第九章
崩れたアリバイ

その日から六日後、松田誠一は釈放された。
誠一が語った釈明の言葉と、全員が足を棒にした成果だった。
妻・麗子の動向を探る誠一のアリバイと、同じように誠一を追った麗子にも疑うべくのないアリバイがあった。
久々の松田夫婦の笑顔を見た木暮は、釈放を共に喜ぶとともに、真犯人逮捕を二人に固く誓って県警に戻った。
だが、県警に戻った小暮を待っていたのは、塚本の沈痛な顔だった。
 鑑識に回された手紙からは、指紋どころか封筒や文字の打ち込まれた用紙の出所さえも特定出来ずにいたのだ。
かろうじて判明したのは、ワープロの機種が大手メーカーのものですでに製造は中止されており、全国で数十万台が販売されていたことだけだった。
ここ広島だけでも数万台があるはずで、追跡は到底不可能と思われた。
事実、ここ三日間の市内の電気店での聞き込みでも何の成果も得られてはいない。
「切手から、血液型の採取もだめだったよ。相手は、相当に注意深い奴だ! それにワープロから追うのも無理のようだな」、鑑識からの報告書を木暮に見せ、塚本が憎々しく言った。
ふつう、切手を貼る時はほとんどの人が切手の裏を嘗めて貼る。が、犯人はそれにより唾液が検出される事を知っていたかのようである。
「そうか…ま、必ずしも市内に住む人間とは限らないし、思いこんだ捜査は、かえって混乱を招く」
「ところで警部。向居はもとは松田さんの上司でしたね」、工藤が木暮の言葉に口を挟んだ。
「向居には、松田は相当世話になったようだな」と木暮。
「ああ。それだけ松田さんのことをよく知っていると思うがな」
「ところで向居のことで新しいことは?」、木暮は、塚本の部下が向居の故郷である大山に行ったのを知っていて訊いた。
「そろそろ戻るはずだ。先ほど電話があった」
「何かを掴んでくれればいいがな」と、小暮。
「松田さんの話では、向居は松田さんが結婚した後、すぐに代理店を辞めたらしい。その後、半年ほどして日本に帰り横浜で職を転々としたそうだ。歳は、俺たちより八つ上の五十一だ」
「それは俺も松田から聞いて知っているが、なぜ急に代理店をやめたのかは松田も知らないらしい。ただ、向居がいまだに独身なのは、何か思うところがあったのではないかと言っていたが…。向居を採用したのは、彼が働かせてくれと突然訪ねてきたからで、十四年近くも音信不通だった向居の訪問に面食らったと言っていたがね」
「松田さんと向居は、昔も今もトラブルなどは一切ないようだが…」
「そのようだな。採用にしても快諾したようだし、むしろ松田は、向居に感謝をしている様子だ。ただ、Mというイニシャルの件には引っかかると言ってはいたが」
木暮は、向居の人となりはよく知らなかったが、松田誠一が感謝する男の帰国してからの行動に、なぜかしっくりとこないものを感じていたのである。
この思いは、塚本も同じだ。
「向居の動きだが、ミランダ失踪当日は会社が休みで彼は実家に帰っている。行き先は大山だよ。すでに両親も亡くなって生家が残っているだけらしいが、墓参りや家の周りの片づけなどにはよく帰っているそうだ。その日もそうらしい」
「ほうー、なかなか感心な男ですね」、工藤が、(へえー)といった表情で言った。
その折、
「おっ、帰ってきたぞ。おい、林君、進藤君。戻ったところすまんが来てくれ」、刑事部屋に入って来た二人の刑事を塚本が手招きして呼んだ。
林・進藤の両刑事は、四日ほど前から向居の足取りを追って、東京と鳥取に行っていたのだ。むろん管轄するそれぞれの警察署の協力を得ての話だ。
二人の報告は、ミランダ失踪の十日前から遡っていた。
「向居は、八月の二十日に町田市で松田興業の古くからの顧客に会っています。そこでの担当の話では、向居とは当日の六時頃に別れたそうです。その夜は、松田興業に提出された領収書と報告書通り、新宿のホテルに向居は泊まっています。西口駅前のビジネスホテルで、十一時頃に入っていますね」
「遅いですね。一人ですか?」、木暮は進藤から渡された報告書を見ながら口をゆがめて訊いた。
書かれた内容は、日にちが若干前後するが、向居の行動が克明に書かれたものだ。
