三瓶山徒然だより  
  このコラムは、
SANBE FIELD MUSEUM NEWS に掲載されたものの転載です。

連載2回目

     駄番小屋

 親・子・孫と仲良く並ぶ三瓶山のすそ野で、牧場の放牧牛が草をはむ姿を見かけると、40年も前のことを想い出します。広大な芝草原として知られる西の原と呼ばれる草原脇に県道があります。急な勾配を下る途中からは、遠くに日本海も望め、今も昔も三瓶地区の主要な道路のひとつです。かつてこの道路沿いには、駄番小屋と呼ばれる小さな建物がありました。駄番小屋とは、放牧地の草原から逃げ出す牛を見張るために置かれたもので、木戸番という人が待機していました。放牧された牛たちは自由気ままにあちらこちらを動き廻り、大田市へと通じる坂道を降りる牛も多かったのです。
ずいぶんと前のことで、はっきりとした形は覚えてはいませんが、小屋の前には梯子を横にしたような形のゲートが道路を横切るように置かれ、車が来ると開けられました。もっとも、道路上に牛がいると、ゲートは開くことはありませんでした。今では信じられないような話ですが、車より牛が優先だったのです。
この駄番小屋がその役目を終える日を迎えたのは、牛たちに田を耕させていた地元農家の機械化が進み、牛たちの姿が驚くほど減り始めた頃でした。放牧の最盛期には、三瓶のすそ野のほとんどの家で牛を飼っていて、およそ2000頭もいました。私の家にも大きな牛がいて、出産に驚いたり、餌の草を刈る手伝いもしました。「朝草刈り」と呼ぶこの作業は、夜が白々と明け始める早朝にしましたが、今ではこうした光景を見ることもありませんし、「モー」という牛の声も聞くこともありません。集落から離れた牧場以外には、私の住む地区では牛を飼う農家は一軒もないからです。田んぼはトラクターが耕し、コンバインが仕事をします。姿・形の何一つ残ってはいない駄番小屋のあった前を通りかかるたび、当時のことがまざまざとよみがえります。
               (文・写真 管理人)

写真は、別のものと差し替えております。
 
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