第十章

姶良Tn火山灰

車内で工藤が訊いた。
「警部。向居はどうして停電で見られなかったはずの番組の内容を知っていたんでしょうね?」
「そいつを調べるんだよ。向居は、現在使用している車の他に四輪駆動車を持っている。白い乗用車を車庫の前に止めて置いたのは、隣家の夫婦の目を欺くためだったはずだ。番組は車載テレビでも持っていれば説明はつくさ。三瓶に向かう途中で見ていれば答えられる。関田にいなければ停電は関係ない。もし、暴風雨圏内の関田にいたなら停電に気がつくからね」
木暮は言いながら、ミランダを乗せて雨風が叩く夜の国道を西に向けて疾走する悪魔のような向居の姿を想像していた。
また、いま考えれば、事情聴取時の向井の説明がまるでラジオでも聞いていたかのような印象を受けたことを、思い出してもいた。



翌日、木暮と工藤は三瓶の研究所の門をくぐった。
すでに並木は応接室で待っていて、開口一番に言った。
「向居のアリバイが崩れたそうだね!」
木暮は、東京を立つ前に島根・鳥取県の停電情報を入手し、並木にもその情報を提供していたし、三瓶での台風の影響がどのようだったのかもを再確認していた。
「ああ。台風のお陰だよ。だがな、これからが正念場だ。まず、なぜ向居がテレビの内容を知っていたかがはっきりしないし、目撃者も当たらんとな。俺は、向居が車載テレビを見たと考えてはいるがな」
「使用したと考えられる車は?」
「県警が二台とも押収して調べているが、まだなにも出てこないそうだ」
「頭部もまだなんだろう?」
「今はな。だがすぐにはっきりさせる。かわいそうに両手の爪の奥までぎっしりと腐葉土が詰まっていたそうだ。たぶん、背後から首を絞められて、苦し紛れに土をかきむしったんだろうが…」
「両手の爪?」、並木はオウム返しに訊いた。
並木は、なぜかその言葉が気になったのだ。
「そうだが?」と応える木暮に続けて訊いた。
「木暮、ちょっと待ってくれ。死因は間違いなく窒息死なのか?」
「そうだが…なぜだ? 司法解剖で明らかだよ。頸部の圧迫による窒息死だ。さすがに法医学だよ。すぐに分かったようだ。後は頭部だが…」
「なるほど、法医学か。被害者の人種も、脂肪酸やタンパク質、種に固有の免疫質やあるいはミトコンドリアDNAの塩基配列を用いてある程度の決定が出来るだろうから、死因などはすぐか…」
「そうだな。一昔前には考えられなかっただろうが」
木暮は、ミトコンドリアDNAの塩基配列やその他のものが、人種の決定にどのようにして寄与するのかは詳しくは知らなかったが、捜査本部で得た情報にそうした内容が記されていたことを思い出していた。
「ところで、殺害場所は、間違いなくここなのか?」
「そうらしい」
「そうらしいって、断定するからにはそれなりの理由があるだろう?」
「当然だ。土だよ。土。爪の中の腐葉土は現場のものと一致いているそうだ。それに女といっても子供じゃない。他で殺してから現場まで運ぶには荷が重いよ」
「なあ、木暮。僕はああいった現場のことはよく知らないが、少し妙だと思わないか?」
「妙? 何の事だ?」
「実際、僕も研究で野外に出かける機会が多い。巡検(調査)などで露頭(崖)などを掘ったりするのだがね。たしかに手袋なしでは両手の爪の間に泥が入って困ることがある。でもそれは、両手を使わざるを得ないからで、首を絞められたら、普通はその首にかかった物をはずそうとするんじゃないだろうか…。ミランダは両手の爪だろ? どうもよく分からないんだよ。そこのところが」
「…」、木暮は並木の言葉に何かに思い当たる節があるかのように黙った。
「警部」、黙ったままの木暮に工藤が声を掛けた。
だが、黙りこくった木暮は、ポケットからタバコを取り出し、火を付けた。
その目はしっかりと閉じられている。
「? 警部?」、工藤はそんな木暮を見ているだけだ。
木暮は、並木の指摘にあるように、落ち葉が舞い積もる原生林が殺害現場と断定するのに若干の疑問を残していたし、言われてみれば、多くの殺人事件に遭遇した木暮には(ん?)と一考する指摘でもあったのだ。
木暮は思っていた。(深夜ならいざ知らず、失踪後にミランダの目撃は一切ない。大山でもそうだ…)
「もちろん僕は素人だし、プロの警察に対してどうのこうの言うつもりはないが、気になってね」
瞑目するといった木暮の持つタバコの灰が膝の上に落ちた時、彼はやっと目と口を開いて言った。
「ちょっと電話を借りるぞ!」
その口調は、何かに気を取られていたという風な様子である。
電話の先は大田署である。
「もしもし、野上刑事を」と、木暮は言うと、先方がでる間、
「お前さんの言うことも一理ある」と言った。
「あ、私です。木暮です。確認したいことがありまして…、じつは例の害者の発見場所ですが、爪の中の土は間違いなく現場の物ですね?」
「…、…、…」
電話先の野上の言葉に納得がいったのか、
「そうですか。よく分かりました」と言うと、電話を置いた。
「間違いはない。土は現場の物だ。鑑識から回した科警研での腐葉土の分析結果だ」
「なるほど。植物珪酸体分析法だろうな」、並木は一応納得したように言った。
「そうそう、なにやら小難しそうな名前だった。ルミノール反応(血液)は、前日の暴風雨でどこからも出てはいないが、殺害は現場に間違いない。ところで俺も知っていて損はない。どういうものなんだ、その植物なんとかは…」
日頃は苦手な分野に、珍しく木暮が興味を持って訊いた。
たぶん、誠一に一点の曇りもないようにとの気持ちと、真実を得ようと必死であったからに違いない。
