第八章
スーザンとミランダ

妻・麗子は、ほとんど毎日のように拘留中の誠一を訪ねた。
今も二人はやり切れぬ気持ちと疑心暗鬼の中で会話を始めていた。
「あなた…、私がどうしても分からないのは、なぜあなたが警察に不審を抱かせるだけのアリバイを主張し続けるのかと言うことと、彼女と…彼女とどうしてあんな事になったのか…私には分かりません…」
麗子は、誰よりも信頼する夫の行動と気持ちが理解できなかった。
だが、誠一にすれば当たり前の事だった。
なぜなら誠一は、麗子がこの事件に関与しているのではとの、言いしれぬ恐れを抱いていたからである。
「ミランダとの事を知ったのは、やはりあの時か…」
誠一の声も表情も苦渋に満ちていた。誠一はミランダの失踪前に、いつもは明るい妻の態度がぎこちなく、挙動の不審さに自ら動揺した事を思い出していた。ちょうど丸山医院に行った二日後である。
そして、誠一は一抹の不安を覚えながら再び丸山医院を訪ねた。
だが、産婦人科医・丸山が中絶に付き添う誠一のことを、妻である麗子に話すはずもなく、問いただす誠一に、
「奥さんは見えたが、近所に来たついでに寄ってくれただけだよ。君の思い過ごしだろ」と、笑っていた。
事実、医者である丸山は、一言もミランダや誠一のことを麗子には話してはいなかった。
もちろん誠一も、ミランダの子が誰の子か、また堕胎せねばならない経緯を丸山に話してはいない。
麗子は誠一に応えた。
「…ええ、私の帰り際に、お節介な看護婦さんが口を滑らせたのです。あなたとミランダさんが来たと…」
麗子の顔は、答えた夫以上に青ざめていた。そして、その声は苦悩と悲しみが入り交じっていた。
「そうか…やはりな。今更隠しても無駄だから言うが、彼女は、僕がフィリピンに居たときに知り合った人の妹だ。君も知っているあのスーザンのね」
「妹さん! まさかミランダさんが…」
誠一の言葉は、麗子にとって膝の上のハンドバックを取り落とさせるほどの驚きだった。
もちろん麗子も、結婚前に誠一にはスーザンという、若くして死んだ恋人がいたことは知っていた。だが、ミランダがその妹などとは、想像すらしてはいなかったのだ。
「そうだ。妹だよ。それに彼女が妊娠していることを知ったのも、広島に来てからだ」
「じゃあ、一緒に病院に行ったり、何回か彼女とホテルで会ったのも…」
「当たり前だよ。彼女とは何もあるはずがないだろう。君の前だが、正直言って死んだスーザンには僕は何一つしてやれなかった。だから妹と知ったときは、驚き以上のものを感じたんだよ。そして、どんなことでも力になってやろうと思った…。子供の父親はフィリピンにいるよ」
「私は、馬鹿だった…」
麗子は、ただ一通の手紙で夫の秘密を知ろうとした自分が情けなかった。
「麗子。今度は僕が訊く番だ。君にはアリバイがない。それになぜあの日、ミランダに電話を掛けた! どうして丸山医院になど行ったんだ!」
「電話? 何のこと」、麗子は目をしばたたかせて訊いた。
「『的江』と言って彼女を呼びだした訳だよ」
「待って、あなた! 私は電話などしていないわ!」
「何だって?」
「本当よ。丸山医院には確かに行ったけど、電話なんて!」
「本当か! 僕の旧姓を知っているのは君だけだ! ミランダを呼び出せるのは君しかいない!」
誠一は腰を浮かせて麗子を問いつめた。
「それじゃあ、あなたは私がミランダさんを殺したと!」
「違うのか! 君はこの事件に関係ないのか!」
麗子は夫が自分を疑い、そのためにアリバイのねつ造をしていることを、今はっきりと悟ったのである。
「当たり前よ! 丸山医院に行ったのも手紙が元で、それがなければあなたを疑うなどあるはずがないわ!」
「手紙? 手紙と言ったね! それはどんな内容なんだ。警察はそのことを知っているのか?」
「あなたに不利になると思って、誰にも見せてはいません。持ち物を調べられるからここには持ってはいないんだけれど、丸山医院に行く三日ほど前のことよ。差出人ない手紙で、私宛の字は印字したものを貼った町名から始まっていたわ。中も同じように印字した手紙で、『ご主人は、…』」
と、言い始めた次の言葉を、麗子は言いよどんだが、意を決したように続けた。
