「爪の記憶」
    〜マニラから来た女



登場人物
並木 眞吾         国立地質研究所・技官
志帆        眞吾の妻
小暮 大次郎       警視庁捜査一課・警部
  松田 誠一(旧姓・上原) 並木・小暮の友人で松田興業社長
麗子 誠一の妻
工藤 英一        警視庁捜査一課・刑事(小暮の部下)
スーザン        松田のかつての恋人・フィリピン人
ミランダ フィリッピン人のダンサー
向居 信         松田興業の社員 
野上 島根県・大田署の刑事
高須          食品会社社員
塚本 広島県警・警部(小暮の同期生)
  林・新藤 塚本の部下で広島県警・刑事


目次
プロローグ
第一章 消えた女
第二章 紅葉の中で
第三章 新たな疑惑
第四章 上原誠一
第五章 十五番の女
第六章 matue sta
第七章 深まる謎
第八章 スーザンとミランダ
第九章 崩れたアリバイ
第十章 姶良Tn火山灰
エピローグ





プロローグ


 この地は、かつて大陸と陸続きであった。
 ウルム氷期と呼ばれる最後の氷河期…。
 大陸氷河は地球上の全陸地の三十パーセントを覆いつくし、北半球のヨーロッパでは、のちにベルリンとなる辺りまでをも、そして北米大陸ではニューヨークまでもが分厚い氷の下であった。
 天文学的な重量の氷と、すべてを隠し去る白い雪は、その地に生あるものの姿を見いだすことを頑なに拒み、荒涼とした死の世界を形成していた。
 だが、これらの両大陸から遠く隔たった日本列島では、氷河は北海道の日高山脈と日本アルプスの最も高い山頂を覆っていたにすぎなかった。
ウルム氷期は、日本列島をとりまく日本海の海面を百メートル以上も下げ、朝鮮半島との間に出来た陸橋から渡ってきたナウマン象や多くの動物をこの大地にすまわせ育んでいった。
彼らは、広大な窪地に生える豊かな草をはみ、生を謳歌していたに違いない。
ときおり起きる野火が、この楽園を包み込むように連なる、はるか彼方の緩やかな山並みを煙で霞ませた。
季節はこの地にゆっくりと、だが確実に深まりゆく季節を届けはじめ、動物たちも敏感にそれを感じとっていた。今、そんな窪地の中を、長く腰まで伸びた真っ黒な髪を持つ、いかつい姿の数人の人間が、奇妙な隊列を組んで歩いていた。
 身にまとったものは、肩から腰にかけて巻いた、毛皮と思しきものだけである。イノシシか熊の毛皮であろうか…。
彼らの後ろ姿から男と判断できることは、生まれてこのかた櫛など一度も通したことのないはずの、くしゃくしゃの頭髪の間から見える広い肩と、毛むくじゃらの太股だけであった。
 日課である狩りに向かうのだろうか、手に手に持たれた粗末な棒の先には黒光りする黒曜石が縛り付けられている。大股で進む裸の足は、背の低いコメツガの低木が覆い茂る大地を力強く踏みしめ、氷河期を生き抜く男たちの力強さを示していた。
道などはなく、もしあえて言うならば、男たちの追う獣たちの道ーすなわち、けもの道だけであったろう。
男たちが前進する両側には、ツガやトウヒ、モミなどの亜寒帯針葉樹林で覆われた深い山地と、カバノキの林が混在した森が見渡す限り眺められた。
男たちの行く手には、一キロも歩けば必ずと言っていいほど、奥深い山中から流れ出る清水が見られ、イワナやヤマメといった魚たちを提供してくれた。
 そして、三枚の葉を持つエンレイソウが咲き誇る草原は、巨大なナウマンゾウやオオツノシカ、オークロスなどの貴重な恵みをこの山野に暮らす狩人たちにふんだんに与えてくれた。
 この地は、男たちとその家族に、まもなく訪れ来るより厳しい寒さから身を守る新鮮な肉と毛皮を提供してくれるのだった。
もちろん文字などはなく、仲間内で話される言葉は、意思の疎通に使われるほんの最小限ー生きるためだけにあった。
