第一章
消えた女
久々の快晴である。
ここ五日間降り続いた雨も上がり、近所の子供たちの弾んだ声が、階下の通りで聞こえる。この土曜日・日曜日・月曜日の三連休を心待ちにしていたはずだろうし、何よりも晴天が嬉しいのだろう。
だが、子供たちが喜ぶ全国的に浸透する週休二日制も、太田川を見下ろす川沿いのマンションの三階の部屋に住むミランダは、望んではいなかった。ましてや今回は三連休なのだ。
ミランダは、中国地方最大の都市である広島の歓楽街・八丁堀で働くダンサーとして、フィリピンから来日した女である。
仕事を休めば、たとえ身体は休めても、三日間の貴重な収入が減ることは、母国で待つ寝たきりの母親に一円でも多くの送金をと、考える彼女にはむしろ邪魔でさえあったに違いないからだ。
もちろん、週休二日制が彼女たちにあるわけではないが、彼女の働く高級クラブ「クラブ・シャトーラ」も、こうした連休は当然に客足も遠のく。
そういうわけで今回の休みは、実際のところはシャトーラの日本人従業員の慰安旅行があるための休みのようだった。
子供たちの声に、机に向かっていたミランダは手を休めて明るい日差しが差し込む窓の外を見ていたが、直ぐに熱心とも思える表情で両手を動かし始めた。彼女はワープロの練習に余念がなかったのだった。
ミランダは、日本での本来の目的を果たし、帰国した時のことをすでに考えていて、これからの必需品ともいえるワープロを購入していたからである。しばらくすると、子供たちの声が遠ざかり、代わりに隣の部屋から聞き慣れた音楽がミランダの耳に僅かに聞こえてきた。
同居のビビアンも、この連休をミランダと同じように自分なりの趣味で楽しんでいるようだ。
「プルプル…プルプル…」
ミランダの耳に、軽音楽に混じって電話のベルが聞こえた。玄関先にある電話だ。
もちろん電話は、彼女たちの興行主である松田興業のものであるが、この部屋に電話を引いたのも社長の松田誠一が若い彼女たちの日常生活とその気持ちをよく理解していたからだった。
ミランダたちのチームは、八名のダンサーがいる。
やはり、ミランダとビビアンのように二名ずつの部屋だ。そして、どの部屋にも電話はすべて引かれてる。
と言うのも、異国である日本で暮らす彼女たちが、例外なくホームシックにかかり、そのためにマンションから少し出たところの公衆電話からしばしば高額の国際電話をしていたことを、松田誠一が知っていたからである。
各部屋に電話をひいたことで、彼女たちの母国への連絡が少なくなったことは、誠一には頷ける。
すぐそばに電話があることは、愛する家族がすぐ手の届く場所にいることを実感でき、それが何よりの安心感を彼女たちに与えたからである。
ミランダは手を休めると、その安心を与えてくれる電話をとった。
「ハロー。ドナタデスカ? ワタシハ、ミランダデス」、彼女は最初は英語で言った。
が、相手は日本人のようで、すぐに日本語で応え始めた。
「おー、本当ですか! 分かりました。すぐに行きます」、ミランダはそう言うと、慌てたように電話を切った。
そしてそのミランダの顔には、笑顔とも緊張とも取れる複雑な表情が浮かんでいた。
これは、思いもしなかった突然の知らせに驚くとともに、それに対処する心の現れだったようだ。
ミランダはワープロの電源を切ると、傍の用紙に数文字を走り書きし、胸ポケットに入れた。
「ビビアン! ちょっと出かけるわ。すぐ戻るから」、早口の母国語・タガログ語である。
「食事は?」
「外で食べるからいいわ!」
「分かったわ。行ってらっしゃい!」
テレビの画面から目を離して言った隣の部屋のビビアンの言葉を背に聞いて、ミランダは出かけていった。
だが、この言葉を最後にビビアンは同国人であり、もっとも親しい友人・ミランダの美しい顔と姿を見ることは永久になかったのである。
一人、部屋に残った彼女が再びテレビ画面に目を戻したとき、番組は十一時の時を知らせた。
十日ばかり経った島根県の、とある研究所のことである。
広島で人々の生活があるように、隣県・島根でもそれぞれの生活がある。
「先生、東京の木暮様とおっしゃる方からお電話が入っております」
昼食を終えて書庫に入りっぱなしの並木眞吾を、受付の女子職員・松橋奈保子が呼んだ。
いつも並木が感じる、ころころと玉を転がすような声である。
「珍しいな…彼か…ありがとう。すぐに行くよ」
並木は久々に連絡してきた友人のことを思い出して呟き、彼女に返答をすると書庫の隣の自室に戻り、保留になっている受話器を手にした。
「もし、もし」
「おい! 元気か? 急に電話して驚いたろう」
懐かしいガラガラ声が並木に届いた。たぶん三年ぶりではないだろうか。それにしても相変わらずの大声である。受話器を耳元から数十センチ離しても聞き取れるような声だ。
「ああ。でも、君の突然には慣れているさ。ところでどうしたんだ。何かあったのか?」
「いやそうじゃないが。ところであの時は本当に世話になった。助かったよ。それに前に話したように、おかげで一階級ほど位が上がった。ハハハ…」