「『ご主人は、ダンサーの一人と肉体関係がある。証拠は丸山医院に行けば分かる』と書いてあったわ」
「だから、そのために丸山を訪ねたのか」
「ごめんなさい! あんな手紙を信じた私が馬鹿だった。あなたの行動を調べていたのも丸山医院でミランダさんとの事を知ってからなの…」
麗子の肩が大きく上下した。
「その手紙はどこにある!」
「本当は破り捨てようとしたんだけど…、寝室のクローゼットにあるわ!」
「麗子、それを木暮に渡してくれ! その手紙を出したやつが犯人だ!」
広角泡をとばすといった表情の上原に応える麗子の表情も、これ以上はないほどの緊張の中にあった。
 しかし今二人は、極度の不審と危機を乗り越えた夫婦に再び戻っていた。

「麗子さん!」
不自由な足を引きずりながらも、急ぎ足で電話に向かう麗子を呼び止める声がした。
振り返ると木暮だった。
「木暮さん! よかった。いまあなたにお電話をと思っていたのです!」
「どうしました。そんなにお急ぎになって?」
木暮と工藤は、三瓶の並木宅を辞して先ほど県警に着いたところであったのだ。ミランダ事件の担当刑事・塚本を待っているのだ。塚本は、木暮の警察学校の同期生である。
「じつは大変なことが! 主人の…主人の事で、是非お知らせしなければならないことがあるのです!」
麗子の声はうわずり気色ばんでいた。無理もない。夫の無実を証明できるのだ。
「よかった! 私もあなたにお聞きしたいことがあったんですよ!」
その数分後、麗子が話した情報が、木暮と工藤を驚喜させたことは言うまでもない。
「麗子さん。急ぎましょう!」
出口に急ぐ木暮に、塚本の姿が見えた。
「やあ。木暮、待たせたな。会議があったんでな」
言いつつ近寄る塚本も、麗子に気がつき、
「奥さん…どうも」と奥歯にものが挟まったような言い方で頭を下げた。
木暮は、そんな塚本に、早口で先ほどの麗子から聞いた手紙の件を話した。
「何! 本当か。奥さん急ぎましょう!」
まん丸い塚本の顔が硬直したように四角張って見えたのは、木暮だけではなかった。
塚本は脱兎のごとく駈けだした。塚本の運転で、車は平和大通りを西に、麗子宅に向かったのである。
 小暮は、三瓶で想像しあった言葉が現実のものとなる予感がして、麗子に訊いた。
「奥さん。その手紙は差出人不明か、偽名だったんでしょ?」、小暮は運転する塚本に聞こえるように言った。
「ええ、そうです!」
「そして、誠一君の中傷が書かれていた」
「はい。主人とミランダさんの事が…」、麗子は夫の友人の横顔を覗き込むようにして言った。
前方に橋が見えた。松田興業はすぐそこである。塚本はパトランプを消した。
木暮は、塚本がそれなりに気を配ってくれたことに、妙に気持ちが軽くなるのを感じた。 さらに麗子が告げた手紙の内容が想像した通りであるのにも満足していた。

応接室で待つ木暮・工藤・塚本の三人の目の前に置かれたのは一通の手紙である。一般に見掛ける、何のへんてつもない白封筒だった。
「町名から書かれているね」、手袋をした塚本がそれを手にとって呟いた。
「ああ、今は郵便番号が細分化されて、町名さえあれば番地さえもいらないらしいからな。だが、普通は“なになに市”とか“市内”をいれるだろうが…」
「どうも投函は市内とみていいようだな。それに消印は八月二十五日だ。ミランダの失踪の七日前か…。奥さんはこの後、丸山医院にたしかめに行かれたんですね?」
「はい。ずいぶんと迷いましたが、手紙を受け取って二日後の、たしか二十七日に丸山医院に行きました。主人の話では、ミランダさんは主人の知り合いの妹さんでした。調べていただければ分かります」
「やはりそうでしたか」、木暮は大きく頷き言った。
そしてペンを走らす塚本を見て言った。
「こんな事を言ってはなんだが、県警も外事課も、フィリピン時代の松田君の周辺を調べ尽くしたとは思えないんだよ」、木暮は、そこまで言うと麗子の顔を見た。
「木暮さん、何でもおっしゃって下さい。主人を助けるためですから」
「分かりました。なあ塚本、調べではミランダの姉のスーザンという女性は自殺だそうだが、失恋などの理由とは思えないんだよ。それがこの事件の根底にあるんじゃないだろうか」