「植物珪酸体分析か? 植物珪酸体は、一般に生産量が多く、風化に対する耐性が強い。さらに、形態上の特性が植物群の分類群に対する。現場の代表的な樹木であるブナの樹木起源珪酸体は、はめ絵パズル状だ。続いて多いカシワは五角形状で、両方とも現場の形成樹木と一致するはずだ。遺体発見現場の原生林は、特にブナとカシワが多い。表面細胞に由来する珪酸体は、植物群によっては分類階級と植物珪酸体の形態との間に対応関係があるから、同定はそれほど困難ではないからね」

植物珪酸体分析とは、並木の説明のように、コケ植物、維管束植物門などの植物群の細胞に非晶質含水珪酸が充填することによって植物体に形成された微少な鉱物を検出・同定するものである。

「うむ。…という意味は…、ようするに現場の腐葉土に間違いないってことだな?」
木暮は、分かったか分からないんだか、どちらとも言えない顔で訊いた。
もちろん工藤もそうで、並木の顔と上司の顔を見比べている。
一般に刑事というと、万能のように思うが、そうではない。
並木たちのような人間や科警研、鑑識などに携わる人々の地道な研究と成果が、一線で活躍する彼ら警察官を支えているのだ。
「その検査・分析に欠点はないのか?」
「もちろんあるさ。すべての植物珪酸体が土壌の中で同じように保存されている訳ではなくて、たとえば、酸性環境下ではきわめて安定的だが、アルカリ性(PH9以上)の環境下では不安定だ。ようするに融解しやすい。それに植物珪酸体の有無は、すべての植物について探索されているわけではなくて、一部の植物界で知られているにすぎない。しかし、今回はこの欠点も通用しないようだね」
「通用しない?」
「通用しないね。三瓶は火山土壌だ。だから、当然現場一帯は酸性土壌になるからね。犯人にそこまでの知識があったとは思えないが…、しかし…」、並木はそこまで言って首を傾げた。
「しかし? なんだ」
「やはり、僕には両手の爪の中、というのが気になってね…」
「『鑑定は間違いない』と、お前さんも同意したのにか?」
木暮は不服そうに言うと、頭を抱えるように手を上げて唇を突き出した。
 その顔は、まさに万策尽きたような表情である。
 並木は、その情けない表情の友人に言った。
「鑑定は間違いないはずだ。だが…くどいようだが、土は殺害現場で爪に偶然入り込んだのではなく、作為的に詰め込まれたように思われるんだよ」
「えっ! 作為的にですか!」、工藤が思いも寄らぬ並木の言葉に声を上げて訊いた。
並木は無言で頷くと、二、三枚の紙を取り出してなにやら箇条書きをし始めた。
二人の目はその文字に注がれている。
1,腐葉土は三瓶のものに間違いはないが、殺害したのは他の場所。クロボク(腐葉土) を爪に詰めて殺害現場を偽装。
2,国立公園地内なら、むやみに開発がされず、埋めても掘り起こされる危険は少ない。
3,観光客が一年中出入りするため、他県ナンバーなどの車に対しての不信感がない。
登山客が多く、早朝または夕方であろうと怪しまれる事はまずない。
4,もし、警察が腐葉土分析を見逃すことがあっても、科警研で調べるように誰かの口か ら言わせる。つまり、僕から君に。三瓶の腐葉土であることは、分析すれば分かる。
5,土壌や植物のことをよく知っているか、もしくは誰かに訊いた。
6,国道五十四号線から三瓶までは近くて便利。
そこまで書くと並木はペンを置き、木暮にある重大な言葉を投げかけた。
「もっとも重要だと僕が思っているのは、犯人がこの三瓶と僕をよく知っている上に、君との関係をも知っていると思われる事だよ」
「おい。待ってくれ! お前、何が言いたいんだ。まさか! まだ…」
木暮の気色ばった声と表情に、工藤も顔色を失った。
「そうじゃない。最後まで聞けよ! もし犯人が僕と同じ事を考えたとしたら誰でも容易に犯人像を思い浮かべることが出来るはずだ。現に君でさえそう考えたんだろ?」
あくまでも冷静な並木である。
「それじゃ、あいつは…」
「一点の曇りもないさ! 上原も麗子さんもね」、並木の顔には笑みが漂っていた。
並木は続けた。
「このことを知っているのは、やはり向居だろうね」
「うむ。だが、停電の件だけではな…」
「証拠としては弱いだろうね」
「物的証拠がなければ立件は難しい」
木暮の心配は現実のものであった。
この頃広島県警でも、鑑識にまわされた車からはなんの物的証拠も得られず、事情聴取も進展がなかったのである。向居は取り調べに対して完全黙秘を通していた。
もちろん車載テレビなどは設置した形跡も見つからなかったし、ミランダの遺留物ー髪の毛一本でさえーも得られなかった。
「僕があくまでも爪に拘るのは、スーザンの自殺からなんだよ」
「自殺から?」
「ミランダはスーザンの妹だった。その妹が姉を自殺に追い込んだ男…たぶん向居のはずだ。その向居に復讐を誓っていたと思える」
「俺たちもそう考えて、向居を追っているが?」
「しかしね、どうも妙なんだよ。ミランダを殺すためにどうして上原と麗子さんに罪をかぶせるような手段を執る?」
「そりやぁ、逃げるためだろうが?」
木暮は並木が何を言いたいのか分からず、間の抜けた返答で返した。
並木は、木暮に構わず続けた。
「向居にはもっと深い意味があって、上原と麗子さんを巻き込んだんじゃないだろうか」
「深い意味?」
「うん。たとえば上原の出世に対してとか…。漠然としたものだが、そんな気がする」
「スーザンの自殺の裏に何かがある、か…」
スーザンについての知らせを外事課から受けた木暮は、当初は(彼女の躰を通り過ぎた数え切れぬほどの男の中の一人が父親か?)と考えた。(スーザンは悩み死を選んだと…)
なぜならその報告は、スーザンの知られざる、驚くべき姿をあらか様に伝えていたからだった。
だから今、木暮は、あることを想像し、戦慄を覚えたのである。
(卑劣な殺人鬼の真のねらいは、ひょっとしたら、誠一の持つすべてを奪い去り、生き地獄に突き落とすのが目的なのでは? と…)
「並木! まさかスーザンの子は、向居の…」
工藤もその言葉に目を見張った。