電話の先で話す声の倍以上はある笑い声が続いた。
だが並木は、その笑いが照れ笑いと言うことをよく知っている。
この電話の主は、並木眞吾の大学時代から、互いが結婚した現在まで無二の友人と言える存在の男だ。
彼の名は、木暮大次郎。四十三才…。俗に「桜田門」との呼称がなされる警視庁の警察官である。
所属は、なく子も黙る捜査一課。ようするに殺人課であり、今はその警部補から警部になっている。
「あの事件はよく覚えているよ。しかし、人間ってものは怖ろしいことを考えるものだとつくづく思ったよ。ところで君の方から電話とは、まさかまた事件などと言うんじゃないだろうね?」、並木は三年前の事件を思い出して言った。
それは、東北地方のある片田舎で発生したもので、保険金を巡り画策された凶悪な事件であった。
犯人は、日本国内ではもっとも強烈な毒を持つことで知られるキノコードクツルタケで三名もの尊い人命を奪った。
この猛毒キノコは、一本食べれば必ず死に至るほどのもので、中毒死を装ったのである。
所轄署の捜査は難航を極めたが、並木が偶然に口にした言葉が小暮に重大なヒントを与え、結果的に事件の解決に繋がったのであった。
木暮と話す並木眞吾は、大山・隠岐国立公園に属する山陰の名勝地・三瓶山の山懐に抱かれるように建っている地質研究所の研究者である。だからここでは火山の研究や、その名の通り地質の研究はしていても、キノコの研究などはしてはいない。
ただ並木が、豊かな自然に囲まれた研究所周辺の山に豊富にあるキノコに詳しく、それが役に立っただけのことであった。
「そんなんじゃないよ。お前さんたちは警察というとすぐに悪い方に考えるが、俺たちだって旅行くらいするさ! ハッハッハッ」、電話の向こうで並木の友人は再び大声で笑った。
もちろん、並木には「ハッハッハッ」ではなく、「ガッハッハッ」と聞こえはしたのだが…。
(相変わらずだな…)と、苦笑する並木に小暮は続けた。
「じつはな、今、駅にいるんだ。おおただ」
「おおた? どこのおおただ」、並木はオオム返しに聞いた。
「おい、おい。自分生まれた市の駅名もしらんのか!」と遠慮のない大声で友人の警部は言った。
「なんだ、おおだか! 君の言うのは大田(おおだ)だよ。読み方が違うよ」
電話の相手とは性格がまったく違う並木は、訂正した。
小暮は、東京の大田区(おおたく)と同じ読みをしたようだ。
「おお、そうだったな。ま、それはそうとして、とにかくいま駅にいるんだが会えないか? 上原のことで話があるんだ」
「上原のことで? 彼に会ったのか? ちょうどいい。このところ出張続きで休みがなかったが、明日から二、三日休みが取れる。迎えには行けないがタクシーで二十分ほどだよ」
並木は、手が放せない仕事のことを木暮に話し、研究所で会うように伝えて電話を切ると、忙しそうに再び書庫に向かった。
十年ぶりに小暮が尋ねた大田市は、日本海側で東西に長く延びる島根県のちょうど中程にある人口三万六千人弱の小さな市だが、国立公園・三瓶山の玄関でもある。
かつては歴史の舞台にもよくでてくる石見銀山(大森銀山)を抱える市として結構栄えた時期もあったが、今はごたぶんに漏れず高齢化と人口流出が進む過疎の町の一つである。 市の中心で、往時の面影を偲べるのは石州瓦で葺かれた古い町並みと、僅かに残る名所・旧跡の案内看板だけである。
小暮は大田市駅に降り立ち改札口に出た時、
「あれ?」と思わず呟き回りを見渡した。
待合い室は、およそ十畳くらいの広さしかなく、五、六人が座れるだけのベンチシートが二つばかり片隅にちょこんと置かれ、その横にほんの形ばかりの売店が見えた。
少なくとも国立公園の玄関でもあり、また市の名を冠した駅のわりにはお粗末だと感じたのかも知れない。それほどに小さな駅舎だったのだ。
もっとも、数歩も歩けば人にぶつかるほどの大都会で暮らし、一日あたり数十万人もの人間が行き来する駅を利用する小暮にとっては、何かしら心が落ちつく駅ではあったのだが…。
数歩で駅舎の外に出た。タクシー乗り場を探すまでもなく、すぐ目の前の玄関先がタクシー乗り場だった。
五〜六台のタクシーが待機する中、運転手もタバコをくわえてのんびりと駅舎の出入り口を見ているのが何ともいえずのんびりとしたものに小暮の目には映った。
旅行者が主に利用する特急で木暮は来たのだが、紅葉の時期には少し早い九月という季節のせいなのか、駅構内にもタクシー乗り場にも、観光客と思える人の姿を一人も見ることはなかった。
木暮は、タクシーの待機する猫の額ほどの駅前広場の向こうに大型のスーパーの看板を見つけると、急ぎ足でそこに向かった。並木を訪ねる前にしておかなければならないことがあったからだ。
たっぷり三時間ほどかかって店を出た小暮がタクシー乗り場に立つと、いかにも暇を持て余していたかのようなタクシーの運転手も、さすがに脱いでいた帽子をかぶりなおし、慌ててドアを開けて見慣れぬ客を迎えた。
「三瓶までお願いします」
「はい。三瓶ですね」、運転手は小暮に応えると、直ぐに無線を握って走り出した。
