第七章
深まる謎
立川市での聞き込みを終え、捜査一課に戻った木暮と部下の工藤には、今日も何の成果もない一日であった。
強いて成果を…。と言うならば、他人に無関心過ぎるほどの都会の聞き込みの困難さを今更のように知ったむなしさだけであったろう。
立川市の居酒屋で、高須の向かい側にいた男の情報は不思議なほどになかった。
夕刻訪ねた店の主人も、木暮の度重なる来訪に、
「刑事さん、私たちもすべてのお客さんを覚えてはいられなかったんですよ。こんな事を言ってはなんですが、刑事さんたちはきのう会った人を全員覚えていられるんですか?」、などと言い出す始末であった。
もっとも、酔客がアルバイト店員たちに次々に言う、
「酒だ! つまみだ! ビールだ!」などと目の回るほどの注文で、すべての顔を覚えていろと言う方が無茶なのは分かり切ったことではあるのだが。
もちろんそれは木暮も分かってはいるが、どうにか「思い出して欲しい」というのが本音である。
木暮は、デスクに戻ると情報を書き込んだ手帳を見ていたが、手がかりという言葉がぷっつりと、まるで糸が切れた凧のように飛んでいくのを疲れた身体に感じて、
「ふーっ」と大きくため息をついた。
課員の机の上でひっきりなしに鳴る電話の音が、より小暮の神経を疲れさせた。
そんな折、
「警部。島根の並木さんからです」
工藤が、小暮と同じように疲れ切った声で電話を取り次いだ。
今度は小暮にかかったのだ。
「どうした、何か変わったことか…」
電話に向かう声は、我ながら気の利かない挨拶であり、無愛想でもあった。
小暮の今の気持ちが正直に出たのだろう。
「忙しいとこを悪いね」、電話の主は応えた。
言ったその声も元気のない声である。
掛ける方も掛けられる方も、お互いがまるで迷路に迷い込んでいる…。そんな声だった。
小暮は進むことのできない壁を…。そして並木は、開けることを躊躇わずにはいられない秘密のドアを前にしているようだった。
しかし、真実を知るためには覗き、取り払わなければならないドアでもあった。
並木は、京都でのことを話し始めた。
「小暮、あの八文字の意味が解けたよ」
「なに! どういうことだ!」、小暮の声が耳元で響いた。
「上原は養子だよ。一歳の時に上原家に貰われたそうだ…。その頃の名前はまとえ。まとえだよ」
「まとえ?」
「そうだ。標的の“的”と江戸の“江”だよ。“matue sta”は、“的江 滞在する”という意味だと思う」
「…」
「上原のお母さんに確認した。上原は広島で生まれたそうだ。それと、養子のことを知っているのは、隣家の奥さんと麗子さん、それに家族だけだ」
「まさか…」
「本当だよ…」
並木は、木暮の声が弱々しいと感じたし、それに応える自分の声も同じだと気がついていた。
「…」
「僕も信じたくはないが、事実は事実だ!」、続けていった言葉は、並木らしくない、ぶっきらぼうで大きな声だった。
「お前さんは、隣の奥さんも知っていたと言ったな? その奥さんが誰かに話したことはないのか!」
応える小暮も、動揺を隠さない。
「それはないよ。残念だがな」
「なんでそれが分かる! お前は、刑事ではないだろう!」
「小暮! どうしたんだ! 僕だってこんなことを言いたくはなかった。でも上原の無実を証明するには、すべてを明らかにするしかないだろう!」
まるで、兄弟喧嘩である。
工藤が、いや工藤を含める課員全員が小暮の口調と表情を、呆気に取られたように見ている。全員が始めてみる小暮の狼狽した姿であったからだ。
「…そうか…そうだった。言い過ぎた。すまん」
工藤は、同僚刑事と頷きあって、元の仕事に戻った。(やれやれ)といった表情である。
小暮は、続けて言った。
「麗子さんならミランダをよく知っているし、高須と上原の関係も知っていても不思議はないという訳か…。もしそうなら、上原が誰かを庇っているのではとの、お前さんの考えも納得できるし説明がつく…」
「…うん…、ところで、立川の居酒屋で殺された高須と一緒だった人物は、本当に男だったんだね?」
並木は、電話の向こうでいつもの癖をしているはずの警部の顔を想像しながら訊いた。
「ああ、それは間違いはない。男だ。正直に言うが、そこまでなんだ。客の回転がいい店で、グラスなども直ぐ洗ってしまって指紋も得られなかった。おまけに対応した店員は二、三日前に雇ったアルバイトの学生で、有力な情報は一切ない」