「僕もそう思うよ…」、並木は目を中空に浮かせて呟いた。
「何て事だ! それじゃあまりにもかわいそうだ」
 その言葉は誰に向かって言ったのだろうか。木暮の顔面は蒼白であった。
 木暮には、外事課の刑事の言葉がいまさらのようによみがえっていたのだ。
刑事は、次のように言っていたのである。
「木暮さん。スーザンは売春婦ですよ。現地警察は言葉を濁していましたがね。どうやら、このことは家族にも新聞にも公表はしていなかったらしく、警察関係の人間しか知らないようです。担当だった刑事が、『あんな娘を冒涜したくはない』と、言っていましたが本当ですね」
 誰も、スーザンが行った行為を肯定はしてはいない。だが、スーザンの本当の顔を知り、その事情をくみ取っていたからである。
それは現地警察が、スーザンが自分を捨てた母親を見つけだし、躰を売って得た金でその生活を支えていた事を知っていたのだった。
しかし、幼い妹が施設におり、その妹ににも送金していた事までは掴んではいなかった。
とにかくスーザンは、天使の心を持つ売春婦であったのだった。
「上原は、僕と君のことをよく周囲に話していたらしい。君が刑事で、僕がここに勤めていることなどをね。向居と上原の間に、昔フィリピンで何があったかは分からないが、上原を陥れることは、僕たちも陥れることになる。そんな男なら、三瓶の土壌や僕たちの関係を調べ上げても不思議はない。一種の復讐だ」
「…」
「君に頼みがある」
「何でも言ってくれ!」、(奴の鼻を明かしてやる)との思いで木暮は応えた。
「ミランダの爪に入っていた腐葉土を出来る限り見せてくれないだろうか。もちろん両手の、それもなるべく奥だ」
「土だな! 分かった。何とかしてみる。だが、証拠物件だからそのつもりでな」、木暮は並木の真意を測りかねていたが、疑問を挟まず応えた。
木暮の言葉に対する並木の返答は、
「もし、僕の考えが当たっていたらミランダとスーザンの仇が討てる!」との力強い言葉だった。
木暮は、
「とにかく腐葉土を手に入れる。三、四日待ってくれ。これも預かる」と言うと、並木の書いた机の上のメモを鷲掴みにし、工藤とともに駆け出すように部屋を飛び出していった。
窓の外に、研究所の門を走り去る車が見えた。
並木は、その後ろ姿に呟いた。
「頼むぞ。必ず手がかりを見つけてみせる…」と。

どう理由を付けて持ち出したかは知らないが、並木の元に腐葉土を持って木暮が現れたのは、約束を一日過ぎた五日後だった。
すっかり顔なじみになった受付の松橋奈保子の案内で研究室に入って来た木暮は、開口一番に言った。
「すまん。もう少し早くと気は焦ったが、なかなか難しいことがあってな。見てくれ、これだ!」
木暮は、大切そうに鞄から小さな紙袋を取り出して、中のものを並木に渡した。
いま、並木の指先には、透明のビニール袋に厳重に納められた、ほんの僅か、耳掻き一杯ほどの真っ黒な腐葉土があった。
「訊いていいか? 一体それをどうするんだ?」
「この際、警察や科警研のメンツなど考えてはおられない」
「どういうことだ?」
木暮には、またしても並木の真意を計りかねている。
「この犯人は、上原やミランダに対しての恨みやその他の理由があったかもしれないが、一種の愉快犯でもあるような気がする」
「愉快犯? なんだ、それは?」
「僕と君に対してね」
「国家警察と、国家の研究所に対してか?」
そう言ってから、木暮は慌てて頭を掻いて言った。
「冗談を言っている場合じゃないな。すまん」
並木の自信とも取れる言葉が、木暮にそう言わせたに違いない。
並木は軽く受け流すと続けた。
「何かがこの中に…いや、必ず隠されているはずだ。犯人が殺害現場を隠し、それを発見できない警察や、少なくとも専門家と言われる、上原の友人である僕がその謎を解き明かせない不甲斐なさを笑ってみたいのかも知れない」
「だけどこれは、お前さんも認めたように、あの…植物なんとかで証明されたんだろ?」
「植物珪酸体分析ではね。だが、科警研といえども人間だ。見落としが絶対にないとは言い切れない。残酷にも首を切り落としたのは、顔や歯形で身元がばれることを恐れたからだろう。しかし、それと同じように警戒しなければならないのは、指紋だ。首を隠しても指をそのままにしておいたのは、何らかの理由がなければならない。国立公園だから掘り起こされる心配は少ないだろうが、万一、ということだってあるからね」
「発見された場合、殺害現場はここだと見せかける必要があった? そうだな!」
「台風でこんなに早く発見されるとは、思ってもみなかっただろうが、登山道のすぐ下だ。いずれ発見されるのは分かり切ったことだ」
「そうか! お前さんの言いたいことが分かったぞ! いや犯人の謎掛けがな!」
久しぶりに、木暮の笑顔を並木は見た。
 数分後、木暮は、案内された別室で神妙にしていた。
小暮の目の前には、各種の器具や見たこともない実験装置が整然と並んでいる。
並木は、その実験装置の一つ、温度変化型屈折率測定装置(RIMS)に手を触れた。 横の机の上には木暮持参の腐葉土が置かれてある。
「この装置は、君が僕を訪ねてきたときに話した火山灰の本籍地を調べるものだよ。この腐葉土の中に他の場所の土、いわゆる火山灰が含まれていれば、ほとんどの場合それがどこの火山からのものなのかを突き止めることが可能だ。日本は、全国どこでも火山灰と言って過言ではないがね」
木暮にも持参した腐葉土の分析の目的が理解できつつはあったが、今は、
「うん、うん」とだけ頷いている。
「いまから行う屈折率測定を簡単に説明すると…、少量の試料、すなわち火山灰を浸液に入れ冷却すると、液温の低下と共に浸液の屈折率は逆に上昇していく。屈折率合致温度に達すると火山灰中のガラス片は見えなくなるんだ。その時の数値が屈折率だ。幾つかのガラス片を同じようにして調べ、互いのデーター数字のよく似たレンジ(最小値〜最大値)と最頻値をもつものが同じ供給火山からの火山ガラスと考えて間違いない」