会社に連絡を入れたのだろうが、まるで別人のようにきびきびとした様子が小暮に笑いを誘った。
市の中心の古い町並みを避けるように走る道路は、最近拡幅工事がなされたようで真っ白な真新しいガードレールが目に痛い。また、町はずれには郊外型の書店や二十四時間営業のストアーが見られる。
高齢化と人口流出が顕著なこの小さな地方の市にも、活性化のためなのだろうか、徐々に開発の手が加えられているようだ。
町を二分しているという川沿いの道をしばらく走ると、前方正面に山が見えた。
手前に連なる山並みより、ひときわ高い山だ。
「あの山が三瓶山ですね?」、澄んだ空に食い込むように見えている山塊を指さして訊ねた。
木暮が十年前に来たときは、今回のように日本海側から来たのではなく、山陽方面からだったので、山の形もまるっきり違ったように見えたからである。
木暮の質問に運転手が答える。
「ええ。今日はいい天気ですからくっきりと見えますよ。あれが親三瓶と言いましてね。高さは千百二十六メートルありますよ。お客さんも聞かれたことがあるでしょう? 昔、山を杭に見立てて、隠岐の島を引き寄せたという伝説がある山ですよ。昔は佐比売山と呼んでいたそうですがね」
「国引きの神話ですね?」
「そうです。この三瓶山と鳥取県の大山に綱を張って、朝鮮半島の余った土地を引き寄せて出雲の領土を広げたそうです」
親切な運転手でもあるのだろうが、なかなか知識も豊富のようだ。
行き先を告げても、ろくに返事もしないどこかの大都市とはえらい違いだ。
次から次ぎへと観光案内をしてくれるので、木暮は並木の待つ研究所に着くまで退屈することはなかった。
研究所は、大田市駅からおよそ二十分ほどの場所にある。
大山・隠岐国立公園地内の一角である、三瓶山のすそ野だ。
周辺のなだらかな草原には、放し飼いの牛たちがのんびりと草をはんでいる牧歌的な風景が広がり、それに続く手付かずの原生林が山裾を絶妙な配置で駈け昇っている。
ブナが主体で、天然記念物の原生林だ。
木暮の友人で今年四十三歳になる地質学者・並木眞吾の勤務する国立地質研究所は、中国地方で唯一の、火山や活断層の調査研究が最たる目的の施設である。
だが、国立公園地内という周囲の環境との調和を考えてか、建物の外観からはそんな堅苦しさは感じられない。
また、一般に学者というと、よく“学者バカ”と言われるが、彼に限っては、この言葉は適切ではない。
大学で地球物理学を専攻後、並木が火山の生い立ちや地質研究の道を選んだのは、ごく当たり前な選択であったが、日本を代表する富士山や阿蘇山をフィールド地(研究対象地)としなかったのは理由があった。
彼は、自分が生まれ育ったこの地が過去数万年の間の幾度かの噴火にも関わらず、縄文時代をはるかに遡る時代より人々が住み着き、多くの遺跡が発見される土地であることに興味を持っていたし、目の前にそびえる山が、当時の周域にどのような影響と関連を持っていたかというような研究をもしてみたかったからだ。
そんな彼に、ここ二ヶ月ほど前にも、およそ三千六百年前の縄文後期に繁茂していた巨木杉の埋没林が発見されて新聞紙上をにぎわしたことも、ますますこの生まれ故郷が他に類をみないほどの貴重で興味深い地と再認識させた。
もちろん、三千六百年も昔の直径がニメートルを越える杉が当時のままの立木の状態で地中から姿を現すなどという埋没林の発見は、全国でも初めてである。
まさに奇跡の埋没林と言えるのではなかろうか。
三瓶の火砕流と泥流からも逃れた縄文の埋没林を、火山・地質学者の並木が強く関心を持つのは当然だろうし、全国の研究者の垂涎の的だという。
そして、何よりも並木がこの三瓶の地で職を得ようとしたのは、子供の頃に朝夕自宅の窓から毎日みていた三つの美しい山の形を忘れることがなかったからでもあったろうが…。
「よう。久しぶりだな! しかしいつも来てもいい所だなあ。空気はうまいし、東京とはえらい違いだ」と、小暮が受付嬢に伴われて大股で研究所の並木の部屋に入って来たのは、すでに五時を回ろうとする時間であった。
研究室には似合わない、相変わらずの大声である。
声も体格も大柄な小暮の側で、“箸が転がってもおかしい年頃”の受付嬢・奈保子がクスクス笑っている。
小暮の態度が面白いのもあったのだろうが、奈保子の気持ちの中に(どうしてこんな人と先生は知り合いなんだろう?)との思いがあったような、そんな奈保子の表情だ。
もちろん彼女は、小暮が刑事とは知ってはいない。
「遅かったね。どうしたかと思った」
「ちょっと気になることがあってな。本屋に寄って調べものをしていた」
「調べもの? 君も忙しいんだな!」
「お前さんほどではないよ。俺は昼飯くらいはゆっくり取るからな」と、またしても大声で笑った。電話をかけた時のことを言っているのだろう。
「まあかけろよ」と勧められた小暮は、出されたお茶を飲み干すと、並木に言った。
「忙しいんだろ? 仕事を先に済ませてくれ。俺は、このまえ見損なった展示室でも見ているから」、小暮は殊勝な声と顔で言った。
並木は笑いながら立ち上がると、
