第五章
          十五番の女

誠一はやがて、ある女性に恋をした。
その女性の名はスーザンといい、十九歳になるフィリピン女性であった。
小柄ではあったが、同じアジア人とは思えないほどに均整の取れた身体と、可愛らしい顔が、全くと言っていいほどにアンバランスに感じたのは彼だけではないだろう。
そしてその声は、誠一の耳にいつも心地よく響いた。
スーザンは、誠一より半年早く勤め始めた同僚であった。ただ、六ヶ月ほどで正社員になった誠一とは違って、彼女の待遇はいまも臨時社員である。臨時社員と言っても小間使や雑役の仕事と言った方があっているが…。
だが、驚くほどの低賃金の中にあっても、真面目な勤務態度と絶やさない笑顔が支店長の向居の目に留まり、徐々ではあったが優遇されつつあった。
代理店で働く六人のフィリピン人のうち四人が女性だが、スーザンを除く三人はいずれも誠一のように正社員で、自分たちより年若いスーザンを何かとかわいがり面倒を見てやってもいた。
このことは、三人の女性がみな結婚しているということもあったかも知れない。
とにかく、話す言葉や習慣が異なる人間の集まりであっても、全体としては仕事も対人関係も良好であるようだ。
スーザンが十五歳の時にマニラに来た経緯は、誠一はもとより代理店の人間も知ってはいなかった。と言うよりも、彼女がそれを知らせなかったという方が正しい。
スーザンには人に言えない二つの秘密があったのだった。
彼女が生まれたのは、セレベス海に浮かぶ島、ミンダナオ島のダバオ市である。
だが、ここもマニラと同じように貧富の差が激しい地区があり、スーザンはここで最下層の生活をする父と母の間に生まれた。
そして、スーザンが物心ついた時には、彼女の父はすでにスーザンと、スーザンの母を捨てていた。無慈悲な男は、何かを思い出すかのように時折妻と娘の住む掘っ建て小屋に戻ってきては、スーザンを外に追い出した。
幼いスーザンは、彼女にも薄々は感じる男女の営みだけをして立ち去る男に憎しみ以外はなにも覚えなかった。
弱い母親であったのか、ただの女であったのかは当時のスーザンには分からない。
だが、そんな他人のような男に対して、ただ一つ許せることがあるとしたら、痩せこけた彼女の母親がゴミの中から金目のものを拾い集めて得た、いわば血と汗と涙の結晶とも言える僅かばかりの日当だけは取り上げなかったことだった。
父親とは名ばかりのこの他人のような男が死んだのは、スーザンが十三の時だった。
だが、そんな男の死でさえも、スーザンにとっても好ましいものとはならなかった。
貧しさと男なしの寂しさからだったのか…、母は一年後、行方をくらました。
 十四歳と、その前の年に生まれたわずか一歳になったばかりの我が子を捨てたのだ。十四歳の彼女に残されたのは、十三歳も年下の双子の妹と、今までに輪をかけた極貧生活だった。
彼女はまさにもの乞いであった。
歩けば足を取られるぬかるみとゴミの山が、彼女の住まいの前に広がっていた。
住まいと言えば聞こえはよいが、朽ち果てそうな板で囲われ、屋根はさび付いたトタンで葺かれた、ゴミと埃にまみれた掘っ立て小屋なのである。
住民の住む同じようなバラックが軒を連ねて立ち並び、道とは到底呼びがたい狭い路地をより狭くし、辺りは一雨降れば田植時の田のようにくるぶしまで泥につかった。
うだるような暑さと、悪臭と蚊の天国のようなスラムであった。
十四歳の子供である。その辛さはあまりあるものであったと容易に察せられた。
姉妹三人が施設に保護されたのは、母親の失踪から半年後のことである。
その後、十五歳になったスーザンは、二歳になったばかりの妹たちを残してマニラにやって来た。