「うん、うん」、やはり他の言葉はない。
「ここにある三瓶・木次テフラ。一般にはS・K-ようするに、さんべのSと、きすきのKをとって名付けられているが、この屈折率は1.494〜1.498。そしてこちらの三瓶大田テフラ(S0d)も屈折率は1.494〜1.498だ」
「同じか」、木暮は、数字の一致は理解できた。
「そう。一致する。ようするに、火山灰が見つかった場所が遠く離れていても同じ三瓶山からの火山灰ということだよ。もちろん、含まれる斑晶鉱物も同じだ。さらにこれでも問題が残る場合は、前にも話したように“蛍光X線分析”などで同定することになる」
「ふん、ふん」
頷いた木暮だったが、捜査以上に肩が凝ったような思いにとらわれて、我ながら情けないと思っていた。
木暮はそれを並木には知られたくなく、
「すぐに結果が出るのか?」と訊いた。

二日後。
研究所の門をくぐる小暮に、一抹の不安が付きまとう。
それは、
「結果が分かるのはあさってだ。それに調べたいことがあるから、あさってもう一度来てくれ」との、並木の言葉である。
だが、そんな木暮の心配をよそに、並木は満面の笑顔を見せて小暮を迎えた。
「思った通り、出たよ」、声までもが弾んでいる。
言いながら木暮に差し出すトレイの上には、四つのガラス製のシャーレが載っていた。
覗き込んだシャーレの中は透明な溶液が入っていたが、他には特に変わった物は見えない。
「?」
木暮は、トレイと並木の顔を交互に見て訊いた。
「これは? 何もないが?」
「透明のガラスだよ」、笑顔ではあるが真面目な口調だ。
「ガラス?」
「そうだよ。ガラスだ」
その言葉に、木暮がシャーレの一つを受け取って傾けると、中に小さな物が確かに数個見えた。
「姶良Tnテフラだ。つまり、二万二千年前に大爆発した南九州の姶良カルデラを供給源とする火山灰だよ。姶良カルデラは、いまの鹿児島湾北部一帯を占める直径二十キロにも及ぶ大カルデラだった。その噴出した量は、箱根火山などが数万年をかけて噴出したと同じほどの、あるいはもっと多かったかも知れないが…、ともかく膨大な量の噴出物を一度で噴出したらしい。有名な鹿児島のシラス台地がその名残の堆積物だよ。そして、上空高く吹き上げられた火山灰が偏西風に吹き流されて日本各地に堆積していった」
「それが、これか!」
「そうだ。それからこちらが爪の中で見つかった火山ガラスで、その他は、僕が採取したものだ。姶良Tnテフラは広域テフラで、最も輝石流紋岩質の火山ガラスにとみ、その屈折率も斑晶斜方輝石の屈折率も明らかだ。すべてが一致したんだよ」
研究所で、腐葉土の中から検出したほんの僅かな火山ガラスは、並木の持っていたテフラと対比されていたのだ。
並木みずからが採取したこれらのテフラは、その火山灰の本籍地とも言える南九州の鹿児島県国分市・倉原。宮崎県小林市・南原町のものである。
そして、もう一つの試料である、キナコのような色をした火山灰も、三年ほど前に大山山麓の鴨が丘で採取したものである。
これらの分析結果は、並木が想像した通りであった。
被害者・ミランダの爪深く入り込んでいた微量の混入物は、紛れもない姶良Tnテフラであった。
これら四つの火山ガラスの形態は、バブル型という特徴のある平板状であり、屈折率は1.498〜1.500。斑晶斜方輝石の屈折率も1.728〜1.734である。
すなわち、国立地質研究所・主任研究員並木眞吾の持つ四つの火山灰は、すべてみな南九州ー姶良Tn火山灰であったのだ。
「現場は大山か!」、木暮は並木がびっくりするほどの声を上げた。
「どうして分かったんだ!」、普段冷静な並木も、木暮に負けず劣らずの声で訊いた。
「ハッハッハッ。俺はデカだぞ!」
木暮はこの二日間、必死の思いで向居の行動をあらゆる角度から探っていたのだ。
そして木暮は、三次の喫茶店のマッチから、高須だけでなく向居自身も五十四号線を通ったと睨んだのである。
事を起こすには地の利がものを言う。
さらに、(ミランダは大山に着くまでは生存していたのでは?)と考えた木暮は、(殺害現場は向居の自宅付近では!)との直感をもつに至ったのであった。

翌日。
木暮は、広島県警刑事・林・進藤の両刑事。それに加えて、大田署の野上と共に国道五十四号線を東に、ひたすら大山に向かっていた。
向居の目撃者探しと、殺害現場の特定であった。
「木暮警部、少し休みますか? 」
木暮を気遣って野上が訊いた。連日の聞き込みは、木暮の目の下にくまを作っていたのだ。
「いや。このまま走って下さい」
めまぐるしいほどの推理を組み立てているのだろう。木暮は表情を全くかえずに言った。
運転する野上が、再びルームミラー越しに木暮に訊いた。
「小暮警部、ミランダを首尾良く誘い出した向居の目的が、殺害だとしても、どうしてミランダがスーザンの妹だと分かったんでしょうか? やはり歓迎会の席ででしょうか?」
「向居は、ミランダに不審を持ったのでしょうね。姉のスーザンは、死ぬ前にミランダに手紙を残しています。その中に、的江と言う名があったのは知っていますね。ミランダはその的江を探すために日本に来たんですが、決してどこでもよかったのではなくあくまでも広島に拘っていたはずです」
「松田さんが広島にいると考えたのですね」
「ええ、しかし、今も広島にいるかどうかは分からなかったでしょうが、とにかく手がかりを得たかったんでしょう。そんなミランダに一つのチャンスが訪れた。広島の松田興業の募集ですがね」
「すでに妊娠していたと聞いていますが、ミランダにとってよほど大切な姉だったようですね」