「その調子じゃ、僕に何か相談があるようだね。泊まれるんだろ? ま、話しは夜にでもゆっくりするとして折角の君の頼みだ、展示室を案内するよ」と木暮を誘った。
広い館内のいちばん端が一般公開用の展示スペースだ。研究所は、民間人に対しても研究の普及啓発に力を注いでおり、日本全国の火山関係の展示をしている。
並木は、「第一展示室(火山とテフラ)」と書かれた部屋に入ると説明を始めた。
「ここは“三瓶山と火山灰(テフラ)”についての解説がなされている。まず、日本では後期第四紀の火山灰のそのほとんどが強い西風で東に分布している。僕たちは、これを広域テフラと言っているが、こうしたテフラの百カ所以上の産出調査によると、その九十パーセント以上の分布域がそうだ。これは、わが国が中緯度偏西風帯にあるためだ。対流圏の中〜上層部には、たえず強い西風が吹いているからね。そして、こういった広域な範囲に広がる小さなテフラでも、細粒火山ガラス質の火山灰で特色づけられている。さらにこの火山ガラスは、屈析率によりその科学組成や原子レベルでの構造を明らかにする。すなわち屈折率はテフラ同定の中心的特性といえ、さらに、現代のエレクトロニクスを駆使する高精度の分析器は、どのような微少なテフラからでも、また、混じりものの多いものからでも特定したい火山ガラスを分析可能だ」
「…つまり、ん…、ということは、仮に二つのだ…、えっと、…テフラか。種類の異なるテフラが混じりあっていても判別できるのか?」
警部は目を閉じて、下唇を突き出すようにして言い、頭を横に小刻みに振った。
「ああ。そういう意味だよ。そして、微量な試料から火山ガラスの成分を求める。同定に使われるものとしては、“主成分元素の測定”“蛍光エックス線分析”“原子吸光分析”“主要元素及び、微量元素の測定”などがあるが、とくに“EPMA”と呼ばれる“電子顕微鏡とエックス線分光器”を組み合わせたものは、現段階では成分を決定づけるには最高と言えるものだ。それと、わが国ではまだまれだが、テフラをより特徴づける方法として、レーザーを用いて“ICスペクトリメトリー”の方法が…」
「ちょ…ちょっと待ってくれ。俺は、お前さんたちのような訳にはいかないよ。もう少しわかりやすく頼む」
なおも続く並木の説明は、法学部出身の小暮には、ちと荷が重いようで、木暮は目をしばたたかせて言った。このままだと完全に理解不可能になりそうであったのだ。
「ん? そうか。要するにだ。大爆発によって吹き上げられた火山灰は、上空に吹いている偏西風で西から東に流される。ここにある写真を見れば分かるように、噴煙が東に曲げられたようになっているだろう」
桜島や浅間山などの火山が噴煙をたなびかせている写真を示して、研究者は説明した。
「ようするに、ジェツト気流だな」
「ああ。そんなもんだね。火山灰を供給源とする火山の近くの軽石と、風に乗り広範囲に飛んだ火山灰の中の火山ガラスを調べることによって、それらが供給源の火山と同じものかどうかが分かるわけだ。軽石を構成するものは、火山ガラスやその他の鉱物で、それぞれの火山が持つ特性をあらわすからね。この特性をみいだすのが電子顕微鏡などだよ。こういったことから火山灰の本籍地とも言える供給火山が判明する。あとはパネルと実物で説明するよ」
並木は、目を寄せて再度頭を横に小刻みに振った小暮の表情を見ながら、相好を崩して言った。
二人が入った次の展示ブースは、電子顕微鏡や、各地の火山灰の入ったシャーレが所せましと並んでいる。
小暮がそれを見て恨めしげに言った。
「なるほど、いろいろなことが分かるんだな。ところでお前さんも忙しいだろう。今日はこれくらいで、また説明を頼むよ。俺は一人で見ているから帰る支度をしてくれ」
友人が展示室を後にした時、小暮は頭を掻きながらぼそっと呟き溜息をついた。
「いつものことだが、あいつの頭は一体ぜんたいどうなってるんだ…」
木暮は、展示室をみたいなどと言ったことを後悔していた。なぜなら、ここ数日の疲れが一挙に襲ってきたように感じたからだ。
だが、小暮にも並木にも、のちにその中緯度偏西風がおよそ二万二千年の時を隔てた現代に、驚くべき事実を教えてくれることになるとは夢にも思わなかったのである。
小暮は、今晩は並木宅で泊まることになった。
もちろん最初から彼はそのつもりであったし、珍しく手みやげ持参だった。
並木眞吾と木暮大次郎は、学生時代から自他共に認める大の親友だ。おまけに、並木の妻・志帆は木暮の父の妹の娘である。
つまり、小暮と志帆はいとこなのだ。
志帆は小暮より五歳ほど年が下で、一人っ子の彼女は子どもの頃、近所に住む小暮によくなつき、
「おにいちゃん、おにいちゃん」と呼んでよく後をついて歩いていたと、並木も聞き及んでいた。
今はもちろん、志帆は小暮を大次郎さんと呼ぶが、小暮は相変わらず、「志帆ちゃん」と呼んでいるし、志帆も電話などの二人だけの会話の時は「おにいさん」と呼んでいるようだ。
すでに並木は妻に小暮の訪問を知らせていて、志帆は、駐車場で聞こえた車の音に応えて、笑顔で玄関先で待っていた。