やがて時は流れ、成長したスーザンにとってただ一つの夢は、幼い姉妹とともに暮らす事だった。
それが、苦しい耐乏生活の中で唯一の生き甲斐であった。
スーザンは日中、首都マニラのビル街マカティ地区にある日本の旅行代理店で働いている。それが誠一の勤めた代理店であった。
だが、彼女にはもう一つの顔があったのである。
それは、誰にも知られるわけにはいかない夜の顔であった。
プレイスポットと呼ばれる、外国人相手の派手な外観の造りの建物が繁華街に彩りを添え、ことさら華やかに見せている。
裏通りは好色な客のためであろう、その道の女を連れ出すための安ホテルが何軒もけばけばしいネオンサインを掲げている。
ここがスーザンの夜の稼ぎ場所であることは、たとえ生活のためとはいえ、若い彼女にとって残酷でさえあったろう。
だが、昼間の仕事以上に、悲しいこの商売は、小学校も満足にでていない彼女の知識で得られる最高の収入源であったことは事実である。
すでにこの道に入って五年が経ち、今も施設に入っている十三歳も歳の離れた二人の妹に多少ながら仕送りもしてやれていた。
いま十九歳のスーザンは、自分の幸せ以上に家族のことを考え、そのためにはどのような犠牲もいとうことがなかった。
そんな中で、ことある度に彼女を笑わせ、元気づける優しい男との出会いが、スーザンの心の中に優しい春風のように入り込んだとしても、何の不思議もなかったはずである。
それが上原誠一だった。
誠一は、ちょうどひと月前に彼女の勤務する代理店に入社したのだ。
そして、誠一も二つの顔を持つ若いフィリピン人女性に惹かれていった。もちろん、昼間の顔に対してであることは言うまでもないが…。
最初、スーザンは愛らしい顔の下に隠されたもう一つの顔で日本人新入社員・上原誠一を見ていた。
なぜならば、自分を始めとして、道行く女にさえも札びらを見せびらかす醜い外国人の片割れとしか思えなかったからである。
本能のおもむくままに、性の道具としか考えない、同じ人間と思えない行動を取る男たちをスーザンは憎んでいた。
そんなスーザンが、誠一の優しさを当初誤解した事は、彼女の心の片隅にたえず棲みついたやむにやまれぬ気持ちの現れだったのだろう。
だがスーザンは、自分が金で接した両手・両足でも足りぬほどの多くの日本人とは、誠一が明らかに違うことを知るにはさほど時間はかからなかった。
 誠一は誰よりも優しく思いやりがあった。
スーザンはそんな誠一に徐々に惹かれていった。
最初のデートは、なんとスーザンからの誘いであった。
もちろん悩み抜き、幾度か後込みをした結果の、彼女自身が驚くほどに積極的なものだった。
日曜日の午後に、街の旧市街にあるリサール公園が二人の落ち合う場所だった。手入れの行き届いた木立の間を散歩する人たちや、フィリピン建国の父と崇め称えられるホセ・リサールの記念碑の周りに集う人々に混じって、二人はいつも時の経つのを忘れるほどだった。
将来の夢を、目を輝かせて話す誠一に、スーザンは真っ白な歯を口元からこぼれさせていつも言った。
「早く夢を実現させてね。私、未来に向かって新境地を切り開く男が好き…」
すでに二人は毎日、会わずにはいられなかった。
若い二人が結ばれたのは当然の成り行きであり、それは誠一の住む狭いアパートの一室であった。
スーザンの中に初めて誠一が入ったとき、彼女は脳裏にある幼い頃からの耐えきれないものを、すべてを忘れた。
そして、会うたびに増す愛情に、もはや歯止めは効かなかった。
 だが、誠一と別れた後の、スーザンが人前では決して見せることのない悲しみの表情と心の中を、誠一が知り得ることは永久になかった。

スーザンの勤めている店は、女性客が決していかない類の店だった。