「と、言うと?」
「現地警察が知らない事実があるのでは…、ということだよ。たとえばスーザンが死に至る経緯とか、明かされなかった遺書などだよ」、机の上の手紙を見て木暮は言った。
「だがな、先方は明快に応えたそうだ。単なる失恋だとな。それに彼女が身を投げるのも目撃されているそうだ。ま、奥さんの前ですが、いずれにしても今から十四年も前の事件を蒸し返すには、相当の確証がなければ先方も『うん』とはいわんだろう。とにかくこの手紙が先決だ。奥さんこれはお預かりします。俺は署に戻る。君はどうする?」、塚本は、手紙をハンカチに包みながら木暮に言った。
本来なら、麗子に聞かせる必要のない会話だったが、この場合はやむを得ないし、むしろそのほうが麗子にとっても安心できるはずだったろう。
木暮は塚本に、
「もう少しここで話がある。後で県警に寄るよ」と応えると、急ぎ足で松田興業を出る塚本の後ろ姿を見送り、膝を進めて麗子に訊いた。
「麗子さん、あの手紙を出すような人間に心当たりは? どんな些細なことでも構わないんですが」
「ええ、私もこのことはだいぶ考えたのですが、正直言って見当どころか、なぜこんな事件に巻き込まれなければならないのかさえも分からないんです。主人は苦労してここまで事業を大きくしましたが、それでも、他人に恨みを買うような人ではありません」
「先ほどのスーザンの件ですが…、誠一君からお聞きになったそうですが、それを同じように誰かが知っていたという形跡はないでしょうか? これはとても重要に思えるんです」
「ええ…。亡くなったスーザンさんと主人のことは、結婚前に知りました。同じ会社の同僚だと主人から聞いています。でもそれ以上のことは知りません」
「そうすると、彼女の家族のことなどは?」
「何も聞かされてはおりません。ですから、妹さんのことさえ今日初めて知りました」
木暮は、その後二、三の質問をし、
「何かを思い出したらすぐに連絡を頼みます」と言い残してその足で塚本の待つ県警に引き返した。
 木暮の目的は、すでに決まっていたのである。

一時間後、木暮と工藤は、塚本と共に県警本部の取調室にいた。
灰色がかった床と天井とそして壁だけの、 およそ部屋とは言い難い、なんの飾り気もない四畳半ほどの部屋である。
まさに窓一つない牢獄の感があった。
その牢獄内で、机を挟む木暮の目の前に三羽がらすと呼ばれた青白い顔の親友の一人がいた。
その友人を見たとき、木暮は強い自責の念を覚えた。
刑事という自分の職業を誇りにしていた男が…、である。
二人の傍にいるのは塚本と工藤、それと調書に向かう刑事だ。
「上原…元気かい? こんなところでお前さんと会うことになるとは考えもしなかったぞ…」
木暮の声は、上原の顔と同じように沈痛な響きを持っていた。
誠一の立場と警察のそれも十分すぎるほど分かっているつもりだった。
が、心の中は、犯罪者扱いをしなければならない自分をも含めて、同業者に対しての言い表せない気持ちが、木暮にそう言わせたのかも知れない。
「すまん。みんなに迷惑を掛けて…」
「並木も心配して京都に志帆さんと行ったよ。お陰で貴重な情報が得られた。なあ、上原。そろそろあんな訳の分からないアリバイの説明や、フィリピンでの事を正直に話してくれてもいいだろう。お前さんも麗子さんも、お互いが庇いあって話がこじれたんだ」
「ああ。僕も妻も、お互いの行動が掴めないまま疑心暗鬼に苦しんだ。先ほど刑事さんから手紙の件が事実だと聞いたよ」と、誠一は話し始めた。
「かれこれ一年ほど前になる、昨年の十二月だった。ダンサーの募集でマニラに行ったことは話したはずだが、そのオーデションでミランダに初めてあったんだよ。最初、彼女に会ったときは、信じられないものを見たような気がした。死んだスーザンに顔つきから声までそっくりだったからね。…まるで瓜二つだった。だが、提出されていた身上書と住所から、妹とは思わなかった。ミランダはルソン島のバギオの出身で両親もいたし、歳もスーザンとはだいぶ離れていた。スーザンはミンダナオ島生まれだからね…。考えもしなかった」
