から鑑定依頼があったものについては法科学第一部・二部及び付属鑑定所でその要望に応え、例えば、各都道府県で発生した犯罪でその過程で押収した銃器や弾丸などはすべて鑑定しているとのことであった。
並木が、木暮に訊いた“ガラス片”も、すでに鑑定が終わり捜査一課に戻っていた。
さらに事件を知らされた翌日、W並木宅気付Wで井辻美土里の論文のコピーが届いた。もはや事件は、単なるW気がするWという木暮のW第六感Wに拘ることもなかった。
また、木暮が会った井辻美土里が本人にせよそうでないにせよ、事情を聞かねばならないのだ。井辻美土里の行方は、竹見貢のそれと共に、都内でもすでに工藤が追い始めている。
「木暮。君たちは一体いつ休むんだ? 」
と、朝食を済ませた自宅食堂で並木が訊いた。
「俺たちか? 目を開けて寝ているよ。おっとこれは冗談だがな。心配するなよ。俺たちは身体は疲れるが、精神的には被害者やその家族に比べれば楽なもんだ。もっとも、嫁さんは大変か…」
並木の友人・木暮大次郎の信条は、
「俺たちがやらなければ、誰がやるんだ!」との真実を探し求める正義感と、人を思いやる愛情、そのものであった。
もちろんそのことは、並木にも通用するのは言うまでもないが。
志帆の入れてくれたお茶を一気に飲み干した木暮は口を「への字」にして考え込んでいた。小暮には、工藤との会話の中で(なぜだろう?)との思いを強く感じた事実があったからだ。
「どうした。気になることでもあるのか?」、木暮の顔に例の表情が浮かんでいるのを見て取った並木が訊いた。
「なあ、並木。お前さんはどう思う。なぜ、ビデオなんだ。他の女のはすべて写真だ。もちろん、どちらも脅迫に使われたのには間違いないだろうが…な」
木暮の経験からして、同一犯の手口はほぼ共通している。
このことから推測すると、井辻美土里の写真もあったと思われるし、上杉博司が井辻美土里を脅迫していたことは、ほぼ間違いはないはずである。
だが、こと井辻美土里に関しては、木暮の言うように他の被害者とは若干異なった点が少なからず見受けられたからだ。
「金庫の中は、彼女のものだけだったようだね。上杉はどう言っている?」
「上杉は逮捕されるひと月ほど前から竹見貢に会ってはいないようで、ビデオは竹見が勝手にやったことだろうとうそぶいている」
「殺された写真店の経営者とは?」
「カメラの購入や、焼き増しなどで二人とも繋がりはある。他のまともな店では出来ないからな」
「金は、脅し取ったものだけなのか?」
「二千万か? 何とも言えないそうだ。帳簿類はすべて焼けてしまっている。かりにその金がビデオに関しての金なら、井辻美土里は大変な金づるだよ。他の被害者のほぼ全員が五、六百万だ。もっとも五、六百万と言えば、女どころか男でも大変な金額だが…」
「それも独身で若い女性なら尚更だね…それはそうと、れいのガラス片のことはなにか分かったかい?」
「おお。そうだった。俺も驚いたんだが…待てよ」、木暮はメモ書きを取りだした。
木暮は、この日の早朝に工藤からの電話を再び受け取っていたのだ。
その連絡の中には、並木が関心を持ったガラス片の鑑定結果の一部含まれていた。
「えっと…。あのガラス片は、黒曜石だ。それも親父が生まれた白滝のものらしい。ひょんなことから白滝の名が出てたまげたよ。それと…」
その時だった。並木は、木暮の後の言葉も聞かず、
「黒曜石だって! ちょっと待ってくれ」、と驚きの声を上げて二階の書斎に駆け上がった。
志帆もその場にいて、夫の後ろ姿を木暮と一緒に見ている。
当の木暮は、ぽかんと口を半開きだ。
「志帆ちゃん…あいつどうしたんだ? 泡喰って」
木暮も生まれは横浜でも、父親の出身地である白滝が、我が国での黒曜石の有数の産地であることは当然知ってはいたし、黒曜石がその昔に貴重な生活を担った石器に使用されたことくらいの知識は十分持ち合わせていた。