三十人ほどの女たちが、店の入り近くのガラス張りの部屋の中で階段状の席に座っている。
 全員がコスチュウムの胸に番号札を付けて、ちょうど飾り雛のようだ。
特定の目的のためだけに来店した男たちが指名してくれるのを待っているのである。
薄暗い店内と比べてそこだけが妙に明るく、着ている衣装も照明と同じほど派手な色彩だ。
そして、太股と豊かな胸をあらわに見せつける女たちの淫靡な誘いが、男たちの本能とある種の鬱積したものをより刺激させた。
店のシステムは、指名した女を呼び、ここで飲んでも良いし、店外に連れ出してもいいことになっている。路地裏に軒を連ねる安ホテルはそのためのものであるのは言うまでもない。
「いらっしゃい! いい娘がいるよ!」、一階の入り口で男の声がひっきりなしにしている。
この手の呼び込みは、どこかの国を思い出させるようだ。
おまけに、下手な日本語と英語に誘われ込む数十人の男たちのほとんどが、日本人とアメリカ人なのだ。
そして、男たちが指名した女たちが次々と客の席に行くのを追うように、一人の男が下劣な目で飾り棚の女を順番に物色していた。
雛壇には八人ほどの女が残っていたが、男の目はその中の一人の女だけに注がれた。
まさに注視したとはこのことである。
その場に居残っている女たちは、お世辞にも男の欲望を奮い立たせる容姿ではなかった。 そしてその女も、厚い化粧で隠された顔は、うつむき加減で、どこか具合でも悪いかと思われるように生気がなかった。他の男たちが敬遠するのも無理はなかったのだろう。
が、毎日数多くの女性に接する男の目は確かであった。
「ん? まさか? 彼女だ! スーザンだ!」
男は、驚きの中でその名を口にするとガラス張りの雛壇ににじり寄った。
「お客さん。いい娘がいましたかい?」、店の男が客を覗き込むようにして訊いた。
「ああ。あの女だ! 十五番のな…」
名指しする男のタガログ語は、どす黒い欲望と一種の優越感を感じさせる粘り籠もった声だった。
スーザンは、自分の持つこの秘密がいつまでも誠一に知られないでいるとは思ってはいなかった。現にいまもそのことが彼女の全身に現れていた。
スーザンは愛してくれる誠一のことをだまし続けている自分自身を呪った
さらに、もし知れるのならせめて二人の妹が(もっと成長するまでは…)と、苦悩する日々が続いていた。
そして、番号を呼ばれた彼女をさらに追い込んだのが、テーブルで待つ男だった。
うつむき加減で、指名された客の顔を見つめたスーザンの顔は、蒼白に変わった。彼女の顔には、驚きを通り過ぎた、信じがたく、まるで恐怖の対象を見たとも取れる表情が浮かんでいたのである。
 男は、彼女を指名する常連客ではなかった。
「やあ、やはり君か! まさかとは思ったがね」、男は口元に満足そうな笑みを浮かべて、スーザンに言った。
 男は顔見知りであったのだ。
だが、笑みを浮かべる男が座るように手招きしたとき、彼女の全身はおこりのようにがたがたと震え、目は虚ろで暗い店内を泳いでいた。
「私は、私は…これには訳があるんです!」、スーザンの言葉と表情は絶望の直中にあった。そして懇願するようなその姿は必死であった。
スーザンの頭の中は、誠一の顔と、一つの言葉だけがぐるぐると回っていた。
「ばれる…、ばれてしまう」と。
彼女は、この場から逃げられるものなら逃げたかった。
だが、足はその場に張り付いたように動かなかった。いや、動くことが出来なかったのだ。
「心配はいらないよ。ここで君と会ったことは、誰にも言わないよ。とにかくせっかく会ったんだ。場所を変えてゆっくりと話をしてみたいものだね。ここじゃ私も落ち着かないし、君もそうだろ?」
男は、スーザンの心を読みとったように、瞬き一つせず言い、柔らかなソファーから腰を上げると店の出口にゆっくりと歩を運んだ。