「高須は、その前にもどこかで何者かに会っているんだろう? その相手はどうなんだ」
「そちらも何も出ずじまいだ。立川署の捜査本部は上原だと睨んでいるがな」
東名高速をおりてからの高須の足どりを追うことは、月並みだが、広大な砂漠の砂の中から一粒のゴマを見つけだすと同じくらい困難なものだったのだろう。未だ、なんらの手がかりも掴めてはいない。
小暮は、並木の言いたいことがよく分かっていた。
彼が、誠一の妻・麗子を洗えと言っていることを…。
二日後、再び小暮は工藤と島根県・三瓶に向かった。
警視庁捜査一課は、並木の情報をもとに、松田誠一とその妻・麗子をも事件の容疑者の視野に入れたのである。
これは、とりもなおさず、“高須殺害事件”と“フィリピン人ダンサー・ミランダ殺害事件”の関連性を確信したからでもあった。
寝台列車「サンライズ・出雲」の車中で、小暮は捜査会議の内容をメモした手帳を睨み付けるように見入っていた。
当然のこととして、“まとえ”の件は広島・島根両県警にも知らされた。
的は絞られたのである。そしてこの日、広島県警からは、重大な事実が警視庁捜査一課にもたらされた。
上原誠一とミランダの数回の密会と、ミランダの堕胎だ。
誠一がミランダの堕胎に付き添った事実が知らされたのである。
「警部。上原さんと麗子さんにはアリバイがないそうですが、広島県警が上原さんを逮捕したのは、こいつだったんですね」
メモ上の“堕胎”の文字を指さして工藤が言った。
「…」、小暮は無言で頷いた。
確かにアリバイに続く、重大な動機ではあった。
広島県警は、上原誠一が美貌のダンサー・ミランダと男女の関係に陥った結果、妊娠したミランダを堕胎させることに成功したものの、それが原因としたこじれで殺害したと見ていたのである。
司法解剖の結果、ミランダには堕胎の形跡があったことは先に述べた通りである。
そして、この事件の報道を知った医師からの届け出は、誠一逮捕の決定的なものであった。通報した医師は上原誠一の知り合いだったのである。
たしかに離婚は、誠一にとって不利であった、と二人にも想像はつく。
そう遠くない時期に手に入る、松田家の莫大な財産を失うからだ。
「ミランダは邪魔か…」、呟きながらも首を傾げた小暮に、
工藤が顔色を見るように言った。
「ミランダ殺害が上原さんだと仮定しても…」
「続けてくれ」
「はい。高須との関係は、どうなるんでしょうか? 上原さんが高須を殺害することはできません」
工藤が言うように、拘留中の人間が殺人を犯せるわけはない。
「うむ」
「奥さんの麗子さんがミランダを殺害し、共謀者の高須も殺害したのならつじつまも合わないわけではないでしょうが…」
「そこなんだよ。麗子さんが、嫉妬に狂ってミランダを殺したのならな。協力者の高須の口を塞ぐことも考えられないことはない。だが、麗子さんは高須とは一面識もない。それに、麗子さんがやったのなら、何で上原があんなアリバイを申し立てる必要がある?」
「うんー」
今度は工藤が唸る番だった。
小暮は、ミランダが失踪したとの電話連絡を上原から受けたときのことを考えていた。
「広島県警の言うように、上原にはアリバイがない。だが、それは麗子さんにも言える」
「要するに、二人ともないですからね」
「立場は同じだ。ただ、上原には密会と堕胎という事実があるが、俺は、あいつとミランダの子ではないと思っている」
「違うとお考えなのですね?」
「そうだ。あいつが、俺に連絡したことがそれを証明したと思っている。ミランダの失踪に関係しているなら電話などするはずがない。それにミランダの事を心配していた顔は、まるで身内に対してのようなものだった。麗子さんもそうだった」
「警部。お言葉を返すようですが、私は、女の嫉妬の事を考えていたのですが…」
「なあ工藤君。仮に三角関係のもつれで、麗子さんが共犯者を得てミランダを殺害したとしても、何で首まで切り落とさなけりゃならんのだろうか。おまけに彼女の資産は相当なものだ。夫の浮気だけで棒に振るとは思えんし、下手をすりゃあ、共犯者にゆすられるのは目に見えている。そんな馬鹿げた事をするとは思えん」
「ええ、そうかも知れませんが、奥さんには男がいるんじゃないでしょうか? 再婚を前提とした男なら、ゆすられることもないと思いますが…」