「ええ。姉のスーザンが死んでから十四年も経っているのに行動を起こすんですからね」、小暮は、野上の言葉をスーザンに聞かせてやりたかった。
小暮は、幼いミランダの心に生き続けたスーザンを、上原がこよなく愛したことが、いま改めて分かったような気がしていた。
「おっしゃるように、日本に来た日の歓迎会で、向居は二人に不審を持ったようです」
「松田さんとの会話の件ですね?」
「ええ。それからでしょうね、ミランダに注意…と言うより 警戒だったかも知れませんが。向居も、松田がびっくりしたと言うほど二人がよく似ていることから、ミランダの経歴を探ったでしょうが、スーザンとミランダの関係は分からなかった。身上書に書かれてある出身地も家族構成もすべて違いますからね。これは私の憶測ですが、ミランダに、姉・スーザンとの過去を話せない松田誠一は、何かと面倒をみたはずです。当然向居は、ますます二人に興味を持ったでしょうね。来日して一〜二ヶ月後にはミランダも向居には気を許すようになり、フィリピンでの一部始終を話したんでしょう。もちろん向居に協力をして貰うつもりだったんでしょうがね…」
「姉もつまらぬものをものを残したもんですね…」、やり切れぬように野上が呟いた。
「私は思うんですが、松田誠一のイニシャルはS・M。向居の名は“信”で、二人ともS・Mです。全く皮肉としか言いようがないですよ」、木暮もまた、違った意味でやりきれなかったのだった。
進行方向正面に、山陰地方最大の湖である宍道湖と、その先に遠く霞む島根半島が見えてきた。
国道五十四号線は、ここで国道九号線と合流する。九号線は、下関〜京都間を結ぶ山陰の大動脈である。
四人の乗る車はこの宍道町で右に直角に曲がり、静かな湖面を見せる湖畔をさらに東に速度を増した。
左手の湖面に浮かぶ水鳥が、行き交う車にも我関せずといった風情でさざ波と遊んでいる。
木暮は、ちょうど二ヶ月前にも、ミランダが残した八文字の謎を追って松江に向かう車内からこのような情景を見たことがあったのを思い出していた。
その時の木暮は、正直に言って何の目算もなかった。
しかし今は違う。木暮は、この事件が大詰めを迎えている感触を覚えていた。
松江市内の手前で、車は再び右に大きく右折する。バイパスに入るのだ。
混雑する市内を迂回するように出来たこのバイパスは、従来の国道九号線とはだいぶ違って広く、快適な道である。将来の山陰高速道路の一部として最近やっと開通したものだ。
およそ一時間ほど走ると県境である。
「警部。鳥取県に入りました」、道路標識を見て野上は道路脇に車を止めた。
木暮は並木から貰った地図を膝の上で広げた。地図は鳥取県全域が網羅されている、詳細なものだ。
地図の二カ所に赤い印が付けてある。これは、並木が付けてくれた、姶良Tn火山灰の発見地点である。
「まず、露頭を探す必要があります。姶良Tnという火山灰の確認の後、目撃者の聞き込みを。まず向居の実家がある鴨が丘郊外に行って下さい。自宅周辺にも一カ所ありますので」、木暮は三人に指示を出した。
四人を乗せた車は、再びまっすぐで整備された国道を走り始めた。国道の両側にはのどかな田園風景が広がっている。
国道をしばらく走ると、今までの風景が一変した。車は鳥取の皆生温泉に入ったのだ。
運転する野上がルームミラー越しに木暮を見て言った。
「皆生温泉です。ここの温泉は海中から引いていて、全国でも珍しい温泉ですよ。島根の玉造温泉もいいですが、ここもいいですよ」
別に、(東京の警部さん…それも警視庁の…)と考えてのサービスではないだろうが、木暮もそれに合わせて、
「有名な温泉地だとは知っています」、と応えた。
林と進藤は、笑いをこらえて目を見あわせた。
車は、野上の気に入っている皆生温泉を右に折れ、国道一八一号線、いわゆる出雲街道に入った。
今までは、観光シーズンともなれば相当に混み合ったこの道路も、最近開通した米子自動車道によってその渋滞も緩和され、平日の今日はがらがらといえるほど空いている。
「警部、大山です。別名、伯耆富士と言われる秀峰です。三瓶山は島根県を代表する山ですし、大山は鳥取県を代表する山ですね。ご存知かも知れませんが、三瓶山と共に、国引きの伝説でも知られた山ですよ」
 左手に、野上ガイドのお勧めである広い山裾から続く見事な円錐形の山がそびえている。
そろそろ溝口町に入ったようだ。
 四人の乗る車は、ここから江府町を経由して、国道を四八二号線に乗り換え美作街道を進む予定だ。
向居の実家は、この美作街道から左に折れて、山裾に向かう途中にある。
広大な畑が広がる大山のすそ野の農道を走ること三十分ほどの場所で、関田町・鴨が丘に隣接する戸数十五軒ほどの小さな集落だ。
木暮は愛用のライターのジッポーでタバコに火を付け、向居の経歴が記されたメモに目を通した。
向居は地元の小・中学校を卒業し倉敷市内の高校に進んでいたが、経済的な理由からなのか、高校は二部(夜学)であった。さらに、大学も夜学部である。しかし、大学卒業後のまる三年間は、なぜか空白であった。
そして、次に経歴に現れるのは、フィリピンの旅行代理店に勤務した時からであったが、松田誠一が結婚した後、退社してからのことは、大学卒業後と同じように何も書かれてはいない。
向居の足取りを調べるにも限界はあったと思われる。とくに、大学卒業後の足取りを知るには、二十年という年月がそれを妨げていたのは無理からぬことであったろう。
「この不明の期間は、向居は何をしていたんだろうか?」、小暮は、立て続けにタバコを吹かして考え込んでいた。
木暮には、そうした向居の行動が、今回の事件に無関係とは思えなかったからだ。
「警部、関田町に入りました」
「鴨が丘に、お願いします」、野上の声に、木暮はメモの代わりに地図を取り出して言った。
野上は、国道を左に折れ、両脇を畑が続く道に車を進ませた。