スーザンには断ることが出来なかった。すでにこの場での、男と店の交渉は終わっていたし、多額の借金がスーザンを縛り付けていたからだった。
彼女の足下はふらつき、がっくりと落とした肩が力無く下がっていた。
「早く来なよ!」
薄ら笑いを浮かべながら言った、低いがよく通る男の声は、いま淫獣のように高ぶっていた。
そして、哀れな女はその声に引きずられるように、繁華街の裏の路地に男と消えた。
その夜は、珍しく雨であった。色とりどりの目映いばかりのネオンサインに雨が降り注ぎ、それが熱せられて靄のように見えていた。
濡れそぼる雑多な繁華街を、家路に急ぐのだろうか、派手なシャツを着た人々を乗せた乗り合いバスであるジプニーが、石畳に刻まれた轍の水しぶきを辺り一面に振りまいて走り回っていた。
そして、この日を境に誠一は、結婚までもを考えていたスーザンと二度と会うことはなかった。
 それは、誠一の故郷・京都が梅雨を迎えた六月半ばのマニラでの事だった。
仕事が手につかぬほどに恋人・スーザンを探し回っている誠一に、信じられない報がもたらされたのは極暑が続く七月の終わりだった。
今日も昼休みの誠一のデスクの上には数社の新聞が置かれていた。
あれ以来、誠一は毎日、新聞の隅から隅まで目を通すのが日課のようになっていた。日曜日は日曜日で、朝から夜遅くまでスーザンを求めて街中を歩き回っていた。
だが、探し求める人の手がかりは一向になかった。
新聞紙上を目を皿のようにして文字を追っていた誠一の目が、ある一点で止まった。そして、その口から絞るような声が発せられた。
「嘘だ! そんな馬鹿なことがあってたまるか!」
誠一はその新聞を床にたたき落として、次の新聞を乱暴に開いた。
彼は血走った目を再び紙上に走らせて、数枚をめくった。そして、そのページ上にも同じような小さな記事を認めた時、
「スーザン!」と、誠一は獣が吼えるような大声を上げ、新聞を掴み通りに飛びだした。
暑さと昼食時で人影もまばらな通りが、アスファルトから立ち上る陽炎で燃えていた。
「誠一! そんなに慌ててどうしたの?」
古参の事務員・ペギーは、ちょうど事務所に戻ろうとしていたところであった。
しかし、そのペギーの問いかけも姿も目に入らないのか、新聞を鷲掴みにして走り去る男の姿を、彼女は首を傾げて見ていた。
「?」
だが、事務所に戻ったペギーが床に乱雑に広がった新聞を手にし、目を通した時、彼が血相を変えて走り去った理由が分かったのである。
「そ…そんな…」、ペギーの手からも新聞が落ちて床に広がった。
 そして、彼女も信じられないように震える手で顔を覆った。
彼女はスーザンを特に可愛がっていた事務員の一人であったのだ。
新聞記事には次のように書かれていた。
『昨日(二十八日)、海水浴で賑わうマガンダン・ビーチの沖合八キロの海上で、女性の遺体が漁師の網にかかった。着衣の名前から先月二十日から捜索願が出されていた、マニラ市の旅行代理店に勤務する、スーザン・ラファイロさん(二十歳)とみられ、警察では事故死と他殺の両面から捜査中である』

誠一は、マニラ警察第二分署に駆け込んでいた。
警察の玄関ドアを蹴破るほどの勢いで入ってくる若い男に、その場に居合わせた刑事はただならぬものを感じて男を呼び止めた。
「どうしたのかね? そんなに慌てて」
「コノキジハ、コノキジハ、ホントウナンデスカ! ナニカノマチガイジャナイノデスカ!」
普段の流暢な現地語を忘れたかのように、誠一が震える声で応えたのは、日本語であった。
「落ち着いて! 言葉が分かるのなら、落ち着きなさい!」、体格のいい刑事は誠一の肩を両手で掴んで揺さぶった。