「世の中には似た顔をした人間が三人はいるというからな。それに、どんなに親しくても言えないことだってあるさ」、木暮は無意識の内に、三羽がらすと言われた自分たちのことを口にしていた。
「恥ずかしい話だが、僕はつき合っていた恋人のことをほとんど知らなかった。家族のことにしても…そのうち紹介するとの言葉を信じてね。だいぶ後でミランダに聞いて知ったんだが、スーザンは家族がミンダナオ島にいると言っていたが、実際は母親は男と逃げ、幼い二人の妹ーミランダとソフィアーの双子の妹は施設に入っていたんだ。スーザンはマニラで働きながら施設に金を送っていたそうだ。スーザンが死んだあとだが、彼女の母親も下の妹のソフィアもスーザンを追うように亡くなったそうだ。その後、ミランダはバギオの現在の両親の養女として育てられた。彼女が七歳の時だよ」
「そうか…」とだけ、木暮は言った。
木暮も凄まじいばかりの貧困の中で生きる、そうした人々のことは聞いたことがあり、おおよその想像はついたのだ。
そのとき木暮は、誠一の目にうっすらと何かが盛り上がるのを見て、慌ててポケットに手を突っ込んだ。
「上原、やるか? しばらく吸っていないんじゃないのか?」
上原は軽く頭を振り、続けた。
「別にスーザンが彼女に重なったわけではないが、事業で失敗した両親に送金したいというミランダは好感が持てたし、踊りも上手く、採用して広島に来たんだよ。だが、スナックでの歓迎会の席で彼女が僕に妙なことを訊いたんだよ」
「妙なこと?」
「ああ。ミランダは『社長さんは松田さんですが、広島にはそのように“M”で始まる名前、たとえば“的江”さんと言うような名は多いのですか?』と訊いたんだよ」
「なに! ミランダが『的江』と言ったのか!」
驚いて言った木暮はもとより、塚本も工藤も耳を疑うような表情である。
調書を執る刑事も手を止めた。
「心臓が止まるかと思ったよ。間違いなくそう言ったんだよ、『的江』とね」
「それでお前さんはどうしたんだ!」
「当然驚いて、聞き返した。『なぜそんな名前に関心があるのか』ってね。僕は彼女に、幼い頃の名など言ったこともないし、ここ数十年口にも出したこともない。知っているのは僕の家族とスーザンだけだ」
「それで彼女はなんと?」
「ミランダはこう言ったんだよ。『じつは、私の姉が以前つき合っていた日本の人が、的江と言う名前だったらしいのです。その姉も十四年ほど前に亡くなりましたが、死ぬ少し前に私のいた施設の寮母さんに手紙を書いていました。でも、ほんの僅かな文面でしたし、当時の私は幼くて、さほど気にもとめてはいませんでした…。 現在の両親の下に引き取られてしばらくして、偶然その手紙を見つけたのです。その中に書かれていたのは、好きな人がいたけれど、ある人のためにすべてが終わったとありました。そして、広島出身のその恋人の名は、日本語で、的江と…。もちろん私は漢字が読めるわけではありませんから日本語が分かる友人に訊いて知ったのですが。亡くなった姉は、私が学校に行けるだけのお金を残してくれました。優しい姉でした。私は、姉が亡くなった事情をその的江という人が知っているのではとずっと考えてきました。だから日本に来たらその的江さんという人を探したかったんです』とね」
「ミランダが、ある人のためにすべてが終わったと、言ったんだな? それでお前さんはなんと答えたんだ?」
「話がその場に合うはずがないし、席を変えたよ」
「ところで、その場には誰が居合わせたんだ。会社以外の客もいたんだろ?」
なぜか木暮は、癖である下唇をつきだして訊いた。
「ああ。数人の客がいたように覚えている。だけど、常連ではなさそうだったが」
「そうか…松田興業は全員かい?」
「僕とミランダたちの他には、専務の向居さんと経理部長の都村さんだった」
「麗子さんは?」
「家内はいなかったが」
「その店はよく行くのか」
「毎回こうした席で使うし、商談にも使う信頼の置ける店だが、なぜそんなことを?」
誠一は、木暮のねらいが分からなかった。
「向居さんか…。もちろんその話は、向居さんも聞いていたんだろうね」
「席を変えるまでは聞いていたと思うが…。待てよ…」
誠一は言葉を止めた。何かをたぐり寄せるような表情である。