若い工藤は、いかにももっともらしい意見を言った。
「麗子さんが愛人と共謀してミランダを殺害し、協力者の高須を殺した上に、罪を上原にか?」
「ええ」
「だがな…、上原に対する復讐や愛人との再婚が目的なら、上原本人を始末する方が手っ取り早い。俺はもっと深い意味が隠されているような気がしてな…」
小暮は、上原がアリバイに固執することにあくまで拘っていたのだ。
「不倫などが原因ではないと?」
「俺には、上原が本当の犯人に心当たりがあるか、又はその人間を庇っているとしか思えないんだよ」
「逆らうようですが、実際は上原さんがミランダを殺害しておいて、誰かを庇っているように見せかけることはあり得ないでしょうか?」
「それはないと思う。片棒を担いだ高須のことが説明できないからね。別の共犯者がいて、高須殺害を頼んだとしても、今度は自分が不利になる手帳が出てくる。不思議なのは、ほんの数人しか知らない自分の昔の名を使ってミランダを誘い出した相手を知っていて、庇うために手帳を落としたとしても、庇う前に、自分が犯人にされてしまう。現に今がそうだ。見せかけることはできないはずだ」
「我々に、麗子さんと上原さんが犯人だと思わせる、第三者がいるとおっしゃるのですか!」
「そうだ! 上原、いや麗子さんをも巻き込んでな。俺はミランダと高須を殺害したのは、同一犯だと睨んでいる。そいつは、上原には麗子さんを。麗子さんには上原を犯人と思わせる必要があったんじゃないだろうか」
身を乗り出すように聞く工藤に、小暮は続けた。
「しかし、何でそんな回りくどいことをしなければならんのかだ」
「金や不倫でないとすると、怨恨の線でしょうか。たしかに浮気や妻の座を脅かされたくらいで首まで切断するのは異常としか思えませんからね。しかし、そうなると、上原さんとミランダの関係はどうなるんでしょうか?」
「一番知りたいことがそこだよ。アリバイを含めてね」
小暮は、広島県警の調査報告書に再び目を落とした。
たしかに県警が決め手としたように、堕胎の件は、誠一にとっては言い逃れのできない事実であったが、小暮には疑問を増幅させるできすぎの気がしてならなかった。いわば第六感と言えるものかも知れなかった。
「工藤君、ここだよ。ここ。俺が上原のミランダ殺害に疑問を持つのは。普通なら逃げられない動機と言えるだろうが…」
と、のぞき込む工藤にその箇所を指先で叩いて示した。
「中絶は、七月ですね。七月と言えば来日して二ヶ月ほどです」
「その次だよ。問題は」
小暮は、愛用のジッポーをもてあそびながら先を読むように促した。
「どう言うんですか。これは!」、工藤は驚きを隠さずに言った。
すでに二十週に入っていた時期でのミランダの中絶であったのだ。
「優生保護法下では二十一週と六日までが堕胎可能な時間ですよ! それにしてもこんな身体で来日していたんですか? 直ぐに腹はこうですよ!」、工藤は、自分の腹に手をやり大きく膨らます恰好をした。
「県警は来る前から関係があったと見ているがね」
「まさか最初から堕ろすつもりでいたんでしょうか?」
「ミランダは敬虔なカトリック信者で、向こうじゃ難しかった。だから県警は、上原が日本で処置させるため来日させたと考えているようだね。同室だったビビアンを始めラナたちも彼女の妊娠に気がつかなかったくらいだから、目立たなかったんだろうが。しかし、俺はもっと違う意味があって日本に来たと思っている」
「別なことでですか?」
「あれほどの美人だ。日本で堕ろすなら、何も上原に頼まなくても男はいくらでもいるさ。どうせすけべな連中だ。彼女がその気にさえなれば、相手は家族に知られる前にいくらでも金を出すさ。ミランダが広島に来たいと拘った理由にはならない」
「でしょうね…」
工藤も、日本人と彼女たちのような女性の間でそうしたトラブルが頻発していることは耳にしていた。
「それに上原の子なら、なおさら日本などにはつれては来ないだろうし、もしそうであっても知人の医師の所などに行くものか。上原はミランダの妊娠など知らなかったはずだよ」
「しかし、上原さんの子供でないなら、どうして医者などに同行したのでしょう。松田興業は、ダンサーと客との交際までも禁じていたはずです。ましてや、妊娠しているなどが判れば、普通ならすぐに契約違反で帰国させるのが筋でしょうに?」