「ええ。その時の事情を向居に訊きましたが、東京は久しぶりとのことで飲み歩いていたそうです。しかし、残念ながら立ち寄った店の特定は出来ませんでした。ご存知のように飲み屋が軒を連ねて、当の本人でさえ店を覚えていない始末ですから…。次の日は早朝に新宿を発ち、中央線で国立市の得意先の芸能プロダクションに顔を出し、こちらに戻っています」
「そうですか…。どうも飲み屋の件はあてにはならないようですね…。町田からは一時間ほどで新宿です。そうすると七時過ぎには着いているでしょうから、その足で高須と待ち合わせて手帳を渡すことも十分に可能でしょうね」、唇を尖らす木暮に続いて工藤も相づちを打ち、言った。
「高須の会社は立川市にありますからね。新宿と立川は目と鼻の先ですよ」
東京に住む木暮と工藤は、こうした場所の地理と時間が手に取るように想像できたのだ。
「次に東京に行ったのは、十月二十日です」
「やはりそうですか」、木暮は大きく頷いた。
 この日は、高須が殺害された日である。
「向居は新規の顧客を開拓する名目で、町田に行っています」、進藤が説明した。
「先回と同じ行動を取ったのですね」
「そうです」との林の言葉に、その場の全員が無言で頷いてる。
なぜなら、向居の八月の町田市行きは、高須殺害とミランダ殺害を決行する事前の下調べを兼ねると考えるに、十分な行動と考えられたのだ。
「高須と向居の関係は、何か分かりましたか?」
「いえ、それなんですが…」、木暮の問いに、林と進藤が浮かぬ顔を見合わせた。
「現時点では、二人に接点が見つかっていません。立川の居酒屋で向居の写真を見せたのですが無駄でした」、そう答えた林が唇を咬んだ。
「そうですか…。ま、確認できたとしても、本人は当然否定するでしょうからね」、木暮は二人の苦労をその言葉で慰めていた。
「林君、大山の方はどうだった?」、塚本が大山での報告を求めた。
「はい。向居は、ミランダが失踪した九月一日、二時頃に着いています。これは確認が取れていますし、その後、墓参りに出かけています」
「母親の命日らしいね」、塚本が考え込むように呟いた。
「そうです。それと先ほど言いましたように、実家は誰もいませんが、隣家で、と言いましても五十メートルほど離れてはいますが、花を貰っています」
「そうか。で、その後は?」
「一時間ほどで戻ってきて、礼を言うために隣家を覗き、家に帰っています」
「不審な行動は見あたらないのですね?」と、工藤が首を傾げて訊いた。
「ええ。全くありません」
「外出などもないのですか?」、そんなはずはない、と木暮は思いながら訊いたが、林はあっさりと否定した。
「隣家の主婦の話では、向居が来た時は、いつも夜遅くまで電気がついているそうですが、その夜も同じで、一切外出した形跡はありません。寝る前にも、乗ってきた車ー白の乗用車ーが車庫の前にあったそうです。車庫の前に街灯がありますから間違いないでしょう」
「車庫? 車庫があるのですか?」
木暮は言った後、いつもの癖を見せていたが、
「何時頃に車を確認したんでしょう?」と、先を続けさせた。
「なにぶん田舎ですし、年輩の夫婦です。床に就く前に便所の窓から見たそうです。時間は十時です。その時間に寝るのが習慣だそうですから。私もその窓から確認しましたが、そこからは向居の家がよく見えました」
「しかし、真夜中に出かけて、早朝に戻れば誰にも気づかれないですね?」
「ですが、夜が早いぶん朝も早いですから車が戻れば気がつくでしょう。国道に出るには、隣家の庭先を通らないと無理ですよ」
「それに朝にも車は同じ場所にあったと証言しています」と、進藤も木暮の質問に若干ムキになって口を挟んだ。
「車は一台とは限らない! それに向居には足が生えているだろう!」
聞いていた塚本が(推測でものを言うな)、といった口振りで、それとなく若い部下に注意した。
「はあ…」
「はい」
「それはそうとして、その日の翌日は、隣家の夫婦は向居を見たんでしょうか?」
「はい。近くの診療所に出かけて、戻ったのがお昼前だそうですが、そのとき庭先で見かけたそうです」