「いらっしゃい! 大次郎さん」、こぼれるような志帆の笑顔である。
「やあ。志帆ちゃん。元気だったかい? 申し訳ないね、突然で。はい、広島土産のモミジ饅頭だ」
志帆に負けないほどの笑顔で接する小暮の表情は、親友の並木に対するそれとはだいぶ違うようである。
「おい、おい。君は誰に会いに来たんだ?」
並木は(しょうがない奴だな…)といったように笑いながら、中に入るように言った。
並木の家は研究所から七キロ。およそ十分ほど離れた“池の原”という所にある。
“池の原”の地名の謂われは、およそ千年ほど昔に、目の前にそびえる三瓶山が大規模な山崩れを起こして川をせき止めて池を作ったことによる。
池は“浮き布の池”と呼ばれ、周囲がおよそ三キロメートルほどの楕円形の形をしている。
周辺の水田を潤す豊かな水をたたえた湖水には、春から秋口にかけて多くの観光客のボートが浮かび、冬にはワカサギ釣りの歓声が上がる。三瓶周辺の他の二つの池の中でもっとも大きな堰止め湖だ。
並木の自宅周辺は田んぼが取り巻き、春には池の水を一面に張った棚田が湖水のように光り、五月〜六月頃には青々とした苗が初夏の草原を思わせる。
そして、季節の移り変わりの中で、頭を重く垂れ始めた銀色の稲穂がススキの原野のようにさえ感じられたかと思うと、小春日和の秋口の終わりには、荒涼とした不毛の大地にと姿を変えていく。
やがて、棚田を一面に覆い隠し、一年を締めくくるかのように降りしきる雪が、人の生涯を物語っているような錯覚を並木に覚えさす。
並木にとって、毎日のように二階のベランダから、山やこうした景色を見て育ったことが、彼が研究者にありがちな理論や計算といった、感情とは無縁の世界にのみ没頭しなかった、大きな要因だったようである。
「そう言えば、大次郎さんが家にみえるのは初めてだわ。それにこうして三人が会うのは、結婚式以来じゃないかしら?」、志帆が早速酒の肴をテーブルに並べ、懐かしんで言った。
「そうか…そう言えばそうだ。急に二人の顔を見たくなってね。しかし、志帆ちゃんも並木も一向に変わらないな。ま、人間はあまり変わらない方がいいのかもしれんが…。俺たちのような仕事をしていると、色んなことがありすぎるし、それに、みえすぎて考え込むことが多いよ」
「だろうね」、並木もその言葉に感じることがあり、相づちを打った。
実際、毎日を神経と靴底をすり減らす仕事である刑事の木暮には、並木たちの苦労とは異質のものがあるに違いなかった。
当然、凶悪な犯罪者と相対峙する危険をはらむ仕事である。
「ハッハッハッ…、すまん。酒が不味くなることを言ってしまった。大変なのはみんな同じだもんな。お! こいつは美味そうだ。昔から志帆ちゃんは料理が上手だからな。親父が叔母さんのところに行くと志帆ちゃんの手料理が楽しみだと言っていたが本当だな! 並木、お前さんはこんな嫁さんを貰って幸せだな。おまけに別嬪ときてるしな。今日は久しぶりに飲むぞ!」
木暮は並木と志帆にグラスを傾けると、心底嬉しそうに言った。
志帆も、よほど“おにいちゃん”との再会が嬉しいとみえ、テーブルの上には次々と趣向と心の籠もった料理が並んでいく。
「ところで広島の上原だが、どうしていた?」
並木は、学生時代に級友から“三羽がらす”と親しみを込めて呼ばれていた仲間の一人、上原誠一のことを訊いた。
並木・木暮・上原の三人は、大学時代の同期生である。
「ああ…じつはそのことだがな。あいつがフィリピンから戻って広島の中心地で芸能プロダクションを経営しているのはお前さんも知っているだろう? かれこれ十三〜十四年になるそうだが…」
木暮はそこまで言うとグラスを一気に飲み干し、彼の癖である下唇を突き出す独特の表情をして続けた。木暮は、考え事をしたり困惑したりするといつもこの表情を見せた。
「ちょうど十日ほど前になるが、上原から俺に電話があったんだ」
「変わったことかい?」
並木は、木暮の癖をよく知っていて、先を促した。
「うん…、四ヶ月ほど前にフィリピンから興業ダンサーを来日させているらしいんだが、今月一日に、そのダンサーの若い娘が一人消えたと言うんだ」
「消えた? 行方不明と言うことかい?」、並木が志帆と顔を見合わせて聞き返した。
並木と志帆は、消えたという言葉にいやな予感がした。
木暮は「うん」とだけ言った。
しかし、当然のことに木暮はそれ以上のことを考えている表情である。
「上原さんは、捜索願は出したんでしょ?」、志帆が上原の端正な顔つきを思い出しながら木暮に訊いた。
上原は、自分たちの結婚式に出席してくれ、そして木暮と同じように夫の親しい友人であり、志帆も毎年年賀状のやりとりをしていた。
「うん。すぐに広島県警に捜索願を出したそうだが、依然として何の手がかりもないそうだ。彼女の本国にも知らせがいっているはずだよ」
「そりゃあ心配だね…」
志帆も並木と同じように頷いている。
「ああ…。俺も抱えていたやま(事件)が片づいて久々の休暇が取れたし、たまには旅行でもと考えていた矢先だった。なんとか、あいつの役に立てればと思ってな。それに、広島からここまでは目と鼻の先だからな」