もっともな意見である。だが、そうしなかったことがそもそもの謎であることは間違いない。
木暮は、つじつまの合わないアリバイとmatue sta、さらにこの堕胎が事件のすべてのカギを握り、そして答えがこの中にあると確信していた。
寝台列車サンライズ・出雲は、飛ぶように過ぎ去る転々とした町の明かりを後方に残し、規則正しい軌道の「ゴトゴト」という振動を木暮と工藤に伝えながら一路、日本海に向けひた走っていた。
日曜日の三瓶に着いたのは、午前十時過ぎだった。
木暮は部下の工藤を並木夫婦に紹介すると、
「早速だが、二人の、特に奥さんの、女性から見た意見を聞かせてもらえないだろうか。もちろん、本来なら聞かせるような話じゃないんだが」
木暮は、いとこの志帆に、彼らしくない改まった言い方で訊き、話し始めた。
「県警が上原を逮捕した理由も分からん訳じゃないし、世間で三角関係のもつれの殺人も後を絶たないことは知っての通りだが、ほとんどの場合、自分たちの世界に土足で踏み込んだ相手を殺すより、自分を裏切った妻なり、夫を殺す方が統計上は多い。もちろん俺が過去に扱った事件で逆も数多くあったが、今度はだいぶ状況が違う」
志帆は、いつもと違う「おにいちゃん」の雰囲気に黙ったままである。
木暮はそこまで話すと、お茶をぐっと飲み干して、続けた。
「一つは、上原が不倫相手を殺した事になっている。二つ目は共犯者の存在だ。力の弱い人間が、遺体を運ぶのに切り刻んで遺棄する例はよくあるが、今回は頭部だけを切り離して、重い体はそのままだった。遺体の状況から見てとても女の仕業とは考えずらい」
「上原が疑われたのもそうしたことがあるのか?」
「それもあるだろう。だが、そうだからといっても完全に麗子さんの疑いが晴れた訳じゃない」
「共犯者の有無だね…」
「県警はな。ミランダ殺害犯は、高須も殺しているはずだ」
志帆は麗子には会ったことはなかったが、優しい女性と夫から聞き及んでいて、あくまでも個人的な意見だが、と断って口を開いた。
「ねえ、大次郎さん。女の立場からすれば、自分を裏切った夫も憎いでしょうが、よりその相手に憎しみを覚えるのではないかしら。でも、自分が出来ないからといって人に依頼するというのもどんなものかしら? それと麗子さんは、…」
志帆は、麗子の身体の事を頭に浮かべ一旦言葉を切ったが、遠慮がちに続けた。
「麗子さんは足がご不自由でしょう? 仮に…仮に麗子さんが関係しているとしても人に依頼するには相当な調べと準備が必要よ。麗子さんが、誠一さんとミランダさんの事に気がついたのはどうしてかしら?」
逆に問われた木暮は、みんながびっくりするような大声で言った。
「そうか! なんでこんな事に気がつかなかったんだ! ミランダの仲間さえも知らなかった妊娠や中絶。それに密会も、県警が調べに調べ上げて判明したことだ。それもミランダ殺害後だ。良家の妻である麗子さんが気がつくとは思えない。上原もミランダに関しては相当に気を付けていただろうからな。志帆ちゃん、ありがとう!」
志帆に応える木暮の言葉と表情は、このとき普段のいとこに戻っていた。そして、満足そうにタバコを取り出すと大きく吸い込んだ。
「…奥さんが関係しているとすると…、警部! 何者かが奥さんにたれ込んだ(密告)と言うことですか!」
工藤が、(なるほど)といった顔で訊いた。
「麗子さんは麗子さんで、上原が不倫などする訳がないと信じてはいても、友人が経営する丸山医院で確認したに違いない。ミランダと上原が訪ねたとの事実を知ったのは失踪の数日前だと思う。いても立ってもおれぬ麗子さんは上原とミランダを密かに探ったはずだ。そうするうちにミランダの失踪が起きた。だから麗子さんは、失踪したミランダを呼び出したのは夫に違いないと考えたはずだ。だから麗子さんにもろくなアリバイがない」
「そういうことになるな…。事件の後、自分を見る妻の猜疑心の表情を敏感に察知した上原が、ミランダの残した文字を見て、ひょっとして、との思いを持ったことは十分あり得る。不明瞭でも、ほんの数人しか知らない自分の名前だからね」、黙って訊いていた並木も頷いて呟いた。
「誠一さんの頭の中は麗子さんが浮かんでいたのね…」
「だから上原は、姫路に行くなどと偽って、麗子さんのアリバイを探したのか」
「そうだ。あいつが警察に下手な自分のアリバイを申し立てる訳だよ」
木暮の言葉に、