経験がすべての社会であり、ナウマンゾウや巨大な熊との死闘の中にあっても、このことを知る限り、人間と自然が何の違和感もなく共存できた時代であったろう。
ねぐらと呼べばいいのだろうか…。澄んだ湖の畔におおいかぶさるように突き出た岩山にうがかれた洞窟が、彼らの住まいである。
この地が、彼らにとっては移動の必要がないほどに豊富な食料を提供し、ここでの定住生活が長いであろうことは、少し離れた所に日常に費やした物ー獣骨や魚骨といったものが堆く積まれていることからも容易に察せられた。
 何時の時代も子どもたちは元気なものである。
 洞窟の住処から湖に続く固く踏みしめられた砂地の道を、丸裸にひとしい子供たちが首に蔓の首輪をしたイノシシの幼獣を相手に走り回る姿は愛らしいものであった。
だが、大人の男や女たちはいうに及ばず、森の生き物たちにとってもこの時期が一年のうちで最も充実し、かつ多忙な季節でもあった。
 獣たちは、迫り来るより厳しい季節を乗り切るための皮下脂肪を貯える必要に迫られたし、男たちは家族と仲間が飢えないように、肉と毛皮を必要とし、森と草原に分け入った。
女たちも、ネズミより先に種々の木の実を求めて、やはり森と草原に分け入った。
忙しい中にも全員が協力する秩序がすでに芽生えていたに違いない。
こうした連帯は代々続き、彼らの強固な関係を構築したことであろう。
そんな穏やかな一日が、暮れなづむ丘の向こうから戻ってくる、獲物を担いだ一団の男たちの姿で終わろうとしていた。
だが、このような日々を生き抜く彼らに決して理解できないことが起こりつつあったのだった。
ー経験豊かな長老でさえ分からないことが…。
ときおり、地の底からわき出る不気味な地鳴りと、大地を揺さぶる地震であった。
 しかし、日を追って頻度を増すこの不思議で奇妙な現象に対処できる者は誰一人としているはずがなく、ここに、旧石器時代の人々の目に毎日映り、豊かな穫をもたらしてくれた広大な窪地が、大地と空間を揺るがす大音響と激しい噴煙と共に、大爆発を起こしたのである。
高度一万メートル以上に達した噴煙の中で、火山灰粒子はすさまじい稲妻を発生させた。しばらくするとその噴煙の柱はまるで腰が砕けるように崩れ落ち、数百度に上る高温のガスは火の玉となった岩石片をともなって、まるでこの世界の総てを焼き尽くすがごとく、時速百キロを越える猛スピードで横に広がって行った。
 その雲の塊のような火砕流と紅蓮の炎は、標高千メートルを越す山という山、谷という谷のすべてを飲み尽くし、昨日まで聞こえた可愛らしい子供たちの笑い声と、乳飲み子を抱いた女たちの姿をも永久に消し去った。
野山を疾走しながら狩りをする男たちと、その獲物にとっても例外はありえなかった。
 たぶんそれは、ほんの一瞬のことであったろう。
やがて、全天を隠し去る巨大な噴煙柱の頂部の火山灰は、徐々に形を整えつつある日本列島の上空を、中緯度偏西風により千キロを越す遠方に吹き送られていった。
成層圏にまで達した残りの火山灰は長くそこに滞留し、地上のすべての生あるものへの恵みである陽光を遮り、気温の低下をもたらした。
まさに、南九州はいうに及ばず、九州全域を壊滅状態に追い込んだのである。
この地で生の息吹を上げているものは何もなく、突然で傍若無人とさえいえる大自然の営みが終焉したとき、そこに残されていたものは、軽石と火山灰が混ざりあった、「入戸火砕流」と呼ばれる数十メートルにも堆積した、真っ白なシラスに埋め尽くされた荒涼とした不毛の大地だけであった。
そして、氷河期の終わりの海進と長い年月は、このすさまじい大爆発を起こした直径二十キロもの大カルデラを海の底へと隠し去り、やがて二万二千年の時が流れていった。
南家明の小説コーナー
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