「ねえ…大次郎さん。その女の人、日本語は?」、志帆が心配そうに訊ねた。
「ああ、一応は簡単な挨拶や道を尋ねる程度のことは分かるらしい。日本に来る前にオーデションがあるし、彼女たちの言葉を取得する能力は我々日本人とはだいぶ違うみたいだからね」
「そのダンサーは幾つなんだ?」
「歳は二十一。名はミランダと言うそうだ。仲間の娘たちも歳は全員同じようなものだ。上原から彼女たちのプロフィールを見せてもらったが、ミランダはルソン島のバギオの出身で、あとの娘たちはマニラやその近郊の出身だ。これは、特定のグループを来日させたのではなく、現地でのオーデションで採用したかららしいが」
「本国にでも帰っているのならいいのだが…」
「そうね…」
志帆は二人の邪魔をしないように精一杯の笑顔を見せ、生死を賭て犯罪者に立ち向かう、いとこの頭に白いものが混じり始めていたのをそっと見て再び台所に足を運んだ。
「彼女たちのでている店は、広島市内なのか?」
「ああ。広島駅近くの繁華街だ。えっと…八丁堀にあるクラブ・シャトーラという会員制の高級クラブだ。広島でも一流らしい」、木暮は内ポケットから手帳を取り出して言った。
「僕は広島は詳しくないけれど、会員制のクラブは多いのかい?」
酒はたしなむ程度で、出張時の付き合いで飲む以外はほとんど外で飲むことがない並木が、(へえー)といった表情で訊いた。
もちろん、そうした店の会員であることがバブル全盛時は一種のステータスであったことは並木も知ってはいたが…。
「今でも銀座などと違ってまだ多いようだ。ミランダがでていた店に俺も上原と昨日行ったが、なかなか繁盛していた。もちろん俺の安月給じゃ、年に一度行けるかどうかもわからんような店だったが…。いずれにしても、ミランダという娘がいなくなったことはたしかだ」
「ところで、君が上原の所に行ったのは、彼からの電話だったね。僕も詳しいことは知らないが、聞くところによるとどうも警察は“捜索願”くらいではなかなか本気で動いてくれないらしいが、本当か? ここだけの話だが…」
並木は以前、誰かにそのようなことを聞いた記憶があり、地元警察が動かないので上原が業を煮やして木暮に頼んだと思ったのだ。
木暮は若干ばつが悪そうな表情を見せたが、それには応えず続けた。
「ミランダたちは二人一組で、クラブ・シャトーラの近くのマンションで生活していた。お前さんも知っている上原の住んでいるマンションだ。来日した彼女たちのような芸能人の宿泊場所はいつもそこらしい」
「ほーう。よく小さなアパートに押し込まれると聞いたが、さすが上原だね」
並木も、上原のマンションは一、二度訪ねていてその建物の様子は知っていたのだ。
「ミランダや仲間の評判もいたってよかった。これは階上の入居者から聞いたんだが、夜遅くの帰宅でも騒ぐようなこともなく、ホールなどで顔を会わせばきちんとした挨拶も欠かさないらしい。ミランダの同居人はビビアンという娘で、歳はミランダより一つ下だったがなかなかの美人だ。上原の話では、二人の出身地は違うが、一番仲がよかったらしい」
「若い彼女たちのことだ。常連の客と仲良くなることだってあるんだろう?」
たぶん、店と寝るためだけの生活であろう。並木は、そんな生活に若い女性が満足するとは思えず、いかにもありそうな推測をたてて言った。
「俺も最初、そんなところだと考えていた。男友達とでもいい仲になったんじゃないかとな。だが、ビビアンを初め他のメンバーに当たってもミランダにもそのような形跡はなか
ったよ。もちろん日本人との結婚を願っていない訳ではないだろうが、それを目的にしているような娘たちでもないようだ。それと、雇用の条件に、店外での客との交際は禁じてあるそうだ」
「噂もないのか。まじめな娘たちなんだな…。しかし、そうは言っても実際には行われることだってあるんじゃないのか?」
「もちろんそのことも考えたさ。だが、誰に聞いても彼女にはそのようなふしはない。百歩譲ったとして、もし男と駆け落ちするにしても何かしらの物は持ち出すだろ? しかし、通帳どころか着の身着のままだよ。それに、絶えず行動を共にするビビアンや仲間の目から消え去ったのは九月一日の真っ昼間だ」
「真っ昼間か…まるで神隠しという訳だね」
「神隠しか…、そうだな」
およそ現代の最先端を行く技術と知識を持つ男の口からでたとは思えない言葉に、木暮は奇妙な気がした。
が、並木は、木暮にかまわず訊いた。
「上原は、その日はどうしていたんだ?」
「あいつは、ほとんど会社にはいないで、その日も出張で姫路だったそうだ。晩になっても彼女が戻ってこないので、心配した仲間があいつに携帯電話で連絡したそうだ。大切な預かりもんだからな。上原はそうとうに慌てて広島に戻ったらしい」
いつの間にか座に戻って、二人の会話を邪魔しないように聞いていた志帆が、女らしいことをどちらにともなく訊いた。