「誠一さんは、麗子さんを心から心配しているのね…」、志帆が並木の顔を見て言った。
「そのようだな。並木、俺も麗子さんに密告した奴が、ミランダと高須を殺した実行犯だと考えている!」
小暮は何時までも姿の見えない残虐かつ、冷酷な犯人を絶対に許さんとばかりに言った。 そしてその語調は、確信したとさえ思える響きを持っていた。
「ねえ大次郎さん。密告はともかくとして、ミランダさんが身重の体を隠してまで日本に来たのは、誠一さんに会うためかしら?」
同じ女である志帆は、是非ともその理由が知りたかったのだ。
そのような体でダンサーを続けるのは大変な事であることを十分承知しているからだ。
「ミランダがフィリピンで何を知ったかだね。あくまで“的江”と言う名前で呼び出されたとしてだが、日本に来るまではミランダも上原が“的江”とは知らなかったはずだ。だが、殺人犯はミランダが“的江”を探していたのを知っていたことになる」
「当たり前のことだが、松田興業で彼女たちとの接触が一番多いのは上原だね。その次は?」と並木。
「麗子さんだ」
「なるほど同じマンションだしね」
「警部、広島県警と外事課の報告では、上原さんがフィリピン滞在中には恋人の自殺以外には、特に変わった事も見あたらないとのことでしたね?」
「そうだが?」
「十数年昔です。何か見落としがあるんじゃないでしょうか…」
工藤も、身重のミランダの来日に強い疑問と関心を持っていたのだ。
「そこのところだが、俺も同じように考えている。ミランダは広島に固執しているからね」
木暮は取り出したタバコを忙しそうにふかしながら同意して、以前から気になっていた上原の過去を持ち出したのだった。
「ひょっとすると、恋人の死に関係があるのではないだろうか…。並木、お前さんは、どう思う?」
木暮は、刑事に訊くように問うた。
「たしかスーザンとか言ったね…。 しかし、その恋人は間違いなく自殺なんだろ?」
並木は言いながらも、なぜかいやな予感がして木暮を見た。
「それは間違いない」
「…」、だが並木は木暮の返事に沈黙した。
恋人スーザンの自殺の原因は、失恋と知らされていただけであったのだが、いま並木は、ある直感に突き動かされてためらいながらも言った。
「…もしも、もしもだよ…自殺の原因が上原に一方的にあったとしたらどうなる? マニラ警察からの報告では、スーザンの家族構成は母親だけとなっているようだが、当然親戚もあるだろ? それに彼女の幼い頃の報告がないようだが、もし妹でもいたらどうなる…。当時のフィリピンは、日本や欧米諸国と違ってまだ住民登録や基本台帳のようなものは完全ではなかっただろうしね…」
その言葉に三人は顔を見合わせて、黙りこくった。
並木は構わず続けた。
「なあ、木暮。スーザンが遺書か何かを残していたら事だぞ…」
「…」
木暮が黙りこくった訳は、言うまでもなく並木と同じ考えだったからである。
すでにこの場の四人には、ある一人の人間の名が浮かんでいたのだ。
言わずと知れたミランダである。
さらに四人の脳裏をよぎったのは、復讐の二文字であった。
「…それにしても」と、木暮が疑問点をあげた。
「ミランダがスーザンの妹としても無理がある。スーザンがつき合っていた誠一の当時の名は、的江でなく上原だ。これをどう考える?」
「スーザンに上原さんが、自分は養子だ。と、告げていたとは考えられないでしょうか?」と工藤。
「告げていたとしても、オーデションを開催したときの名は、的江でもなく上原でもない。松田だ。死んだスーザンに、恋人の名が出世魚のように変わるなど分かるはずがない。百歩譲っても、スーザン以外の人間が誠一という名から考えつくとは思えん」
「でも、すでにミランダさんは妊娠に気がついていたでしょうから、それを承知で日本に来るには相当な理由と覚悟があるはずでしょ?」、志帆も、男が想像できない部分からその謎を追っているように言った。
四人の推理は、スーザンの死が上原の非によるとの考えに基づくものであった。
事実がそうなら、スーザンははっきりと上原誠一の名を残したかも知れない。だが、フィリピン警察の調べでも、最後の最後まで誠一を愛した彼女の遺品からは、上原や的江と言った名はどこにも残されてはいなかった。
さらに、興行主である松田誠一の名は、当時のオーデション会場のどこにも記されてはいなかったのである。