その声が署内に大きく響いた。たぶん誠一とは親子ほども歳が違うようである。
「とにかくここに座りなさい」、刑事は自分のデスクに誠一を伴って言った。
動転していた誠一も、小山のような男に制せられて、やっと我を取り戻したように話し始めた。
「こ、この記事ですが、なにかの間違いでは…」
掴んでいたしわくちゃの新聞を広げた誠一の目は、すがりつくように刑事に注がれていた。
「君は日本人のようだが、この女性とは?」
「僕の同僚です! 一ヶ月半ほど前から行方が知れず、ずっと探していたんです。警察にも行ったんですが、いまもって連絡が付かないんです! この記事の名前は…名前は、その彼女の名前です。でも同じ名前の人だっているし、年齢だって…、そんな、そんなことってないですよね! この新聞はおかしいですよね!」
支離滅裂であった。
早口で喋る誠一をリトは気の毒そうに見ていたが、やがて静かに告げた。
「君が誠一・上原だね。ちょうど君の所に事情を聞きに行くところだった。残念だが、どうやらその彼女らしい。歯形から同一人物だと、はっきりしてね…」
「…歯形ですか…」
あまりにも生々しい言葉であった。残酷な響きを持つ言葉でさえあった。
誠一は、力無く呟くと、がっくりと肩と首を落とし、膝の上で堅く握られた両手の甲に落ちる涙を拭おうともしなかった。
警察はこの時点で、スーザンの身辺の、そのほとんどを調べ上げていた。
彼女が、家族のために身をやつした売春婦であり、その恋人が日本人青年・上原誠一であることも。
そして、スーザンが妊娠していた事実をも…。

ひと月半ほど前、スーザンは店の同僚である同居者には故郷に帰ると言い置き、姿を消していた。
そして、身を売って蓄えたある程度まとまった金と、自分自身の生命保険の証書を故郷の施設で生活する二人の妹に送り届けていた。
証書の受取人はまだ幼い妹の名義であった。
だが、この異変を知った施設から、警察に保護願いが出された時点ですべては終わっていた。
スーザンは、あの雨のそぼ降る夜からひと月後、マニラ湾からほど近いマガンダン・ビーチを見下ろす断崖から二十歳の身体を自ら宙に浮かせ、真っ逆様に落ちていったのだった。

スーザンは決して自分の住まいを誠一に明かすことはなかった。
 理由は、「友人と住んでいるし、あまり持ち物もないから恥ずかしい」と、いったようなきわめて簡単な理由だったように誠一は記憶している。
生い立ちにしても、ミンダナオ島に家族がいる、といったことしか教えてはくれなかった。
もちろん誠一は、それでは納得せず、幾度かミンダナオ島に行く事を提案したが、
「時期が来れば一緒に行きましょう」と、笑って応えるスーザンの言葉に従った自分が今更ながら悔やまれた。
誠一は、教会に預けられていた、小さな箱に入った遺骨がいつの間にか故郷に引き取られたと知った時、初めて号泣し、溢れ出る涙の中で叫んでいた。
「結局、僕はスーザンのことを何一つ知ってはいなかったんだ!」と…。
誠一は、何度故国・日本に帰ろうと思ったかしれなかった。
だが、その度に、真っ白な歯を形のいい口元からこぼれるようにして話してくれた、
「早く夢を実現させてね。私、未来に向かって新境地を切り開く男が好き…」、との言葉に思い止まったのだった。
あれから早、三年の歳月が流れていた。
誠一は二十九歳。スーザンが生きていれば、二十三歳になっていた。
幸いかどうかは判らないが、勤務する代理店での多忙な年月が誠一の苦しさを徐々に、ほんの僅かではあったが和らげてくれるようになっていた。
だが、誠一はどれほどの年月が過ぎようと、スーザンが身を投げた断崖に、命日には必ず足を運ぶことを忘れはしなかった。
そして、こんな誠一に一つの出会いが訪れたのは、その年の秋であった。