「お化粧道具はどうだったのかしら? すぐ近所に出かけたり、ごく親しい間柄なら別でしょうが、誰かに会うとしたら、ふつうはお化粧道具はもって出かけると思うのだけれど…」
木暮と並木はそっと目と目で頷いた。(やはり男と女はどこか違う)とでも言いたそうな表情で…。
「それも残されていたよ。普段着のままだ」
「なるほど。そうすると、“ちょっと散歩に行く”というようなものだね?」
「ああ…だが、一つ気になることがあるんだよ」
「気になること?」と、並木が促した。
「ミランダの部屋を見せて貰った時のことだが、きちんと整理された彼女の持ち物の中にワープロがあった。彼女はなかなかの努力家らしく、将来のためにワープロの操作を勉強していたらしい」
「それで?」
「その傍に使いかけの感熱紙があったんだよ。これは広島県警で聞いたんだがな」
「使いかけというと、何か書いてあったのかい?」
「そうだ。だが、書かれていたと言うより、写っていたという方が正しいがな。県警でそれを見せて貰った。もちろん一番上の紙はなかったが、二枚目に文字が残されていたんだよ」
「なるほど…感熱紙は、爪などで傷つけると発色するからね。で、何て書かれていたんだ?」
「アルファベットでだが、それが“matue sta”だろう…としか読めなかった。それもかろうじてだがな。それに、書き殴りのようで、たぶん急いで書いたんだろう。だから、これが正確に“matue sta”と書かれたものかどうかはまだ分からないらしい…」、木暮は残されていた文字を手帳に書いて見せた。
「“matue sta”か…、英語だろうか? 彼女はフィリピン人だろ。フィリピンの公用語は、たしかピリピノ語と聞いているが…」
「何だ。そのピリピリ語てのは?」
木暮は並木と話す時、その会話に時々(ついていけん)と思うことがよくあるが、現に今もそうであった。
「ピリピリ語か? フィリピンの言語の一つで、マライーポリネシア語族のインドネシア語に近いもので、よくタガログ語と呼ばれている」
「ん…そうか。そうだったな。普通はそうだ…。ま、何にしても困ったことに、大小あわせて六千とも七千とも言われる島からなるフィリピンにはそれと同じくらいの言葉があるらしい。一応、残りのメンバーにも聞いたんだが、その…なんだ、ピリピリ語とやらにはこのような単語はないのでは、と言っていた。おまけに失踪したミランダはルソン島の出身だ。誰もその地方の方言を知らないときてる」
「そうだね。方言だとしたら厄介だ。大学はどうだ?」
「一応、広島市大の言語学部で確認して貰っているらしいが、まだ結果はでていないようだ」
「同室の…、ビビアンか。彼女は何か気がついたことがないのか?」
「ああ。この言葉に関してはだめだ。しかし、電話がかかってからミランダが外出したことから見て、その時の会話に関係があるのではないかと言っていた。俺も県警も、そこのところでは同じだがな」
「M―A―T―U―E S―T―Aか…。この八文字だけが本来の意味なのか、それとも、もっと文字があるのか…、難しいね」
大酒飲みの木暮もしばらくグラスに手をつけずに考え込んだままだったが、思い出したように言った。
「思うんだが…読みようによっては、前の五文字のM―A―T―U―Eは、地名とも人の名前とも取れる。たとえば、島根県の県庁所在地・松江。または、まつえだ。後の三文字のS―T―Aは、駅―STASI0N―のSTAかも知れないし、ガソリンスタンドのようなものを意味する、STAとも読める。また、全く別のものかもしれんしな…お前さんはどうだ」
「英語としても、STALACTITITEなら石筍になるし、STALLなら、売店とか映画館や劇場の一階前方の特別席の意味になる。君が言ったように駅かもしれないが、米語で駅は、よくDEPOTが使用される。いずれにしても膨大な数だ」
「舞台のSTAGEかもしれんしな。かりに松江ステーション(松江駅)としても一体何のことか見当もつかん。上原も、メンバーを松江に伴ったこともないらしいし、ましてやミランダが金も持たずに松江に行くとは考えずらい」
「広島市内に松江と言う地名や店は?」
「数件のバーがあるにはあったが、勤めてもいないし彼女を見かけたとの情報も一切ない」
「そうか。この八文字だけでは難しいかもしれないが、今はこれを追うしかないんだな?」
「ああ。そういうことだ。お前さんならいい考えがあると思ったがな…」
と、木暮は下唇を突き出す例の癖で並木をジッと見て言った。
「おい、おい。いい考えも何も、警部の君が分からないのに素人の僕が分かるはずがないさ」
志帆は、こんなことが言い合える二人を微笑んで見、夫・眞吾に促した。
「ねえ、あなた。近い内に広島に行ってみられたら?」
「おい、並木。志帆ちゃんもああ言っている。俺は、明日東京に戻る。行ければ元気づけてやってくれ」
「そうだな…僕たちは警察のような訳にはいかないが、上原の役に立てればね。二、三日じゅうに行ってみるよ」
並木の言葉で三人はミランダの話を終えた。
これ以上話をしても、いい考えが浮かばないことを三人は分かっていたし、久々の再会にふさわしい話題に転じたかったのだ。当然、仲のいい上原の話題は引き続きでたが、あくまでも思い出話しに終始した。
