第二章
紅葉の中で

木暮が東京に戻って十日が経った十月の初め。
「先生。東京の木暮様から、一番にお電話です」
研究室で顕微鏡を覗く並木の耳に、受付の松橋奈保子の声が届いた。
「ありがとう。すぐにでるよ」
研究所での奈保子と並木のやりとりは、大部分がこうした内容であって、会話といえるかどうかははなはだ怪しいが、彼女の仕事に対する前向きの姿勢と日頃の屈託のなさを並木は気に入っている。もちろんその清楚さが彼女の最大の魅力だが。
「もしもし。僕だ」
その声が先方に届くか届かない内に、受話器を当てた並木の耳に挨拶もない大きな声が聞こえた。
まるで怒鳴っているような甲高い声である。
「並木! えらいことになった。上原が引っ張られた!」
「え? 何のことだ?」
「あいつが、上原が重要参考人として広島県警に拘束されたんだよ! 俺もまだ詳しくは聞いてはいないが、失踪したミランダと三瓶の例の殺人事件での参考人としてだ!」
「なんだって! そんな馬鹿な…」、
並木の頭の中で、『殺人事件の参考人』という言葉がぐるぐると渦巻き、そのめまいのような衝撃の中で、悲痛とも取れる木暮の声を並木はぼんやりと、そして遠くに聞いた。
「並木! お前も上原に会ったんだろ。その時はどうだった!」、再び怒鳴り返すような木暮の声で並木は我に返った。
「拘束はいつなんだ! 君が東京に戻った二日後に会ったときは何も変わった様子はなかったぞ! それに、昨晩電話をしたが、殺人事件のことなど一言も話さなかった!」
「今朝だ! この前俺が広島に行った時、県警の俺の同期にそれとなく失踪の件で協力を頼んでおいたんだ。この知らせはその男からだ。どうも広島県警は最初から上原に目を付けていた節がある!」
「三瓶の殺人とミランダの失踪が何の関係があると言うんだ!」
「殺害されたのはミランダだ!」
「なに! そんな…」、木暮の言葉に並木は息を飲み、絶句した。まさに頭部を強烈に打ちのめされたようなものである。
「害者の身元が割れたんだよ! とにかく何とかしなければならん!」
「何とかって、どうすればいいんだ! 君に出来ないことが僕に出来るわけがないだろう!」、普段冷静な男も、まるでパニックに陥ったように早口で言い返している。
冷静であるべき警部と研究者の心は、共通の友人である男の拘留という信じがたい事実に、表現できないほどの混乱と不安に包まれていたのである。
そしてそれは、最も避けなければならない殺人の容疑者としての拘留であった。
「…」
「おい木暮、何とか言ってくれ!」
「…」
電話の先の木暮は、並木にせかされても、上原に関しては返事どころか身動き一つ出来ない立場にあったのである。
なぜならば、この朝、広島県警の連絡と時を同じくするかのように、都下・立川市で起きた殺人事件の報が警視庁捜査一課に飛び込んできたからである。
並木にどう思われようと、木暮は正直に告げなければならなかった。
「…すまん。いま俺は他の事件でにっちもさっちもいかないんだ。こっちを済ましたら出来る限り早く広島に行く! すまん」、早口でそう告げると、電話は一方的に切れた。
友人の拘留という悪夢のような出来事は、並木に身の置き場もない心細さを与えた。
だが、逃げるかのように電話を切った木暮の気持ちが、誰よりも並木はよく分かっていた。
「大丈夫だ。君の気持ちは僕と上原は知っているさ…。あまり無理をするなよ」、並木の口から慰めるような言葉が漏れた。