最近はどこでも道路の拡幅がなされているようで、前方に道路工事の看板が見え、大きく削られた切り割りで、数人の作業員と工事用の車両が忙しそうに立ち働いている。
「野上さん、止めて下さい。ちょっと、調べてみますので」
木暮は、向居の自宅がすぐこの先にあることを林と進藤から聞いており、事前に火山灰が露出する場所を見ておきたかったのだ。
ここ鴨が丘一帯に広がるなだらかな丘陵地帯は、大山の噴出物の名残で、並木が言う姶良Tn火山灰は、この噴出物の下にあるはずである。
木暮は、現場監督に警察手帳を見せると協力を依頼し、若干の土を採取すると車に戻った。
切り割りの露頭は、花崗岩のようであったが(もちろんこれは、現場監督に聞いて知ったのだが)、ルーペで覗いても一個のガラスも含まれてはいなかった。
「火山灰と聞いていましたから、切り割りならどこでも見られると思っていましたが、そうではないようですね」、林が残念そうに言った。
「そのようですね」と木暮も頷いたが、心の中はそれとは別のことを考えていた。(並木の言うように、どこにでもあるものじゃない。だから貴重なんだよ)と。
再び走り出した車内で、地図と周囲の景色を注意深く交互に見ている木暮が、野上に指示した。
「野上さんその先を左に行って下さい。姶良の火山灰があるのはその道の奥ですから」
地図には、並木が火山灰発見場所を書き込んでくれていたからだ。
その時である。
「警部、この道は向居の自宅の裏手に当たりますが」と、林が思いがけない言葉を口にしたのだ。
「え?」
「この前、向居の実家に来たとき、私も間違ってこの道に入ったんですよ。この先は墓場です」
「墓場?」
「ええ。なんでも向居の先祖の墓地もそこにあるようです」
「林さん! 向居家の墓は、この姶良火山灰がある場所なんですよ!」、木暮はこの事実に慄然としたのである。
「ええ!」、三人の驚きは木暮のそれと同じだった。
林の言葉は、決定的な意味を持っていたのである。
この一致が何を意味するのかは、言わずもがなであった。
「急ぎましょう!」、木暮の大きな声は、緊張していた。
 道路の両側は、なだらかな畑が続いている。暇な時期なのか、人の姿はない。
「警部、あそこです!」、林が窓から乗り出すようにして右手前方を指さした。
道路の行き止まりのその場所は、小高い丘の麓のようである。
手前全体が切り取られて露頭が現れ、その下に墓石が見えていた。
木暮は無言で、後部座席にいる隣の進藤と顔を見合わせた。
助手席の林と、野上は前方を睨んでいる。
車は二、三台が駐車できる墓所前の広場に止まった。
薄茶色の崖が、規則正しく並ぶ数十の墓石と四人の刑事を見下ろすように起立している。
四人は、ゆっくりと車を降り、木暮は、七メートルほどの高さの露頭に歩んでいった。
三人は、微動ださえせず、じっと木暮の後ろ姿を見ている。
木暮は直立する崖の前で立ち止まると、一度だけ全体を見渡した。
 いま、木暮の目に、積み重なった何枚もの地層が見えた。
木暮は、ポケットからルーペを取り出すと、地面から一メートルほどの高さに挟み込まれたしらっちゃけた色をした地層から少量の土を手に取り、覗き込んだ。
そして、数十秒が経った頃だろうか、木暮は震える声で言った。
「火山ガラスだ! 姶良Tn火山灰に間違いない!」
木暮のその声は、墓石を見下ろす崖にしみ込むようであった。
地層は、この地で起きた数万年もの歴史を刻み、かつ、すべてを見たであろう証人であった。

二日後…。
向居逮捕に向かう木暮は、塚本に囁いた。
「塚本。俺にお前さんの手錠を貸してくれ」
「?」
「もちろん俺も持ってはいるが、もともとは広島が発端の事件だ。だが、奴に手錠を掛けるのは俺にさせてくれ」
「…分かった。君の好きなようにすればいい」
まれにみる広域で凶悪な二つの殺人事件は、それぞれの捜査本部にさまざまな思惑と波紋を広げたが、この日、向居信は広島県警の塚本に逮捕された。
有無を言わせぬ証拠と、厳しい追及を交わせるはずもなく、向居は自供を始めた。
木暮の推理通り、車載テレビも日本海に投げ捨てたという向居の自供通り、国道九号線に沿うよう広がる多伎町の海の底で発見された。
そして、すでに白骨化した頭部も、向居の実家の床下より掘り出された。
その翌日、木暮は駆け付けた並木夫婦と共に、松田夫婦を訪ねていた。
「よう、上原。奴が犯行を認めたよ。今度ばかりは、お前さんも麗子さんも大変だったな」
「木暮さん、本当にありがとうございました。並木さんにもなんとお礼を言っていいのやら…」
「麗子さん。今回の一番の功労者はなんといっても並木ですよ」、木暮は、多くは語らないが有無を言わせない証拠を突きつけてくれた並木を見て言った。
「並木、木暮。僕が最初から正直に言っていれば、もっと早く解決していたはずだったろうに。本当に世話になった。ありがとう」
上原は深々と頭を下げた。
「やめろよ、上原。水くさい」、木暮は下唇を突き出して言い、(おい、お前さんもなんとか言えよ)といった表情で並木を見て頭を掻いた。
その木暮に対する並木の返答は、
「麗子さん。誠一君と木暮、それに僕の三人は、学生時代も今も三羽がらすなんですよ」との笑顔の混じった言葉だった。
並木の妻・志帆、そして木暮も、笑顔で並木と誠一を見たのは言うまでもない。
麗子と上原は、並木の言葉に対してただ黙って頭を下げた。それが、二人の気持ちを何よりもあらわしていたに違いない。
「ところで…、向居がミランダを殺した本当の理由は一体何だったんだ」と、上原が遠慮がちに訊いた。
上原誠一は、向居がミランダを殺し、さらに自分たち夫婦を陥れようとした彼の魂胆が分からず困惑していたのだった。
志帆と麗子は、互いに頷きあうと、そっとその場を離れた。