しかしながら、父親も警察官で、転勤族の子供として生まれた木暮は、志帆のように頻繁に白滝には戻ってはいない。成人してからたぶん、二度ほどくらいなものだろうから、関心は持っていても知識としてはその程度でしかない。
だから、黒曜石がこれほど並木を慌てさせる物とは思わなかった。
木暮は、長い付き合いの並木が人の話の途中で席を立ったのを初めてみたのだ。
「おい。木暮、見てくれ! これが黒曜石だ!」
階段を駆け下りた並木の手には、黒光りするガラス質の小片が持たれている。
「お、それか…ところでどうしたんだ。たまげたぞ?」
「すまん。気の回しすぎかもしれんが、聞いてくれ! まだ結論は出してはいないが、僕の見るところではこれも白滝産だよ」
「?」
木暮は並木の言いたいことがよく分からなかった。
「お前さんが仕事柄で石に詳しいのは分かるが…その黒曜石が何かあるのか?」
「この黒曜石は三瓶で見つけたものだよ。それもあるはずのない地層からね!」
「あるはずのない地層? 三瓶?」
「そうだ。あり得ない事だよ。本来はあってはならないと言った方が正しい」
並木は一挙に喋った。
「もったいぶらずに詳しく聞かせろよ」
「これはね…」と、並木は数日前に志帆に話したことを再び繰り返した。
話し始めた並木の説明は、畑違いの木暮には、『フィッション・トラックとかウランの飛跡』などと難解な語句の連続ではあったが、木暮は一言一句も漏らすまいと耳をそばだてて聞いている。
「ということは、誰かがその板尾遺跡に捨てたか、隠したと?」
「そう考えるのが自然だし、理に適っているよ。あの地形は離れたところの遺物が土砂崩れや水の作用で集積するような場所じゃないし、この有舌尖頭器は一万五、六千年前か…あるいはもう少し古いかもしれないがね。とにかく白滝産と思われるんだ。それにこの形の石器は中国地方では使われていた形跡が全くないんだよ。とくにこの三瓶近辺ではね!」
「…」
「突飛な考えかも知れないが、井辻美土里は、三瓶とさほど離れていない仁多の出身だ。さらに、彼女のビデオと共に見つかったものは、黒曜石だ」
「ちょっと待ってくれ! お前さんがあんまり慌てていたから言いそびれたが、見つかった黒曜石から脂肪酸が見つかっているぞ」
「脂肪酸? 脂肪酸が付着しているのか!」
「脂肪酸?」と、先ほど片づけが終わり、話に加わった志帆がオウム返しに訊いた。手には、夫・眞吾が持ってきた黒曜石製石器を持ち、小首を傾げながらである。しかし、並木の声とは対照的な志帆の声だ。
無理もない。産地の話が妙なことになってきていたのだ。
「うん。脂肪酸だそうだ。なんでも、動物を解体したりすれば付着するそうだ。それも二種類のだ。マンモスと人間だそうだ。しかも人間の方は、つい最近のものと考えられるらしい」
「え!」
志帆が驚きの声とともに手にしていた石器を床に落として、慌てて拾い上げた。
数日前、『私たちの遠い祖先かも知れない人たちが使用していたのね』とか言ってはるか数万年前に思いを馳せていた志帆の顔が、今は怖ろしい物を見ている表情である。
「なあ、並木。恥ずかしい話だが、どういうのだ? その脂肪酸ってのは。まだ俺も詳しいことは聞いてはいない」
「脂肪酸か? 脂肪酸は、簡単にいうとあぶらだよ。すべての生物が持っている脂肪中に含まれている酸のことで、主にパルミチン酸やリノール酸といったものがあるが、その組成は、生き物の種類によって異なっている。そのため、抽質した脂肪酸を、分かっている他の生物の脂肪酸に照らし合わせれば、それがどの生物のあぶらなのかが判明する」
並木は、こうした用語の世界に生きる研究者であるが、小暮にとってはちんぷんかんぷんである。もちろん過去の事件に関係した事柄はよく知ってはいるが。
一般に刑事というと、万能のようであるが決してそうではない。
ましてや並木は理学部出身だが、小暮は法律学科である。
「うんー、なるほどな。そうするとルミノール(血液)反応などとは違って、ずいぶんと長く反応を保っているんだな?」