この夜は、並木夫婦と木暮にとって結婚式以来の楽しい思い出となったが、三人にとっての心残りは、上原がここに居合わせなかったことであるのは言うまでもない。
その上原誠一は、語学が堪能な好男子である。
性格にしても、並木と木暮が一歩譲るほどで、人格者といえる。
几帳面でいて、なおかつ大胆な面もあったが、何かと人の面倒を見るのが好きな男でもある。
無愛想な木暮などは、口癖のように、
「お前さんは、全く感嘆に値するやつだ」と、上原誠一に会うたびに口にした。
もちろん上原も、木暮に同じようなことを言い、互いに肩を叩き合って笑うのが常ではあったが。
上原誠一は、並木や木暮とも学部は別で、英文科の出身である。
だが、ひょんなことから知り合った三人は、他人が羨むほどの関係を築き上げた。
木暮が法律学部。並木は理学部と、もともとは何の関係もない三人に共通したものがあるとすれば、同い年で同じ学校に通っただけのことであったはずだ。
しかし、そんな彼らを堅く結びつけたのは、永子という名の一人の女性だったことは、卒業後二十年たった現在でも三人だけの秘密である。
生まれも育ちも、そして考え方も異なる三人が、同時に一人の女性に憧れ、恋をするなどとは、まさに小説か映画の中の出来事のようなものだった。
が、三人全員が好きになった永子に本心を明かすことなく、僅か三ヶ月でその恋も終わりを告げた。
それは思いもしない永子の死であった。交通事故死だった。
三人にとって彼女の突然の死は、全くと言っていいほどに呆気ない恋の終わりであり、ライバル三人が初めて顔をつき合わしたのは、永子の通夜の晩であった。
悲しみの席で永子の母親から三人に話されたのは、
『とても楽しかった。私の名は、永遠に優しくと言う意味で名付けられたのよ』との、三人への短い言葉だった。
この時から永子は、気持ちを伝えることも出来ずにいた並木・木暮、そして上原の心を永遠に結びつけることになる女性となったことはまちがいない。
そしてこの不思議な縁は、互いが結婚した現在も同じように続き、上原誠一は結婚した現在、松田姓になっていたが、木暮も並木も普段は学生時代のままに、誠一を上原と呼んでいた。
翌朝、木暮は楽しいひと時を過ごした三瓶から、大田市駅に並木夫婦に送ってもらった。
「並木、志帆ちゃん。ありがとう。また来るよ。上原の力になってやってくれ」
木暮はそう言い置いて、ゆっくりとホームに入線してきた「特急・くにびき」の車中に姿を消した。
広島から六十キロほどの山間の地に住む友人・並木眞吾に親友のことを頼んだ木暮は、失踪したと思われるフィリピン人ダンサー・ミランダの残した意味不明の八文字を胸に、何の当てもなく松江市に向かったのだった。
島根県の県庁所在地・松江市は、神在月と出雲大社で知られる出雲市の先。大田市から一時間ほどだ。
松江は、お茶と和菓子。そして、有名な小泉八雲ことラフカディオ・ハーンで知られる。 また、城下町でもあり宍道湖岸に面した情緒ある国際観光都市でもある。
人口・十五万ほどのこの地方都市に来たのは、木暮は今度で二度目であった。だが木暮は、駅についても何一つの考えも思い浮かばず、口を尖らせて広い構内を出口に向かった。
駅前広場も、広い通りの向こうに立つ建物も、十年前の面影は全くなく、近代的なビルが木暮と行き交う人の波を見下ろすように建っている。
「さすがに三瓶とはだいぶ違うな。そうか…あれから十年だ。変わって当たり前か。ん…、さてどうしたものか…」
木暮は呟きながら振り返ると、立派なステーションビルを見上げた。
木暮の目に写ったのは、松江駅と漢字で大きく書かれた下に読めるアルファべット「MATUE STATION」だった。
「マツエステーションか。略はたしかにマツエ・ステイには違いないがな…」
しばらく看板に見入っていた木暮は、やがて歩き始めた。行き先は駅前の派出所である。
正面の奥に、制服姿の若い警察官が一人いるだけだ。
「すみません。松江でこういった店か、建物をご存知ありませんか?」
木暮は、“matue sta”と書いた紙を警察官に渡した。
暇をもてあましていたような警察官は、木暮に笑顔を見せると、すぐに電話帳や市内の詳細な地図を調べてくれたが、
「ありませんね」と、さも残念そうにメモを木暮に返した。
礼を言って派出所をでた木暮がもう一度振り返ると、彼は玄関先で口を大きく開けてあくびの真っ最中だった。若い警察官は木暮が見ていると分かった瞬間、慌て敬礼をした。
平和な土地とのんびりとした人たちなのだろう…。
「東京とはだいぶ違うな…」と木暮は呟くと、苦笑いしながら再び駅構内に戻って行った。
松江で何の成果もなく帰京の途についた木暮の妻への土産は、三瓶名物の蕎麦と松江の和菓子だった。
蕎麦は、変わらぬ並木夫婦が妻へにと持たせてくれた心の籠もったものだった。
その夜、親友の近況と上原の健在を妻に話した木暮であったが、なぜかミランダ失踪のことは話すことはなかった。