「上原君、広島の松田興業のお嬢さん、麗子さんがこちらに見える。特別大切なお客さんだからそのつもりで」
三年前の事件以来、ますます目をかけてくれる支店長の向居が、空港に迎えに行くように指示した相手は、一人の日本人女性だった。
誠一もこの客のことは時折耳にしてはいたが、会うのはもちろん初めてである。
誠一は、彼女のためにホテルやその他の万全な準備をした後、空港に向かった。
到着する飛行機を待つ間も、誠一は出入国する人の波に関心を寄せた。
とくに、年齢や性別といった、観光客の動向に注意を向けた。
 折からの海外旅行熱で本社も波に乗り、フィリピンでの誠一の勤務する代理店も支店に昇格し、すでに四人もの増員が計られていた。
最近は、人づてに伝えられるのか、このように一生懸命な誠一に対しての個別ガイドの依頼も急増し、誠一は現在、課長職を拝命していた。
四年目にしての異例の人事である。
もちろん、英語は当然のこと、現地語、とくにマニラで話される言葉には何の不自由もない上に、その他の島々・ミンダナオ島やネグロス島などで話される他の二、三の言葉も使いこなすことが出来るまでになっていた。
また、この国の地理・歴史・経済にも明るく、現在では支店長の向居以上に詳しく、ある意味では誠一が支店の中心的な役割を担うようになっていたと言っても過言ではなかったろう。
客を待つ誠一の前に、様々な人種、様々な年齢の人々が入国審査を済ませて出てくる。
その中で最も目だつのは、年輩の男ばかりの団体だ。彼らを待つのは、大きな旗を持った誠一の同業者である。
世界にその名を知られた天下の農協様のお出迎えなのだ。
誠一は、しばらく続く人の波を見ていたが、やがてその列の一番最後の人物に目を注いだ。
それは女性であった。賑やかで浮かれた年輩の団体客とは対象的とも見える、若く目を見張るほどの美貌の持ち主であった。が、服装は全く逆とも言えるほどに地味である。
しかし、それがより彼女の清楚さを浮きだたせてもいる。
「彼女か…」、呟いた誠一と女の目が合った。
慌てて頭を下げた誠一は、急ぎ足で女に近づいた。
足を心持ち引きずっているのに気がついたのである。
「そうか。足が不自由なのか…」、誠一は心の中で呟くと、再度頭を下げた。
「松田さまですね? 私は、お迎えにまいりました東都旅行の上原です」
「ありがとう。すぐに分かりましたわ」
一度その場で立ち止まると、女はその顔と同じほど整った口元に微笑を浮かべて応えた。
彼女が誠一の待っていた松田麗子であった。
麗子は、一年ほど前に夫と死別し、傷ついた心のままでいた。
今回の彼女のフィリッピン旅行はいわば傷心旅行といえなくもない、一人旅であった。 愛する者との別離。奇しくも誠一もそうであった。
誠一は、彼のもてる最大の誠意で麗子に接した。
二人は、翌日からほぼ一週間かけてマニラを初めとして各地の名所・旧跡を訪れた。
麗子は、ある意味ではスーザンによく似ていた。もちろん生い立ちは、スーザンとは全く逆で、お嬢さん育ちであったが、彼女の話しかける表情や仕草に誠一はハッなることが度々であった。
不思議なことに、麗子の思いも同じであったのかも知れない。
なぜなら、麗子も誠一に亡き夫の思い出を見いだしていたのだった。
やがて、誠一はスーザンを…、麗子は夫を…忘れた。
いや、二人は苦しみを忘れようとしたのかも知れない。
二人は、過去の思いでと、虚しさだけが占める今の心の隙間を埋めようとしていたのかも知れなかった。
麗子は帰国の予定を大幅に延ばし、いつしか上原の子を身ごもっていた。
そしてその半年後、上原誠一は松田誠一として帰国した。
だが、こうした出来事と経緯は並木も木暮も知らなかったし、上原も決して話そうとはしなかった。