「ああ。宮城県の馬場壇遺跡じゃあ、石器に約二十万年前の脂肪酸が残っていた。ただ、この検査にも泣き所があって、検査時にでも他人のあぶらが付けば正確には判定が出来ない」
「しかし…かりに、脂肪酸さえ検出されれば、そこに遺体がなくてもあった確証が得られるわけか…」
「そういうことだね」
「なるほど…。お前さんのいうように、その石器に付着している脂肪酸が人間の物で、場違いな地層からでてきたってことは、十分事件性が考えられないこともないな…」
木暮は、そこまで言うとタバコに火を付けたが、くわえた唇が突き出ている。
並木は、書斎から持ってきた向居医師の報告書を食い入るように見て口を開いた。
「なあ木暮。金庫内の黒曜石のフィッション・トラック年代はどうだったんだろう。それと見てくれ。この黒曜石石器は、先端部分が欠けている。もしこれと繋がれば…」
「分かった。すぐに問い合わせる。しかしどういうんだ? もし金庫内の黒曜石が殺人かまたはそれに近い事件に使用されたとしたら、ずいぶんと変わった凶器だ。まるで犯人は原始人みたいな奴だな…」
正直言って木暮は、数多くの凶器を見聞きしていたが、こんな奇妙な凶器など見たことも聞いたこともないのだ。
新たな疑問の発生から、その日、木暮は帰京した。
帰り間際に、預かった板尾の黒曜石を見つめながら、木暮は並木に言った。
「山陰てのは、じつに不可解だがおもしろい所だな。神様やおろち(大蛇)だけでなく、縄文のスギに始まって、果ては原始人まで登場してくるが…」と。

金庫内のビデオの存在と、黒曜石。
そして、並木の持つ黒曜石との推測(もちろん関連はいまだ定かではなかったが、木暮の神宮への具申からである)から、間もなく井辻美土里の足取りは島根県警も関与することとなったのである。
並木が知りたかった情報は、木暮が帰京した翌日にもたらされた。
「おい、並木」で始まる知らせは、まさに並木の想像した通りであった。
木暮は、並木から預かった板尾の石器を科警研に持ち込み、金庫内の黒曜石片と合致させたのだった。
さらに、金庫内の石器のその先端はなお欠けていることも判明した。
「驚いたよ。お前さんが言っていたように間違いなく一万五、六千年前の物で、白滝のものだそうだ。それに有舌尖頭器だった」
「花十勝だね?」
「ああ。そう言っていた。だがな、こうも言っていたぞ。お前さんから預かった黒曜石は、ウランの飛跡が全く見あたらないがどういうことかってな」
「それは僕が知りたいくらいだよ。同じ石器なのに片方は飛跡があり、もう片一方はないんだ」
「脂肪酸のことはどう思うんだ? マンモスはこの際どうでもいいが、人間の脂肪酸となるとこいつは問題だ」
「僕が思うには、三分割…これが故意に折られたかどうかは分からないが、一つは熱が加えられ、今ひとつはそうじゃない。真ん中の破片には脂肪酸が付着している。これはどう見ても犯罪が絡んでいるとしか思えないよ」
「それについては俺も同感だ。科警研が今、血液型を鑑定しているようだがな。しかし、…どうして金庫なんだ?」
木暮はどっちが刑事だか分からないことを言い出した。
「…」
並木は沈黙せざるを得なかった。
この優秀な頭脳の持ち主の男でさえ、なぜ井辻美土里の秘密と共に、その石器片が有るのかが依然として分からなかったのである。
「並木、聞いてるのか?」
電話の向こうで、これもまた情けなさそうな声がしている。
「ああ…もちろん聞いてるよ。なあ、木暮。スタジオの経営者は、ナイフで殺されていたんだったね」
「そうだが…もっとも、ナイフの指紋は焼けて出なかったがな。手袋をしていたかも知れないしな」
「ナイフなら、誰にでも手に入れようとすれば入るね」
「そうだな。今時は中学生でも持っている時代だからな。殺害に使用されたナイフは市販のもので刃物屋や、デパートでも買えるよ。出所を当たっているが、こいつはちと難しいようだがな。ところで、黒曜石はすぐ手に入る物なのか?」