「診療所? 隣の夫婦はそろって出かけたんですか?」
「三日に一度は夫の運転で診察に行くそうですが」
林は答えてから進藤と顔を見合わせた。二人のその顔は、幾分うつむき加減だった。
「戻ったのは昼過ぎか。そうすると…前日の十時過ぎから翌日昼までは夫婦には見られてはいない。木暮、こいつはひょっとすると…」
「ああ、すくなくとも三瓶までは楽に往復できる時間はある…」
林が用意した机の上の地図に全員の目が注がれた。
地図は、中国地方全域が記載された上に、非常に詳しいものである。
木暮が、塚本を初めとして林・進藤に話した推理は、次のようなものだった。
「三次で手帳をわざと落としたり、マンション前に車を目立つようにしたのは高須だろう。電話は向居がしたはずだ。的江という名前を言ったとしても、知らない人間ならミランダも簡単にはのっては来ないだろうからね。知り合いに迎えに行かせるとでも言って、高須の車に乗り込ませ、市内か五十四号線のどこかで落ち合って大山に向かった。そして、ミランダをトランクにでもかくして実家に向かったんじゃないだろうか」
この考えは、確信に近いものだった。
しかし、ミランダを殺害したのが向居にしても高須にしても、その動機が依然として分からなかった。
さらに輪を掛けた謎は、向居と高須との関係である。
実際、山仲間の松田誠一でさえ、高須博司とは二十数年も会っていなかったのだ。

木暮と工藤はその日、東京に戻った。
だが、その二人を待っていたのは意外な事実だった。
「お帰りなさい、警部。実は妙なことが分かりました」、待ちかねたように言ったのは部下の刑事だ。
「妙な? というと?」
「例の高須が入っていた、山岳会のコマ草会ですが、八月の初め頃に男の声で『高須博司さんの住所を教えてくれ』との電話があったそうです。その男が言うには、『以前、山でお世話になったのでぜひ会ってお礼がしたい』と、言ったそうで、事務局は彼の自宅の電話番号を教えたそうです」
「ほうー。それで電話の主の特徴は?」
待ちに待った情報だった。
「声は落ち着いた感じで四十〜五十歳台ではないかと。それ以上のことは…」
訊かれた刑事は、首を横に振った。
「…たぶん高須殺害に関係した男だろうが…、しかし、妙だね。それまでは面識がなかったのだろうか?」、木暮は首を傾げて言った。
「警部はその男が、本当に山で知り合ったと思われますか?」と、隣にいる工藤。
「いや。たぶんでたらめだろう。だが、山に行くことはあったかも知れない。ドクツルタケのこともあるからね。それに、もしミランダを眠らせて現場に連れていったとしたらそうとうな体力が必要だ。女といっても四十キロはある。柔な男ならとうてい運べないからね」
 木暮は三瓶の発見現場を思い出して、言った。
「そういえば、たしか松田さんも体格がよく、山が得意だったと聞きましたが」と、釈放になった誠一の話題が昇った。
同僚刑事の言葉を借りれば、当時広島県警で誠一が疑いの目を向けられたのも、山行きで培われた体力のこともが要因の一つと見なされた事も否めなかったのも事実であったのだ。
彼の言葉に対して、向居の頑強そうな体格を知っている木暮は、(向居もな)と呟いた。 もちろんその言葉は、口の中で、である。
もっとも、ミランダが現場で殺害されたことは、科警研での鑑定で証明されていたのだが…。
「ところで警部は、高須の殺害に使われたキノコの毒は、三年前のヒントにしたものでは、とおっしゃいましたが、私は犯人自身がもともとその毒のことを知っていたんじゃないかと…そんな気もするんです」
「もともと?」
「はい。というのは、もし山に行くような男なら知っている可能性が大だと…」
「うん。それも一理あるが」、木暮は否定はしなかった。
「それと、もし向居が松田さんと高須の関係を知っていたなら、わざわざ“コマ草会”に高須の住所を尋ねるなどはしないと思うんですが」
「たしかに君が言うように向居は松田の会社の人間で、重要なポストを占めているし、家族とも仲がいい。最も信頼されていると言ってもいいだろう。だが、向居は高須と松田の関係に気づいていたとしても、同じように事務局に問い合わせたと思う」