東京都内で一年間に死亡する自殺者・他殺・災害事故死の数は、およそ四〜五万人に上るという。
その中で、
「一割強が変死者」だ。と並木は木暮から聞いたことがあった。 変死という異常な死を迎える人間が、一日平均十名以上ということである。
警察官である木暮は、その度に真相を追って走り回らなければならないのは当然のことである。そんな立場の男のことを、並木は十分知っていたのだった。
木暮が並木に告げた三瓶の事件とは…。
並木の住む三瓶を木暮が離れた三日後の、からりと晴れ上がった日の出来事であった。
「ピポピポ…ピポピポ……」
研究所で忙しそうに立ち働く二人の男の耳に、独特のサイレン音が届いた。
男は並木眞吾と、助手の松代だ。
「先生、パトカーのようでね。何かあったんでしょうか…」、手を休めた松代が窓の向こうの通りに目をやって言った。
「どうやら、こちらに向かってくるようだね。それに一台や二台ではないようだ」
並木も熱心に覗き込んでいた顕微鏡から顔を上げて、同じように音の方角に注意を向けた。
並木が言うようにそのすぐ後、庭を挟んだ通りを赤ランプを点滅する三台のパトカーと、一台の救急車が猛スピードで走り抜けた。
研究所周囲は放牧牛が草をはむのどかな土地で、民家さえもほとんどない。
並木は、そうした環境に建つこの研究所に勤め始めて十数年が経つが、このようにけたたましいパトカーのサイレンを聞いたのは初めてだった。
しごく平和な土地だった。いや土地であるはずだった。
だが、遠ざかったそのサイレン音が、平和そのもののような国立公園と、窓に歩み寄った研究者・並木眞吾の友人に直接襲いかかる破滅の序曲となるなどとは誰一人として想像すらすることがなかったのは当然であった。
そして、この序曲は次のようにして幕を開けた。
古くから“国引きの神話の舞台”の三瓶山も深まりゆく秋の気配が日増しに濃くなっていた。この日は台風一過であった。
山を覆う木々の葉が、ところどころ昨日の強風でもみくちゃにされたようになってはいるが、山全体が燃えるような赤や黄色で覆われたキャンバスのような三瓶山は、十月の観光客で賑わっている。
抜けるような秋空にそびえる標高千百二十六メートルの主峰は、お椀を伏せたような女性的な山である。
三瓶山は、隣県の鳥取県の名峰・大山(別名・伯耆富士)と並び称される山陰の名峰で、大山・隠岐国立公園の一翼の景勝地として知られている。
主峰は、親三瓶と名付けられているが、地元では別名・男三瓶とも呼ばれている。
この男三瓶と尾根で結ばれた山も、それぞれがおもしろい名で呼ばれている。女三瓶・子三瓶・孫三瓶である。
その名の由来は、家族が仲良く手をつないでいる様子からだと、地元の古老は自慢そうに言う。
全体の山容は、四つの峰々が中央の“室ノ内 ”と呼ばれる噴火口をぐるっと取りまき、我が国は言うに及ばず世界最大のカルデラを持つ活火山である阿蘇山と同じカルデラ火山である。
主峰全体は深い原生林に覆われ、特に北斜面は鬱蒼とし、一抱えほどもあるブナの大木が林立している中に多くの登山道や自然観察道が整備されている。
そんな登山道の一つを二人の大学生といった感じの女性が登りつつあった。
周囲のブナや燃えるようなナナカマドは、二人に歓声を上げさすには十分に色づいている。見るところ、この北側の直登ルートを登っているのはこの二人だけらしく、他には人影もなく声も聞こえなかった。
聞こえるのは、狭い登山道を敷き詰める落ち葉を踏みしめる、「カサカサ」という二人の足音だけである。それが、二人に一足も二足も早い晩秋を感じさせている。
幾重にも重なった落ち葉は、昨晩の猛烈な風がまき散らしたのであろう。
「佐和子、すてきね! 私、三瓶山に登ったのは初めてだけど、こんな静かで綺麗な所とは思わなかったわ!」
「そうでしょ! 私は今日で三回目だけど、いつ来てもほっと出来るような気がするのよ。生き返るわ! 今度は光子も新しい彼氏を誘ってくれば?」
二人の言葉からみて、近在の登山客ではないようである。足を止めた林内は、言葉以外は何も聞こえない静寂の中にあった。
お洒落な帽子をかぶった佐知子と呼ばれた娘は、感激で一杯の友人に応えると、気持ちよさそうに大きく手を広げて何ものにも汚されていないはずの森の空気を胸一杯に吸い込んだ。
そんな佐知子を笑顔で見ていた光子は、何気なく登山道の下の急斜面に目を転じて驚いたように言った。
「ねえ、見てよ。あんな大きな木が根っこごと倒れているわ。昨夜の台風のせいかしら?」
「そのようね。私、昨夜は旅館の窓をたたく風の音で二度も目が覚めたんですもの。それにこの辺りは火山岩や急斜面だから、木もあまり根を張れないんじゃ…」
そこまで言いかけて、突然に佐知子は「キャー」と悲鳴を上げ、尻餅をつくようにその場にへたり込んだのである。
佐和子の顔面は蒼白であった。
「ど…どうしたのよ」
自分たちしかいない山の中である。光子にしても、その悲鳴は背中に冷水をかけられたようなものであった。
「ああ…あれ、あれ…」、ろれつが回らない口はこわばり、がたがたと震える指先で、佐和子はある場所を指さしていた。
そして、佐和子の指さす倒木の根本を注視した光子も、気絶寸前であった。
二人がそこに見たものは、真っ黒なクロボクと呼ばれる腐葉土に半分埋まった真っ白な物体であった。
あまりにも対照的な黒と白…。それは紛れもない人間であったのである。
深い原生林の静寂に包まれた紅葉の登山道を悲鳴を上げながら転がるように下山する佐和子と光子を保護したのは、二人の登ったルートを登攀中の数人の観光客だった。
そして、麓の民家より、のどかでおよそこうした種類の出来事に縁遠い地元大田警察署に事件の報が入ったのは四十分後である。

「こいつは酷い」
駆け付けた刑事が現状を一目見て、顔を背けて呟いた。そして、手を合わせると堅く口を結んだ。
この地に転勤になる前は、しばしば殺人現場を踏んだ男であったが、目の前の惨状はまさに彼の口からその言葉を吐かせるに十分であったのだろう。
今、十数人の目の前の光景は、一般民間人とは異なった数々の悲惨な現状を見慣れたはずの彼らでさえ目を背けるほどであった。
 飽くことなく、何代も舞積もった枯れ葉が作り出す腐葉土で覆われた斜面に横たわる巨木の浅い根が、掘り起こしたクロボク(腐葉土)を辺りにまき散らし、無数の手を突き出すように浮き上がらせていた。そして、その無数の痩せた根に捕まえられるかのごとく上半身が見えていた。
だが、その身体には頭部がなかったのである。
鑑識がたく数十のフラッシュと飛び交う無線交信の中で、鋭利な刃物で切り取られたと思われる物言わぬ身体の首からは、黄色な皮下脂肪と骨が見えていた。
しかし、地中に埋められていたはずの動かぬ物体とかした身体には泥一つつかず真っ白であった。
昨夜の猛烈な雨は、叩きつけるようにその肌の泥を洗い流したに違いなかった。
そして、合掌した捜査員の目にことさら焼き付いたものは、濡れた肌に張り付く一枚の赤い落ち葉であった。
それは、この場の捜査員全員に哀れさを感じさせるとともに、残忍な犯人に対してかつてないほどの憎しみと逮捕への決意を持たせたに違いなかった。