「その気になればね。しかし、石器となると素人はまず無理だよ。とくにあんな有舌尖頭器はね」
「造ろうと思えばできるだろ?」
「石器となると誰にでもという訳にはいかないよ。考古学や石器に詳しい人間なら造ることも可能だが、あの尖頭器は間違いなく本物だ。その時代時代、地域というのがあって、どこの黒曜石でもいい訳じゃないからね。とくに有舌尖頭器は北海道や東北に多いから、どうしてもその近辺産の黒曜石に限られる」
「なるほどな…」
「…」で、木暮の言葉は続かない。
「ところで、現場を立ち去った男のことは、何か分かったのか?」
並木にしても話題を変えるしかなく、重要参考人として行方を追う男のことを訊いた。
「道山というサラリーマン…火災の第一発見者だが、残念ながら後ろ姿しか見ていないんだよ。おまけに酔っぱらっていて、男の年格好さえも分からないしな。聞き込みでもこれはという情報も一切ない。すべてがお手上げってわけだよ」
木暮の声は、捜査の進展がこれ以上はないことを物語っていた。
並木は、その声を聞きながら井辻美土里の行方を追う中で発生した五里霧中ともいえるこの事件が、底知れぬ深みを持つのではとの危惧を抱くと同時に、静かな山間の遺跡で偶然にも手にした遥か昔の黒い宝石・黒曜石が、一万数年の時を越えた現在に不気味な輝きを放つのでは…。との言いしれぬ恐れを覚えていた。
旧石器時代の産物・有舌尖頭器。そして二十世紀の産物・ビデオ。
それは、あまりにもかけ離れた時代の利器であり、また出会いでもあった。

並木は、本来の仕事である研究所での仕事に忙殺される毎日に戻らなければならなかった。
彼は警察官でも探偵でもないからだ。
警視庁から要請を受けた島根県警が井辻美土里の足取りを求め、さらに暴行犯・竹見貢が全国に指名手配されていることは、木暮からも知らされていたし、機動性と組織力に頼れば、近い内にも何らかの手がかりは得られるはずだろう。
だが、そうはいっても並木から、事件への興味と木暮のために役に立ってやりたいとの思いが消えたわけではない…。
帰宅しても書斎に籠もる日がここ四、五日続いていた。
並木が追われている研究は、
『三瓶の最後の噴火は一体いつなのか? 今まで知られていたおよそ三千六百年前よりもさらに年代は新しくなるのではないのか?』である。
現時点では三千六百年前(縄文時代)が、調査記録として残る最後の噴火年代であった。
しかし、歴史はたえず書き換えられる。並木だけでなく多くの研究者が日々研鑚するからである。
並木がこの定説に疑問を持ったのは、三瓶山山頂のくぼみで見慣れぬ火山灰を目にしてからだった。
もちろん、厚さ数センチというわずかなもので、堆積する範囲も限られており、山腹や従来降灰が知られる多くの箇所の調査研究に没頭したが疑問を与えたその火山灰はどこからも見つけだすことは出来なかった。
「他では無理か…」
火砕流を伴わない小規模な噴煙を噴出するだけの噴火であったなら、周辺の降灰は長年の間の降雨に流されて形跡は消されてしまうからだ。
地質の年代を決定する場合、多くは放射性炭素測定が用いられる。
火山灰や土壌に紛れる炭化した木材などを測定するのである。
要は対比物がなければ困難なのだ。
並木は、こうした多忙な毎日の中で、
「先生、石器なら残りやすいでしょうが、山頂の火山灰は難物ですね」
との後輩・山路の言葉から、再び旧石器時代の遺物・有舌尖頭器を思い出していた。
「石器か…まてよ…尖頭器は熱の影響を受けているが、それはなんの熱なんだろう?」
並木は言葉に出したように、尖頭器の年代は金庫内の物との対比で分かったのだったが、もし、対比しなければ年代の判定は、はなはだ困難だった。
火砕流に巻き込まれてたり、旧石器人が火中に投じた場合は、フィッション・トラックが消え、年代がリセットされるからだ。
しかし、板尾で発見した黒曜石製石器はその恐れは消えた。
並木はそれに着目したのである。
なぜなら、三分割されていると見られる黒曜石は、全体が年代リセットされていたのではないからである。