「…」
「この犯人は、とにかく回りくどい事が好きなようだ。松田が、高須のことを向居に話したことがあると分かれば、誰でも向居に目を向ける。だからそれを計算に入れたはずだ」
「では、すでに高須のことを知っていて、わざと訊いたと…」
「ああ。だろうね。だが…気になるのは、松田は高須のことを、奥さんの麗子さんにも従業員にも一度も話したことがないそうなんだ。向居を含めてね」
捜査は、季節も変わろうとする大都会・東京と広島、そして島根県・三瓶の一都二県で難航していた。
依然として、被害者の頭部も発見されてはおらず、数度の向居に対する任意の事情聴取も空振りに終わっていた。
むろん、広島県警の林と進藤の両刑事が調べた、向居の足取りを新たに追う木暮にも何らの進展は望めなかった。
木暮はメモを睨んでいた。
(向居が何らかの手段で手帳を手に入れ、高須に手渡し、その協力によってミランダを殺害した。そして最終的に秘密を知る高須を立川で殺害したに違いない)と、木暮は心の中で、この推理に確信を持ってはいた。
立川での犯行は時間的にも、アリバイの不確かさでも可能であった。
だが、何の証拠もなく動機も分からないのだ。
胃がきりきりと痛むようであった。
捜査は壁にぶち当たっていた。
大山の実家における九月一日夜の向井のアリバイが崩せないのだ。
「深夜までテレビを見ていた」とのアリバイだ。
たしかに、深夜に外出した向居を見たとの目撃情報もなく、向居は、県警本部での事情聴取で、目の前に広げられた新聞の番組欄を見ながら、その夜の内容を手に取るように説明できた。さらに再放送された番組は一つもなく、以前に見ることは出来なかったのだった。
だが、そうだからといって、当夜にその姿が自宅にあったという証拠にもなりはしない。
高円寺に住む木暮は、新宿署に立ち寄った後、自宅で疲れ切った身体を横たえて、ぼんやりとテレビを見ていた。
仕事柄、ニュース以外はほとんど見ることのない木暮も、唯一好きな番組があった。しかし、今はもちろんそれが見たいので家にいた訳ではない。
木暮は、妻に頼んでおいたビデオを見ながら、
「誰でもビデオの録画くらいの知識を持っている。奴もそれに違いないがな」と悔しそうに呟いた。
さりながら、向居がビデオを買ったという形跡はどこにもなかった。
「うんー」と唸る木暮が、画面を真剣に見ていたどうかは分からない。
そんな折であった。
「プツ」という音とともに室内が暗くなった。
真っ暗な中で、消えたビデオ画面の青白い残像が、テレビ画面の中に小さく吸い込まれて行った。
停電である。
「ん?」、呟く木暮が見た窓の外も真っ暗だった。
「風もないのに、どうしたのかな?」
その瞬間、木暮は自分の言葉に強い衝撃を受けて声を上げたのである。
「待てよ…風、そうだ風だ! あの頃、中国地方は台風が上陸していたはずだ!」
二ヶ月ほど前に木暮は、山陰、とくに日本海側に猛烈な暴風雨をもたらした台風を心配して、並木と上原に電話をしていたのだ。
真っ暗な部屋の中で、木暮の口は堅く結ばれていた。

翌夕。
木暮は再び工藤を伴い、山陰に向かう車中にいた。
友人・並木が住む中国地方を襲った台風の情報を気象台で確認した彼の記憶は正確であったのだ。
台風は、かつて一九五四年に、全国に甚大な被害をもたらした洞爺丸台風とほぼ同じコースをたどるように、九州北部から鳥取県東部を猛烈なスピードで通り過ぎて行っていた。
小暮のいう、山陰を直撃した台風十九号は、九月一日の深夜から翌朝にかけて中国地方を暴風域に巻き込み、特に鳥取県東部に多大な爪痕を残して日本海に抜け、遙か海上で温帯低気圧となり消滅していた。
木暮は、向居の住む地域の停電を想定したのだった。
彼の見当は的中した。
電力会社への問い合わせの結果、鳥取県関田町一帯でおよそ一時間ほどの停電があったことが判明したのである。
正確には十二時半から翌日・一時二十五分までであった。
それは、
「翌日の二時頃までテレビを見ていたんですが、おもしろくてついつい遅くなりましてね」と言う、向居のアリバイの一画が崩れた瞬間であった。