自分たちがいては、木暮も誠一も、そして並木も、言いたいことが言えないと考えた、利口な女・二人であった。
並木は、二人の後ろ姿がドアの向こうに消えたとき、(三人が始めて会ったのは、永子の通夜の晩だったな…)と、遠い昔をふと思い出していた。
「薄々はお前さんも気がついているとは思うが、フィリピンにいた時分に向居は本社から一通の手紙を受け取っていた。それは『上原誠一を本店営業部に配属させてはどうか』との打診だった。まだ入社して四年しか経っていない人間にだ。当然、お前さんより実績も経験も豊富な向居は不満を持ったようだ。すでに九年も勤めあげている自分が戻れない日本に、後輩が先に戻ることがな。ましてや栄転だろうからな。向居は納得のいかない気持ちが日に日に強まったようだ」
「知らなかった…。彼がそんな気持ちでいたなんて…、僕は、日本に戻りたいなどとは思ってもいなかったのに…」、誠一は暗澹たる気持ちが広がるのを感じていた。
「お前さんの気持ちを確かめさえすればな…。だが、向居の気持ちはその頃すでに憎しみに代わっていたようだ。もちろんお前さんに対してな」
「僕に? 僕に憎しみを?」、誠一は(どうして!)と言った表情で訊いた。
「スーザンが亡くなる少し前のことだそうだ。向井はあるへまをしでかした。出かけた得意先へトラブルの処理に行ったようだが、かえって客を怒らせてしまい、大事な取引がすべてキャンセルになったらしい。落胆して支店に戻った向居に、さらに追い打ちをかけることが待っていたんだよ。それは廊下で向居を非難している部下の噂だった」
「…」
「向居が偶然耳にしたのは、『ボスもこのままじゃあ、誠一に席を奪われるんじゃないかしら。彼がここに来てから営業成績もずいぶんと上がったらしいわ』。『あの人もいい人なんだけど、ここが長い割にはちょっとね』。と言う部下の現地女性の会話だった。向居にそのとき憎しみが芽生えた。『なぜ俺はこんなに運が悪いんだろうか…、世間の奴らは大した実績も能力もないくせに! いい学校を出ているからか! 親の七光りのくせしやがって!』などと言った憎しみがな。ま、世間ではそうした納得がいかないことが多いのは事実じゃあるが…。とにかくこういった思いが学校を出てからも、転々と職を変えた原因だったようだ。向居は、やっと満足のいく支店長になれたと思っていた矢先、再び絶望の思いに駆られたらしく、その夜、繁華街に出た。…そしてある店に入った向居は…、一人の女に出会ったんだよ」
「…スーザンか…」、誠一は、目を閉じてかつての恋人の名を呟いた。
木暮は、微かに頷き、そのまま言葉を続けた。
「その時、向居に悪魔が囁いたそうだ。(この女は、あいつの女だ。あいつだけに甘い話を持っていかせる訳にはいかん!)とね。スーザンはなんとしてでも断るべきだったろうが出来なかった。多分なんとかして隠し通したかったのだろうが…、今となっては想像するしかないがな…、結局、彼女は妊娠した。その時の彼女の気持ちは男の俺でも想像はつく。お前さんに、二度と会えないとね。そして、成長したミランダは事情を知り、姉の復讐を誓って日本に来たんだよ。後はお前さんも知ってのとおりだが」
「何という…」、誠一の口から低い嗚咽が漏れ出ていた。
誠一のすすり泣く嗚咽だけが、この場の沈黙を破っていた。
やがて、誠一は口を開いた。
「僕は、向居さんを尊敬していた…それなのにどうして!」
「向居の憎しみが頂点に達したのは…お前さんと麗子さんの結婚だったそうだよ。どうも、向井は麗子さんを…、向居が代理店を辞めたのは、それが原因だ」
木暮はかろうじてそれだけ言うと、窓の外に目をやってぽつりと呟いた。
「人間、誰でも思うように生きてはいないのだがな」と…。
「すでにそのことも向居には見えなかったんだね…」、黙って二人を見つめていた並木も、木暮と同じようにぽつりと呟いた。
そろそろ上原宅を辞する時刻であった。
木暮と並木夫婦が玄関を出るとき、誠一が言いづらそうに訊いた。
「ドクツルタケの毒のことを向居はどうして知ったんだろう? まさか僕があの事件を解決した君たちのことを話したから…」
上原の言葉を木暮が遮った。
「そんなはずがないよ。向居はもともと田舎で育っているし、山にも詳しい。聞かなくてもそれくらいの知識は持っているよ。並木だって専門は違うくせに、キノコにはえらく詳しいぞ! な、そうだろう田舎育ちの並木さん?」
「おいおい、あまり田舎、田舎と言うなよ。三瓶は国立公園だぞ」、 並木も笑って木暮に言い返した。
 
二日後、広島にいた木暮が三瓶に立ち寄った。
広島での向居の事を塚本に任せ、東京に戻る日なのだ。
今後は、東京での裏付け捜査に追われる毎日が続くはずだ。
「なあ並木。俺は拘置中の上原に、スーザンの件を言うときあいつの目が見られなかったよ」
例のスーザンの妊娠に触れた時のことが、木暮には絶えきれない苦痛として今も自分自身の中にあったのだ。
「分かるさ。しかしな、上原はそのことは十分承知しているさ! 僕だって君の立場なら同じことを言ったはずだよ。心配するな! ところで、向居はどうして高須のことを知っていたんだ?」
「そうだったな。向居は二人の結婚後すぐに日本に戻ったが、東京で転々と職を変えたようだ。そうするうちに両親の死という不幸が向居を襲ったらしい。葬儀を済ませ、焦燥し切った向居が再び東京に戻る列車の中で知り合ったのが、山行きで大山から戻る途中の高須だよ。同じ席に乗り込んだ、ほんの偶然だったようだ。向居は大山の出身だから、寂しさの中にも東京に戻る間は話が弾んだようだ。さらに話題が偶然フィリピンのことにも及び、その中で上原誠一のことも何かの拍子に出てきたようだ。当然上原は、二人に共通の男だからな。そうして何年かが過ぎた。普通ならそう何年も復讐などを思い続けることは難しいだろうが、安定しない生活の中でますます世間は理不尽で勝手なものだとの思いが向居の歪んだ心にしみ付いていった。そのころだよ松田興業のことを耳にしたのは」