「どうしました? 何かあるですか」、今度は塚本が訊いた。
「ええ…。いま思えば、僕たちが席を変えるまではリーダーのラナを始め、皆で賑やかにしていたようでしたが、その後は、しきりと僕とミランダを見ていたような…」
「あなたとミランダさんの話が気にかかる、といったような?」
言いながら、塚本の目は木暮を見た。
木暮の目も、塚本と同種の目の色であった。
「…そうですね。…そう言われれば、そんなような…」
「席を替わってから、彼女はほかに何か言ったのか?」
木暮が代わって訊いた。
「ミランダは、『的江と言う人は、姉と同じマニラの旅行代理店に勤めていたらしいんですが、私がマニラに出た頃には日本に帰国していたようでした。ですからその後のことは分かりませんが、でもなんとしても会って訊きたいことがあるんです。社長さんと同じ頭文字が“M”と言う人のことを知りたいんです』と言っていたが」
「M? 的江に会ってMを探すか…、間違いなくそう言ったんだな!」
木暮は、Mというアルファベットに力を込めて聞き返した。
彼は、この言葉がとてつもない意味を含んでいることに気がついたのである。
木暮はこの言葉を口の中で何度も呟いていた。
もちろん塚本も同じであった。
「松田さん、おたくの向居さんですが、確かフィリピン時代はあなたの上司でしたね。どのような方なのですか?」、塚本がさりげなく訊いた。
「向居ですか?」
応えた誠一は一瞬後に、
「まさか! あの人も頭文字は、Mだ」と叫んだ。
塚本は、素早く部下の刑事に目配せした。
頷き返し、ドアから飛び出すようにして出ていく刑事を目で送り、塚本が再び誠一に尋ねた。
「松田さん、これからお聞きするのは、あくまでも参考程度と思ってください。Mと言う男が、あなたやミランダさんに敵意を持っていたということはありませんか?」
「敵意? 刑事さん、それは…向居さんの事でしょうか?」
誠一は、先ほど向居の名を言ってはみたものの、天涯孤独といった心境で渡航した異国で、自分を助けてくれた恩人とも言える向居を、悪く言う気持ちなど小指の先ほども持ってはいない。
事実、現在も松田興業の発展に並々ならぬ力を注いでいる男でもある。
「いや。あくまでもあなたの周辺の方で、ですが」と、塚本はさらりとかわして応えた。
今、木暮も塚本と考えは同じだった。
 向居は、誠一とスーザンの関係を知っていただろうし、誠一のかつての姓が的江と知り得る立場にもあるからだ。
「ところで、ミランダの妊娠を知ったのは何時なんだ。それと、知っている人間がお前さん以外にいたのか?」
「いや。僕以外には知らなかったはずだ。ミランダからうち明けられたのは、日本に来てからふた月ほど経った頃だった」
「相手の男のことは?」
「それは知っている。相手は彼女の恋人だよ。彼女から聞いた」
「恋人の子か。じつはな…、上原」
小暮のその言葉が、口ごもるようような響きをしていると感じたのは、上原だけではなかったろう。
木暮は、座っていた椅子から立ち上がって上原に背を向けた。
「?」、上原は釈然としない様子で塚本と工藤の顔を見た。
木暮はある葛藤と戦っていたのだった。
だが、「警部…」と促す工藤の声で、木暮は意を決したように振り返って言った。
「気を悪くしないで聞いてくれ。彼女は…、スーザンが妊娠していたのを知っていたかい?」
「スーザンが! まさか!」、その驚きは尋常ではなかった。
三瓶から広島に来る途中、木暮は新たな事実を知らされていたのだ。
発信源は外事課だった。
上原は木暮と同じように立ち上がり、親友を睨み付けるように言った。
「そんな馬鹿な!」
「すまん! 言いたくはなかった。だが、お前さんも知らない事実があったことは確かなんだよ。それが彼女の自殺に関係があるようなんだ」
「そんな…」、上原はそう言うと、放心したかのように椅子に腰を落とした。
木暮は堅く口を結んで、力無く机の一点を黙って見つめる親友を見ていた。
 木暮は一歩一歩、核心に迫っている感触と匂いを、誠一の驚きと失意の中にとらえていた。
一見、とぼけた顔をもつ警部ではあったが、その心は並木と同じほど温かで、なんとしても三羽ガラスの一人・上原誠一を救うことで必死であった。