「同じ黒曜石でも板尾のはリセットされているが、金庫内のはそうじゃない」
並木はそう呟きながら、本棚から黒曜石のバイブル黒曜石の蛍光X線分析とフィッション・トラック年代法≠ニ、今ひとつは、やはり著名な地質学者の黒曜石の表面光沢損失に関する熱の影響 ≠ニ題した論文を取りだして広げた。
並木が知る限りでは、この論文がもっとも最近の研究報告書である。
「えっと…白滝産…か」、まず目で論文の目次を拾った。
「………」
並木は、各地の黒曜石産地が記載されている数ページを丁寧に読んでいった。
やがて、目がある行で止まった。
「電気炉内での加熱では表面的な変化はないのか…」
並木にそう言わせた記述は、
『黒曜石を電気炉に入れ、五百度から段階的に上昇させてその変化を見たが、七百五十度においても黒曜石表面には何らの肉眼的変化が認められない』との旨の記載だった。
さらに論文は述べていた。
『 一般に、先史時代の遺跡から遺物として発見される「加熱された黒曜石」の熱源は、木の燃焼によるものと考えられる。そこで、次の実験として用意した黒曜石を蒸発皿に木灰を入れて試料(黒曜石)を途中まで埋め込み、木灰に接した部分と接していない部分の違いが分かるようにして、五百度から各温度で加熱検討した。その結果、木灰に埋め込まれていた部分は六百度以上で光沢が失われているが、木灰に接していない部分は、その光沢は已然として失われていない。また、この光沢の失われる条件は産地間の違いはおおむねないものと判断される』
『また、四百度、一時間の加熱において 黒曜石中のフィッション・トラックの完全消失を見いだした』
並木は腕組みで呟いた。
「なるほど…板尾の尖頭器は故意に加熱したものだろうが、たき火などで加熱したものじゃないな! 黒曜石製の石器など誰にでも手に入れることは出来ない。それに有舌尖頭器はとくにそうだ」
そして、金庫内にあった下半分には、人間の脂肪酸の付着である。
何ものかが最近になって根元部分を火中に投じた可能性が大なのだ。
次に向井教授が執筆した黒曜石のバイブルを開いた。
だが、論文で明らかにされたような記述は見られなかった。
「そうか、向居先生も最近は本業がお忙しいだろうしな…」
現在、客員教授として渡米している向居に並木は幾分か同情したが、歴史も科学もそしてすべてがめまぐるしく進む世の中であり、それぞれの分野でもその波が押し寄せているのを感じてバイブルを閉じた。

翌日に並木は、松江に足を運んだ。
行き先はS大の理学部だ。論文の検証をするつもりだったのだ。
並木は、姫島をはじめとする日本全国で発見された黒曜石の小片を持参した。
もちろんその中には、姫島産・隠岐産そして白滝産も含まれている。
並木は、知人の教授の協力を得た実験の結果が、論文と一致したとき、
(間違いなく犯罪が絡んだトリックに違いない!)と、確信したのである。
 この夜ー、東京の小暮は、並木からの電話を口をとがらせて聞いていた。
「なに! トリックだと!」
「そうだよ。トリックだ。考えてみてくれ、本来は板尾の黒曜石と金庫の中の黒曜石は一つのものだよ。それが千キロも離れた島根と東京で見つかっている。石に足が生えている訳じゃなし、誰かが運ばなければあるはずがない」
「そりゃそうだが、一体誰が何のためだ?」
「それは君が調べることで、僕にはそこまでは分からないさ。しかしな、どうもビデオと二千万円は切り離して考えたほうがいいのではないのか?」
「どういうことだ! 上はビデオをネタに恐喝をしたと睨んでいる。実際、上杉の供述で井辻美土里が被害者に違いないだろう。ビデオも人には見せられない内容だぞ。助教授を目の前にした若い娘が、あんなものを同僚の目に晒すくらいなら、金は出すだろうが! 美土里は金には困っていたわけじゃないぞ。それはお前さんも知っているはずだ!」
木暮の口調に熱がこもって、並木に向かってだけ言える、べらんめい調だ。