「広島に向居が姿を現したのは、上原と麗子さんに近づくためだったんだな」
「そうだ。二人の破滅を誓ってな。そして、松田興業に入り込んでそのチャンスを伺っていた向居に巡ってきたのが、ミランダの来日というわけだ」
「いずれにしても、上原と麗子さんを破滅させ、その上に二人の友人の僕と君をも巻き添えにしてやれとの向居の考えは、尋常じゃなかったね」、並木は、世間を羨み、憎む向居の気持ちが分からない訳ではなかったが、矛先を向ける方向と手段は絶対に許せなかった。
「そうだな。それが命取りになった」
向居は、上原の友人である並木と木暮を甘く見過ぎていたのだった。
事実、もし並木が爪に不審を持たなかったなら、事件の解決は大幅に遅れただろうし、木暮が広島に上原を訪ねなければ、この犯行は闇の中のまま終わったかも知れない。
「ミランダを呼び出したのは、最初から殺すつもりだったんだろうか?」
「酷いことだがな」と、顔をしかめた木暮は、向居の自供をもとに話し始めた。
「ミランダを呼び出すのは簡単だったようだ。Mという男を知っていると思われる的江の名を利用すればいいことは分かり切っていたし、以前知り合った高須を利用しようと考えたんだよ。高須が列車の中で上原の消息を訊ねた時、(この男はいつか役に立つ!)と考えた向居は、『今はどうしているか知らない』と応えている」
「なるほど。計画を実行するに当たって高須を抱き込むことは絶対に必要だっただろうからね」
「金で雇われた高須は、(たかが手帳を落とすだけなのに?)と、報酬の多さに不審を抱いたらしいが、“背に腹は代えられない”というやつで承知した。もっとも、やばい仕事とは気がついていただろうがね。いずれにしても高須を利用することが上原をより不利に出来る」
「盗んだ手帳は、最初に立川に行ったときに渡し、殺害は二回目だね」
「そうだ。だが、あの時くらい目撃者を捜すのに苦労したことはなかったよ」と、木暮は当時を振り返って言った。
実際、その時ほど行き詰まった捜査はなかったのだった。
「最初、向居は上原と麗子さんを陥れてやるとの目的だけのようだったが、ミランダから入手した事実を知って憎しみが増したらしい。丸山医院の件がそうだ。向井はミランダの子が、上原の子だと思ったようだ」
「…ミランダの子が、上原の?」
「姉妹そろって美人だし、そのうえ麗子さんまで奪われたとずっと考えていたようだ」
「すべてを悪く悪くと考えたのか…」
「それにしても、夫婦の疑心暗鬼は分かるが、警察に対して夫婦揃って訳のわからんアリバイを申し立てれば、逮捕に動くのは当たり前だ」
「そうだな」、並木も上原の頑固さに舌を巻いたのを思い出していた。
「それはともかくとして、高須の件で誤算が生じた」
「あれが、単なる転落事故で処理されていたら大変だったな」
まさに並木の言うとおりである。目撃者の話は筋が通っており、殺人事件に発展するとは限らないからだ。
「立川の事件と三瓶が繋がっているなどとは、俺も夢にも思わなかったよ」
この言葉は、木暮の正直な感想である。
広島県警で自供を始めた向居と、塚本のやりとりは、これ以外に次のようなものであったという。
「私は、ミランダに『的江は大山にいる』と騙して、高須に迎えに行かせたんですよ」
「ミランダの部屋に残っていた“matue sta”だな」
「ええ。ミランダは私を疑うことなく、出かけたんですよ。それから高須と三次のはずれで落ち合いました。最初ミランダは騙されたとは思わなかったようですが、大山に向かう途中の車内で、いろいろ世間話をする内にミランダも“妙だ ”と気がついたようで、言い争いになったんですよ。もっとも、最初から殺すつもりでしたから考えてみれば言い争う必要はなかったんですがね」
「それで?」
「姉を死に追いやった責任を取れと迫るミランダに、ハンカチにしみ込ませた麻酔をかがせてトランクに隠し、大山の実家に行きました」
「その場で殺さなかったのは、どうしてだ?」
「横たわった女を見ていたら…、どうせ殺すなら姉と同じように弄んでからと思ったんですよ。本当は大山でなく、社長の友人のいる三瓶で殺害して社長のせいにするつもりもあったんですがね。そうすれば、友人の並木とかいう学者にも一泡吹かせてやれますからね」
「それで?」、塚本は、平然と言う向居の顔をじっと見つめながら先を促した。
「途中で犯すのは時間がなかった。楽しむ時間が、ですがね。楽しむには実家が一番ですからね。それで、実家に着くと墓参りと言って隣家で花を貰い墓場に行ったんですよ」
「そこでミランダに手を出したんだな!」
「あの女は、よく奥眠っていましたよ。姉のスーザンと同じでいい躰をした女でしたがね。ところが終わった後、私が油断した隙に車から逃げたんですよ。ですが、すぐに崖に追いつめた。逃がす訳にはいきませんからね」
「それで?」
「馬鹿な女ですよ。持っていた紐を背後から首に巻き付けてやりましたがね」
「その時、なんとも思わなかったのか!」、
「あの女は苦しみ、もがいて死にましたよ。その時でしょうよ、もがいた拍子に爪が崖の土を削り取ったのは。あの女の爪が濃いマネキュアで気がつかなかったのが失敗だった。指を残しておいたのは、三瓶の腐葉土を詰め込むためだったが、こんな事になるのなら首と一緒に切り落とすべきだったよ! 松田誠一の友人の、あの並木とかいう学者があそこまでやるとは思わなかったがね…。そうそう、高須も当然邪魔になりますしね」
向井はそう言うと薄ら笑いを浮かべた。
塚本と木暮は、悪鬼の所業のすべてを淀みなく話す眼前の男の心と言葉の中に、世の中と人間に対する言いしれぬ憎悪と虚無を看ていた。
 それが、殺人鬼・向居の、塚本と木暮への返事だった。