「じゃあ、黒曜石の脂肪酸はどう説明するんだ?」
並木も負けてはいない。
「あれか、あれは解決した。害者の内田恒太の脂肪酸だ。血液型はB型で一致した。他にも別人と思われる脂肪酸が付着していたが、発掘の時点で付いたらしい。科警研の話では、以前にお前さんが言っていたように、ほんのわずか、微量な脂肪酸の分析をするために、発掘の時点や検査段階で他人の脂がつく恐れがあると言っていた」
珍しくぶっきらぼうな言い方である。まるで並木に喧嘩を売っているようだ。
「殺された男のか…。たしかに取り扱いは十分な注意が必要だがね。しかし…」
「なあ、並木。科警研のことはお前さんも良く知っているだろう。科警研は、お前さんのクローンが百人もいるのと同じくらい優秀なスタッフ揃いだぞ。連中の鑑定をひっくり返すなんぞ、今の俺に出来る訳がないのは判るだろ!」
木暮は並木の気持ちはよく判っていた。が、その鑑定を覆すのはそれ以上の確実な証拠ー例えば内田以外の人間と同じ脂肪酸を持つ遺体などがなければ、どうにもなるものではないのだ。
それに今のところは死体どころか生きた人間(井辻美土里や竹見貢そして、内田恒太殺害犯)でさえ見つけることが出来ないでいるのだ。
「…」
「もちろん、それならなぜあんな石ころ…おっと、黒曜石か。そんじょそこいらでは手に入らない石器の片割れが後生大事に金庫にあるのかは説明など出来ないがな!」
並木は、木暮の言いたいことが今、初めて分かった。
木暮もあくまで並木の意見ー犯罪の証拠と睨んでいることが…。
木暮は隠密理に捜査を開始するつもりであったのだ。
「その件はよく分かった。木暮、少し調べてみてくれ。スタジオ・ミロの殺人は、大学関係者かそれに近い人間のような気がする」
「なぜだ?」
「残留脂肪酸のことを除外しても、何かのトリックで石器が使われているのは間違いないはずだ。その証拠は遠く離れた二つが一致することと、板尾の石器だけがウランの飛跡が消されていることで証明できる。さっき話したように電気炉か、それに類似するものでわざと加熱したに違いない」
「お前さんの言う、フィッション・トラックのことまでもを知っているのは素人じゃないってことか?」
「そうだ。それと、それだけの知識がありながら、どうして焚き火などに投げ込んで黒曜石と判断出来ないようにしなかったかだ。僕の最大の疑問はそれだよ。それをしなかったのにはそれなりの理由があると思うんだ」
並木は、黒曜石が木灰に接して加熱されると、約六百五十度でその全体が白っぽくなり、さらに高温に晒されると餅がふくれたように発砲し始めることをも話していたのだ。
発砲した黒曜石なら石器と判断することはまず無理であり、板尾遺跡で発見されても、なんの不審も持たれなかったはずだ。
もちろん、並木をはじめとして、全員にだ。現に出土した縄文の地層からは、二、三箇所の炉の跡も見つかっていたのだ。
「分かった。お前さんが言うように金が石器に絡むとしたら、ビデオの件はどう考える。まさかあのビデオもトリックなどと言うんじゃないだろうな?」
「なに? 木暮、いま何て言った! たしかビデオがトリックと言わなかったか!」
「ああ。そう言ったが…それが何かあるのか? おっと待て! 人が違う? 別人… そうなのか!」
「そうだよ! それに違いない! だから死んだはずの人間が君の目の前にいたんだよ!」
「だから姿を隠したのか!」
「ビデオの女が君が会った井辻美土里と思われる女だ。マンションで会った女が井辻美土里の偽物としたら、君が違和感を覚えた訳も頷けるぞ!」
「なぜ、井辻美土里だけがビデオだったのか! そうだな!」
「そうだよ! しかし、そうなると本物の美土里は…」
並木は、背筋が凍り付くような不気味さを覚えた。
それは、通称″殺人課とか殺しの一課″と呼ばれる警視庁捜査一課所属・警部木暮大次郎でさえ同じであった。
だが、二人が感じた不気味さは、それに輪を掛けた驚愕の事実の単なる入り口でしかなかったのである。